第三章-2 尾道の夜は、嘘を隠すには明るすぎる
夜になっても、尾道は完全には暗くならなかった。
窓の外には、点々と灯りが残っている。坂の上の家。海沿いの店。向こう岸の窓。道路を走る車のライト。昼間より輪郭は曖昧になったのに、町のどこに人がいるのかは、かえって分かりやすくなった気がした。
嘘を隠すには明るすぎる。
祖母のノートにあった言葉を、僕は何度も思い出していた。
午後七時を少し過ぎた頃、部屋の戸が控えめに叩かれた。
「湊さん」
藤野さんの声だった。
「はい」
僕が返事をすると、戸が開いた。
藤野さんは、盆に湯呑みを二つ載せて入ってきた。昼間と同じ落ち着いた表情だったが、部屋に足を踏み入れた瞬間、ほんの少しだけ目が揺れた。
この部屋に入るのが、楽ではないのだろう。
僕は畳の上に広げていたノートと上着を、少し端へ寄せた。
「すみません、散らかして」
「いいえ」
藤野さんは低い机の上に湯呑みを置いた。
「千代さんも、ここにいろいろ広げていました」
「この部屋で?」
「ええ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
祖母は、ここにいた。
ただ泊まったのではない。僕と同じように、何かを広げ、考え、決めようとしていた。
藤野さんは、閉じた窓を見た。
「窓、閉めたんですね」
「ノートに、そう書いてあったので」
「そうですか」
藤野さんは、少しだけ目を細めた。
「澪さんは、あの夜も窓を怖がっていました」
「窓を?」
「海が見えるからです」
僕は閉じた窓を見た。
今は、窓ガラスに部屋の灯りが映り込んでいて、外はほとんど見えない。
「海で消えたことになったから、ですか」
「いいえ」
藤野さんは静かに首を横に振った。
「あの時は、まだ消えたことにはなっていません」
僕は息を飲んだ。
「これから、そうなるところでした」
これから、そうなる。
つまり、この部屋にいた澪は、まだ相原澪だった。けれど、ここを出た後、彼女は海で消えた少女になる。
その境目に、この部屋がある。
「十年前の夜、千代さんは何時頃ここへ?」
「八時を少し過ぎた頃だったと思います」
「夜ですね」
「ええ。予約は一人でした。千代さんは夕方に一度来て、荷物を置いて、また出ていきました。そして夜、戻ってきた」
「澪さんを連れて」
藤野さんは頷いた。
「澪さんは、ずぶ濡れでした。髪も、服も、靴も。けれど、震えていたのは寒さだけではなかったと思います」
僕は畳の上の紺色の上着を見た。
「その時、この上着を?」
「その上着は、ここへ来る前に着ていたものです。ここで別の服に着替えました」
「別の服?」
「千代さんが用意していました。旅行用の替えの服に見えるものを」
旅行用。
その言葉が、また引っかかる。
祖母は、どこまでも旅行者の顔を使っていた。
「藤野さんは、すぐに事情を聞いたんですか」
「聞きました。でも、千代さんは最初、詳しく言いませんでした」
「どう言ったんですか」
「この子は今夜ここにいません、と」
僕は意味が分からず、藤野さんを見た。
「ここにいるのに?」
「ええ。ここにいるのに、いないことにしてほしい、と」
「それで、帳簿に一人と書いた」
「そうです」
藤野さんの声は静かだった。
でも、その静けさがかえって重かった。
「どうして従ったんですか」
僕は聞いた。
「普通なら、警察とか、役所とか、そういうところに」
「そうですね」
「じゃあ、どうして」
藤野さんは少し黙った。
「澪さんが、言ったんです」
「何を」
「戻されたら、今度こそ出られなくなる、と」
その言葉は、畳の上に落ちるようだった。
「相原家に?」
「ええ」
戻されたら、出られなくなる。
その一文だけで、僕はそれ以上を聞けなくなった。
殴られたとか、閉じ込められたとか、そういう分かりやすい言葉ではない。けれど、澪にとってそこは、戻れば終わる場所だったのだ。
「千代さんは、澪さんの言葉を信じたんですね」
「ええ」
藤野さんは頷いた。
「澪さんが『助けて』と言った。千代さんは、それを疑わなかった」
祖母らしい、と思った。
同時に、危ういとも思った。
誰かの助けて、を疑わない。
それは優しさかもしれない。
でも、その優しさが、嘘や隠蔽に向かうこともある。
「澪さんは、この部屋で何をしていたんですか」
「泣いていました。泣いて、謝っていました」
「誰に」
