第四章-1 十二時四十分、海から行くこと
朝の尾道は、夜よりも嘘が少なく見えた。
窓を開けると、細い海が光っていた。建物と建物の隙間から見えるだけの水面なのに、朝の光を受けると、それだけで町全体が動き始めたように見える。
昨夜、同じ窓の外は暗かった。
澪が怖がった海。
祖母が窓を閉めた海。
嘘を朝まで預かった部屋。
でも、朝になると、そこにあるのはただの尾道だった。
船の音がして、どこかで人の声がして、宿の廊下では藤野さんが歩く音がする。観光客なら、この窓から見える海を見て「いい朝だ」と思うのだろう。
僕も、そう思えたらよかった。
けれど鞄の中には、青いノートと、古い上着と、封筒と半券が入っている。
昨日の夜に聞いたことは、朝になっても消えてくれなかった。
僕は顔を洗い、荷物をまとめた。
上着は広げず、畳んだまま鞄の奥へ入れる。封筒と半券はノートに挟んだ。スマホの充電を確認し、財布の小銭も確かめる。
小銭を用意。
最初の海は、もう渡った。
でも、祖母の旅はまだ続いている。
朝食の席で、藤野さんはあまり話さなかった。焼き海苔と味噌汁と、ご飯と卵焼き。昨日の夕食と同じように、特別ではないのに、妙に体に残る食事だった。
食べ終えると、藤野さんが小さな封筒をもう一つ出した。
「これは、昨日渡したものとは別です」
「まだあったんですか」
「千代さんが残したものではありません。私が書いたものです」
封筒の中には、現在の船の時刻をメモした紙が入っていた。尾道駅前、重井東、瀬戸田。必要な時刻だけが簡潔に書かれている。
その一番上に、太い字でこうあった。
12:40 尾道駅前発
「時刻表は変わりますから」
藤野さんは言った。
「千代さんのメモだけを信じて、今の船に乗れなかったら困るでしょう」
「ありがとうございます」
「でも、千代さんが残した時刻に近い便が今もあるのは、少し不思議ですね」
「不思議、ですか」
「ええ。十年経っても、まだ海から行ける」
藤野さんは、それ以上は言わなかった。
十年経っても、まだ海から行ける。
それは救いのようでもあり、呪いのようでもあった。
宿を出る時、藤野さんは玄関まで見送ってくれた。
「瀬戸田へ着いたら、港から少し歩いたところに古い喫茶店があります。地図に書いてあった店です」
「店名は?」
藤野さんは一瞬迷った。
「名前を知って行くより、地図を見て探した方がいいでしょう」
「どうしてですか」
「千代さんは、そういうふうに残したからです」
少し意地悪な答えだと思った。
でも、たぶん違う。
祖母は、場所の名前だけを追わせたいのではない。実際に歩いて、見つけて、その道がどういうものだったのかを確かめさせようとしている。
僕は頷いた。
「行ってきます」
言ってから、自分で少し驚いた。
ここは僕の家ではない。藤野さんは家族でもない。なのに、自然にその言葉が出た。
藤野さんは、穏やかに頷いた。
「行ってらっしゃい」
坂を下りると、尾道の町は昨日と同じように明るかった。
けれど、僕の足取りは昨日より少し重かった。駅へ向かう道を下りながら、僕は何度も鞄の重みを意識した。今日の目的地は、観光地ではない。祖母が嘘を旅に戻した、その先だ。
尾道駅前へ近づくと、人の流れが増えた。
観光客。地元の人。自転車を押す人。スーツケースを引く人。駅へ向かう人と、海へ向かう人。
僕はその流れに混じった。
急がない。
旅に見えるように。
祖母の言葉を思い出すたび、自分の歩き方がぎこちなくなる。普通に歩くというのは、意識すると急に難しい。急ぎすぎてもいけない。立ち止まりすぎてもいけない。誰かを探しているように見えてもいけない。
十年前、澪はこの町を歩いた。
ずぶ濡れの服を替え、別の服を着て、祖母と並んで歩いた。逃げているのに、旅をしている顔で。
その気持ちを想像しようとして、すぐに無理だと思った。
僕には、逃げる必要のある朝を知らない。
ただ、祖母が彼女に言ったという言葉だけは、頭に残っている。
逃げる子が謝らなくていい。
謝るのは、逃げ道を塞いだ大人の方です。
祖母の声を、僕はまだうまく想像できない。
尾道駅前桟橋に着いたのは、十二時より少し前だった。
早すぎる。
でも、遅れるのが怖かった。
昨日はここから向島へ渡った。駅から三分。最初の海。五分だけ世界が変わる船。
今日は、もっと遠くへ行く。
尾道駅前から、重井東へ。瀬戸田へ。
海から行くこと。
陸路を選んではいけない。
桟橋の周りには、昨日と同じように人がいた。観光客らしい男女。自転車の人。小さなリュックを背負った老人。港のベンチで弁当を食べている人。
誰も、僕が祖母の古い半券を持っていることを知らない。
誰も、十年前の同じ海を考えていない。
それが少しだけ心細く、同時に救いでもあった。
僕はベンチに座り、封筒を開いた。
十二時四十分。
海から行くこと。
陸路を選んではいけない。
昨夜よりも、その言葉は現実に近かった。
スマホで時刻を確認する。
十二時十六分。
あと二十四分。
僕は半券を取り出した。薄く、古い紙。祖母が残した船の痕跡。そこに印字された時刻は、いま目の前で待っている船と重なっている。
十年前、祖母もこの時間を待ったのだろうか。
隣に澪を座らせて。
旅の顔をさせて。
陸路を避けて。
追ってくる誰かの目を、海の向こうへ逸らすために。
その時、桟橋のアナウンスが流れた。
瀬戸田方面の便を知らせる声。
僕は顔を上げた。
乗り場に、人が少しずつ集まり始める。観光客はスマホをしまい、地元の人らしい男性は慣れた様子で荷物を持ち直す。
船が来る。
十二時四十分の船。
祖母が残した時刻が、遠い過去のメモではなく、いま目の前の海へ近づいてくる。
僕は封筒を閉じ、鞄にしまった。
乗るしかない。
ここから先は、地図ではなく海の上だ。
桟橋の向こうから、白い船が近づいてくる。
昨日の渡船よりも大きく、少し速そうに見えた。
水面を切って進むその船を見ながら、僕はふと思った。
祖母は、澪を逃がすために海を選んだ。
でも、海は逃げ道であると同時に、嘘を遠くまで運ぶ道でもある。
十二時四十分。
僕は列に並んだ。
海から行くこと。
陸路を選んではいけない。
その言葉が、今度は僕自身への指示になっていた。




