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第三章-1 尾道の夜は、嘘を隠すには明るすぎる

 夕方の尾道は、ゆっくりと色を変えていった。


 部屋の窓から見える海は、昼間の青さを少しずつ失っていた。白く光っていた水面が、薄い金色になり、その下に灰色が混じる。向島の家並みには早くも影が差し始め、山の斜面に重なった建物の輪郭が、さっきよりも濃く見えた。


 僕は畳の上に座ったまま、しばらくその景色を見ていた。


 この部屋は、何の変哲もない和室だった。


 六畳ほどの畳。低い机。座布団。押し入れ。古いエアコン。窓際の小さな椅子。旅行サイトに載せれば、「昔ながらの宿」とでも説明されるのだろう。


 けれど、僕にはただの部屋には見えなかった。


 十年前、澪が眠れなかった部屋。


 藤野さんはそう言った。


 眠れなかった、という言葉が妙に残っている。


 隠れていた部屋、ではない。

 泊まった部屋、でもない。

 眠れなかった部屋。


 つまり、ここにいた誰かは夜を越えられなかったのではなく、夜を越えようとしていたのだ。


 僕は鞄を開けた。


 中から、祖母のノートを取り出す。続いて、村上老人から受け取った紺色の上着。藤野さんから渡された封筒。半券。地図。


 畳の上に並べると、それらは妙に少なく見えた。


 これだけか、と思う。


 十年前に起きたことを知る手がかりは、たったこれだけ。古いノートと、上着と、封筒と、かすれた半券と、祖母の字で書かれた地図。


 けれど、少ないからこそ、一つ一つが重かった。


 上着には、特別な印があるわけではない。名前も、血の跡も、破れもない。ただ、古びた紺色の上着だ。どこにでもありそうで、誰が着ていても目立たない。


 それが、かえって怖かった。


 目立たないための服。


 誰かが誰かであることを隠すための服。


 祖母のノートには、こうあった。


古い店の前で、上着を受け取る。

名前を呼ばれても、返事をしない。


 僕は上着に手を触れた。


 布は乾いていて、少し硬かった。十年も経てば、誰かの体温なんて残っているはずがない。けれど、指先に触れた瞬間、写真の中の少女を思い出した。


 灯台の下で、髪を風に押さえていた少女。


 相原澪。


 十六歳。


 僕とほとんど同じ年だった少女。


 彼女はこの上着を着て、名前を呼ばれても返事をしなかったのだろうか。


 それはどんな気持ちだったのだろう。


 自分の名前に反応しないというのは、自分を一度捨てることに似ている。呼ばれたら振り返る。返事をする。たったそれだけのことが、自分が自分である証拠みたいなものだから。


