第三章-3 尾道の夜は、嘘を隠すには明るすぎる
夕食は、思っていたより普通だった。
焼き魚と味噌汁。小鉢に入った煮物。白いご飯。漬物。宿の食事としては、たぶん特別ではないのだろう。けれど、さっきまで十年前の濡れた少女と、祖母の嘘の話を聞いていたせいで、その普通さが少しだけありがたかった。
食べられるか分からないと思っていたのに、箸をつけると空腹だったことに気づいた。
僕はちゃんと食べた。
たぶんではなく、食べてください。
藤野さんの言葉を思い出したからだ。
祖母も、澪に同じことを言ったという。
逃げる子が謝らなくていい。
食べなさい。
眠りなさい。
朝まで嘘を預かるから。
そんな祖母を、僕は知らなかった。
でも、知らなかったからといって、その祖母がいなかったことにはならない。
食事を終えてしばらくすると、藤野さんが食器を下げに来た。
「少しは食べられましたね」
「はい」
「よかった」
それだけ言うと、藤野さんはそれ以上話を広げなかった。僕も聞かなかった。聞きたいことはたくさんあったけれど、今はもう、言葉を増やすほど頭の中がほどけなくなる気がした。
廊下の足音が遠ざかる。
部屋に一人になると、夜は急に深くなった。
窓は閉めたままだ。外の音は遠い。それでも、完全に静かではない。遠くの車。どこかの部屋の戸が閉まる音。海の方から届く、低く曖昧な響き。
僕は低い机の前に座り、鞄の中身をもう一度並べた。
青いノート。
紺色の上着。
封筒。
古い半券。
手描きの地図。
この宿へ来た時より、少しだけ意味が変わっている。
上着は、澪がここへ来る前に着ていたもの。
封筒は、翌日の導線。
半券は、祖母が実際にその船に乗った痕跡。
地図は、澪を逃がすための道。
たぶん、そうだ。
まだ断言はできない。
藤野さんは、嘘をついた人間の言葉をそのまま信じるなと言った。なら、藤野さんの話も、村上老人の話も、祖母のノートも、全部を少しずつ疑う必要がある。
けれど、疑うことと、信じないことは違う。
僕は半券を手に取った。
紙は薄く、端が擦れていた。印字はところどころかすれているが、数字の一部だけは読める。
十二時四十分。
封筒の表と同じ時刻。
祖母は、その時刻をただ覚えていたのではない。半券を残していた。つまり、実際にその船に乗った。あるいは、乗ったことにした。
降りたことにする。
その言葉が頭に浮かぶ。
半券は、証拠なのだろうか。
それとも、偽装なのだろうか。
僕はスマホで、翌日の航路を調べた。
尾道駅前から瀬戸田方面へ向かう船。重井東。瀬戸田。祖母の地図にある名前と同じものが、画面の中に並ぶ。
十二時四十分。
あった。
画面の数字を見た瞬間、背筋が少し冷えた。
十年前の祖母のメモと、今の時刻表が完全に同じ意味を持つわけではない。時刻表は変わる。船も、港も、運航状況も、十年あれば変わるはずだ。
それでも、今も同じように海から行ける。
読んでいた道が、明日歩ける道になった。
いや、歩くのではない。
海を行く。
陸路を選んではいけない。
僕は地図を広げた。
尾道駅前から線が伸び、重井東へ向かい、さらに瀬戸田へ続いている。途中の線は正確ではない。けれど、祖母が何を重要視していたかは分かる。
駅でも、観光名所でもない。
港と船と、降りたことにする場所。
なぜ重井東だったのか。
なぜ瀬戸田で待つ必要があったのか。
なぜ灯台は港から見えないことが重要だったのか。
そして、なぜ十七時の船を見送らなければならなかったのか。
疑問は増えるばかりだった。
でも、今日までとは違う。
明日、僕はその道を辿ることができる。
祖母が見た海を、同じ方向から見ることができる。
澪が逃げたかもしれない経路を、実際に進むことができる。
それは少し怖くて、同じくらい強く、僕を引っ張っていた。
スマホが震えた。
母からだった。
今日はもう休んで。明日、無理しないでね。
短い文だった。
僕は少し考えて、返信した。
明日、十二時四十分の船に乗る。おばあちゃんのメモにあった。海から行く。
送ってから、これだけでは意味が分からないだろうと思った。
けれど、すぐに母から返事が来た。
気をつけて。
おばあちゃん、船が好きだったから。
船が好きだった。
その言葉を見て、胸が少し痛んだ。
母にとっては、まだその程度の記憶なのだ。祖母は船が好きだった。尾道が好きだった。一人旅が好きだった。
その裏に、誰かを逃がすための航路があったことを、母は知らない。
でも、たぶん祖母は本当に船が好きだったのだと思う。
逃げ道に使ったから好きだったのではなく、好きだった海と船を、逃げ道に変えた。
その方が、ずっと苦しい。
僕はノートを開いた。
第三章の終わりにあたるようなページを探すわけではない。ただ、祖母の字をもう一度見たかった。
夜は、嘘を隠すには明るすぎる。
坂の上に灯りが残る。
海は暗くなる前に、こちらを見る。
あの子が眠れないなら、窓を閉めること。
あの子が眠ったら、嘘を朝まで預かること。
そして、その下。
小さく、ほとんど余白に紛れるように、もう一行あった。
朝になったら、嘘を旅に戻す。
僕はその一文を、何度も読んだ。
嘘を旅に戻す。
その意味は、まだ分からない。
けれど、明日になれば分かる気がした。
祖母は、澪を隠した。
でも、隠したままにはしなかった。
朝になれば、また旅の顔をさせる。観光客として歩かせる。船に乗せる。港を渡らせる。
逃走を、旅に見せる。
それが祖母の嘘だった。
僕は畳の上の上着を丁寧に畳み、封筒と半券をノートに挟んだ。
明日は、この封筒に従う。
十二時四十分。
海から行くこと。
陸路を選んではいけない。
部屋の灯りを消す前に、僕は一度だけ窓を少し開けた。
冷たい夜気が入ってくる。
海の音は、はっきりとは聞こえなかった。けれど、尾道の町の灯りの向こうに、暗い水面があることは分かった。
十年前、澪はこの窓を怖がった。
それでも、朝になればこの町を出なければならなかった。
僕は窓を閉めた。
明日、僕は同じ海を行く。
祖母が嘘を旅に戻した、その先へ。