「千代さんに。私に。たぶん、ここにいない誰かにも」
「どうして謝るんですか」
「自分が逃げるせいで、みんなに迷惑をかけると思っていたからです」
僕は何も言えなかった。
十六歳の少女が、ずぶ濡れでこの部屋にいて、知らない大人たちに謝っている。
その姿を想像すると、胸の奥が苦しくなった。
「千代さんは、何て言ったんですか」
藤野さんの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「怒っていました」
「怒って?」
「ええ。澪さんにではありません。謝らせるような状況に、です」
祖母が怒るところを、僕はほとんど見たことがない。
僕の知っている祖母は、いつも少し笑っていた。母に注意されても、困ったように笑う人だった。
でも、ここには違う祖母がいた。
「千代さんは言いました。『逃げる子が謝らなくていい。謝るのは、逃げ道を塞いだ大人の方です』と」
その言葉が、胸に刺さった。
祖母の声で再生しようとしても、うまくできなかった。僕の知っている祖母は、そんな強い言葉を言う人ではなかったからだ。
でも、言ったのだ。
この部屋で。
澪の前で。
「それから、どうしたんですか」
「澪さんを着替えさせました。濡れた服は別の袋に入れて、上着は村上さんが預かることになった。私は帳簿を書き換えなかった。部屋には、千代さん一人が泊まったことにした」
「祖母は、事件を隠したんですか」
言ってしまってから、胸が痛くなった。
藤野さんは否定しなかった。
「千代さんは、澪さんを守ろうとしました」
「でも、隠したんですよね」
「ええ」
藤野さんは、まっすぐに認めた。
「守ることと隠すことは、時々とても似ています」
僕は黙った。
「私たちは、その違いを分かっていたつもりでした。でも、十年経っても、まだ分からないことがあります」
「私たち?」
藤野さんは、そこで口を閉じた。
その沈黙で、僕は察した。
祖母だけではない。
村上老人だけでもない。
この人も、あの夜の嘘に関わっている。
「藤野さんも、祖母の嘘に関わったんですか」
「私は、宿の帳簿に一人と書きました」
それは、肯定だった。
僕は急に、祖母が遠くなった気がした。
優しかった祖母。
旅行好きだった祖母。
その祖母が、誰かを隠し、嘘をついた。
でも、藤野さんは静かに続けた。
「ただ、千代さんは澪さんを死なせるために嘘をついたのではありません」
「じゃあ、何のために?」
「逃げ道を作るためです」
藤野さんは、畳の上の封筒を見た。
「そのための旅程が、あれです」
僕は封筒の文字を思い出した。
十二時四十分。
海から行くこと。
陸路を選んではいけない。
「明日、その船に乗れば分かりますか」
「少しは」
「全部じゃなくて?」
「全部知っている人は、たぶんもういません」
それは、村上老人と同じ言葉だった。
全部知っている人間なんか、おらん。
「でも、瀬戸田へ行けば、澪さんが一度だけ笑った場所があります」
「喫茶店ですか」
「ええ」
藤野さんは頷いた。
「あの店の人なら、私より先のことを知っています」
「その人も、嘘をついたんですか」
「ええ」
藤野さんは小さく息を吐いた。
「私たちは、同じ嘘をついたわけではありません。それぞれが、自分の場所で、違う嘘をついたんです」
同じ嘘ではなく、違う嘘。
その言葉は、後から効いてくる気がした。
藤野さんは立ち上がった。
「今日は、ここまでにしましょう」
「まだ聞きたいことがあります」
「あるでしょうね。でも、明日海から行けば、今日聞くより分かることがあります」
急ぐと、旅に見えなくなる。
言われなくても、その言葉が浮かんだ。
「夕食、あとで持ってきます。食べられそうですか」
「はい。たぶん」
「たぶんではなく、食べてください。千代さんも、澪さんに同じことを言っていました」
そう言って、藤野さんは少しだけ笑った。
その笑顔は、初めて祖母の思い出話らしかった。
藤野さんが部屋を出ていく。
僕は一人になった。
部屋の中は静かだった。窓は閉まっている。海の音は遠い。
でも、さっきよりもはっきりと、ここに二人の気配が残っているように感じた。
ずぶ濡れで謝っていた澪。
その前で、謝らなくていいと怒った祖母。
僕は畳の上のノートを開いた。
夜のページの最後に、小さく一行だけ書かれていた。
あの子が眠ったら、嘘を朝まで預かること。
その字を見て、僕はしばらく動けなかった。