 澪は、それをしなかった。


 しないように、誰かに言われた。


 祖母に。


 僕はノートを開いた。


 ページの端は、何度もめくられたせいか柔らかくなっている。祖母はこのノートを何度も見返したのだろう。旅の前か、旅の後か、あるいは十年の間ずっとか。


 尾道のページを探す。


夜は、嘘を隠すには明るすぎる。

坂の上に灯りが残る。

海は暗くなる前に、こちらを見る。

あの子が眠れないなら、窓を閉めること。


 最後の一文で、手が止まった。


 あの子が眠れないなら、窓を閉めること。


 さっきまで何気なく開けていた窓を見た。


 外からは、海の音というほどはっきりした音は聞こえない。けれど、船のエンジンの低い響きや、坂道を歩く人の声や、遠くの車の音が薄く混じって届いている。


 夜になれば、もっと静かになるのだろうか。


 それとも、静かになるからこそ、海の音が聞こえるのだろうか。


 澪は、その音が怖かったのかもしれない。


 海で消えたことになった少女が、海の見える部屋で一夜を過ごす。


 それは、どんな罰みたいな時間だったのだろう。


 僕は立ち上がり、窓を閉めた。


 がらり、と古い窓が音を立てる。


 外の音が少し遠のいた。


 部屋は急に狭くなった気がした。


 僕は畳に戻り、封筒の中の地図を広げた。


 尾道駅前。重井東。瀬戸田。港。喫茶店。灯台。


 線は正確ではない。地図というより、記憶を辿って書いたものに見えた。けれど、祖母にとって重要な場所だけは、迷わず書かれている。


 瀬戸田の喫茶店の横には、あの一文。


この店で、あの子は一度だけ笑った。


 僕はその字を指でなぞりかけて、やめた。


 祖母は、澪の笑顔を覚えていた。


 それだけなら、祖母は優しい人だったと思える。


 でも、その同じ祖母が、帳簿に残らない宿泊者を作った。濡れた少女をここに入れ、翌日には船と港と灯台を指定した。陸路を選ぶな、と書いた。


 優しさと嘘が、同じ字で書かれている。


 それが、どうしても苦しかった。


 僕はスマホを手に取った。


 母へ電話する約束をしていた。


 画面には、さっきのメッセージが残っている。


夜なら大丈夫。まだ整理できてないけど、少し話す。


 時刻を見ると、午後五時を少し過ぎていた。


 夜というには早い。けれど、夕方ではある。


 かけるべきか迷っていると、先に母から着信が来た。


 僕は少しだけ息を整えてから、通話を押した。


「もしもし」


『湊? 今、大丈夫?』


「うん」


『尾道、どう?』


 その聞き方があまりに普通で、僕は少しだけ返事に詰まった。


 尾道、どう。


 海が近い。

 駅から本当に三分で桟橋に着いた。

 向島へ五分で渡れた。

 祖母を知っている老人に会った。

 十年前に海で消えた少女の話を聞いた。

 今は、その少女が眠れなかった部屋にいる。


 どれも本当だ。


 でも、どれから言えばいいのか分からない。


「海が近い」


 結局、最初に出たのはそれだった。


『そう』


「駅を出たら、すぐ海だった。おばあちゃんのノートの通り」


『ノートの通り、行ったの?』


「うん。向島にも渡った」


 電話の向こうで、母が息を飲む気配がした。


『何か、分かった?』


「おばあちゃんを知ってる人に会った」


『尾道で?』


「向島で。村上さんっていう、昔商店をしてた人」


『村上……聞いたことない名前』


「たぶん、お母さんは知らないと思う」


『そう』


 母の声が少し沈んだ。


 知らない祖母の知人。


 それだけで、母には十分重いのだろう。


「あと、今はおばあちゃんが昔泊まった宿にいる」


『え? 今日泊まる予定のところ?』


「違う。村上さんに教えてもらった。宿の女将さんが、おばあちゃんのことを覚えてた」


『湊』


 母の声が、少し硬くなった。


『何があったの』


 僕は畳の上の上着を見た。


 言うべきか迷った。


 けれど、全部黙っているのは違う気がした。


「十年前に、相原澪っていう女の子が海で消えたらしい」


 電話の向こうが静かになった。


 僕は続けた。


「おばあちゃんは、その子と関わってた。たぶん、助けようとしてた。でも、何かを隠したみたいでもある」


『隠した?』


「まだ分からない。だから、ちゃんと説明できない」


 母はしばらく黙っていた。


 怒るかと思った。心配して、もう帰ってきなさいと言うかもしれないとも思った。


 でも、母は小さく言った。


『そう』


 その声は、驚くほど静かだった。


『おばあちゃん、やっぱり何かあったんだね』


「やっぱり?」


『ううん。確かなことは何も知らないの。ただ、時々、変だったから』


「変?」


『尾道の話になると、急に黙ることがあった。テレビで瀬戸内の港が映っただけで、部屋を出ていったこともあった。私は、旅行の思い出が懐かしいのかと思ってた』


 初めて聞く話だった。


 母も知らなかった。

 でも、何も感じていなかったわけではない。


『でも、聞かなかった』


 母はそう言った。


『また今度でいいと思った。いつか話してくれると思った。そうしているうちに、聞けなくなった』


 僕は何も言えなかった。


 それは、僕が葬儀の日から感じていた後悔と似ていた。


 近くにいたからこそ、いつでも聞けると思っていた。


 そして、聞く前にいなくなった。


『湊』


「うん」


『危ないことはしないで』


「しない」


『でも、帰ってこいとは言わない』


「……いいの?」


『おばあちゃんのこと、私も知りたいから』


 母の声が少し震えた。


『怖いけど、知りたい』


 僕は窓の方を見た。


 閉めた窓の向こうで、夕方の光がさらに薄くなっていた。


「分かったことがあったら、また話す」


『うん。無理しないで。あと、ちゃんとご飯食べて』


「分かった」


『本当に分かってる?』


「分かってる」


 そこで少しだけ、いつもの母との会話に戻った。


 電話を切ると、部屋はさっきより静かだった。


 母に話したことで、現実味が増した。


 相原澪。

 祖母の嘘。

 尾道の宿。


 僕一人の中にあったものが、母にも少し渡ってしまった。


 でも、それでよかったのだと思う。


 祖母のことを知るのは、僕だけの仕事ではない。


 母にも、知らないまま残された時間がある。


 廊下の方から、かすかに足音がした。


 藤野さんではない。もっと軽い、別の客の足音かもしれない。部屋の前を通り過ぎ、階段の方へ遠ざかっていく。


 この宿は、今も普通に営業している。


 誰かが泊まり、誰かが夕食を食べ、誰かが明日の観光の話をする。そんな普通の宿の一室で、十年前の少女は眠れなかった。


 その普通さが、かえって生々しかった。


 僕は上着を畳み直し、ノートの隣に置いた。


 夜になれば、藤野さんが来る。


 そして、あの夜のことを話すと言った。


 祖母がどういう嘘をついたのか、少し分かるとも。


 知りたい。


 でも、知るのが怖い。


 その二つが、胸の中で同じ大きさになっていた。


 窓の外で、どこかの船が低く鳴った。


 僕は閉めた窓を見つめた。


 祖母は書いていた。


あの子が眠れないなら、窓を閉めること。


 僕は、閉じた窓の向こうにいる海へ、小さく息を吐いた。


 夜が、少しずつ尾道に降りてくる。


 それでもこの町は、完全には暗くならない気がした。坂の上にも、港にも、海沿いにも、誰かの灯りが残る。


 嘘を隠すには、明るすぎる夜が来る。

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