第四章-2 十二時四十分、海から行くこと
船が桟橋を離れた瞬間、尾道の町が少しだけ遠ざかった。
昨日の渡船とは違う。
向島へ渡る船は、町の中の短い移動だった。五分だけ世界が変わる、と祖母は書いていた。けれど、あの五分はまだ尾道の呼吸の中にあった。向こう岸に着いても、振り返れば駅前が見えた。海というより、町の隙間を渡ったような感覚だった。
今乗っている船は、もっとはっきりと尾道を離れていく。
水面を切る音が強い。エンジンの響きも低い。桟橋の人影が小さくなり、駅前の建物が町並みに紛れていく。尾道はまだ見えているのに、もう簡単には戻れない場所になり始めていた。
僕は窓際の席に座っていた。
乗客は多すぎず、少なすぎもしない。観光客らしい人もいれば、地元の人らしい人もいる。スマホで景色を撮る人。目を閉じている人。膝に荷物を置いて、ただ前を見ている人。
この中に、十年前の祖母と澪が混じっていたとしても、きっと誰も気づかなかっただろう。
旅行者の顔をしていれば。
僕は鞄から封筒を取り出した。
中には、半券と地図。それから数枚の写真がある。藤野さんから受け取ったものではなく、祖母のノートに挟まっていたものだ。
船上から撮られた写真。
昨日までは、ただの海の写真に見えていた。
けれど、今は違う。
僕は一枚目を窓の外と見比べた。
写真には、海の向こうに斜面が写っている。白い建物が一つ、小さく見える。その手前に、防波堤のような線。右端には船の窓枠らしいものが少しだけ入り込んでいる。
僕は窓に顔を近づけた。
船は尾道の町を離れ、島影の間を進んでいる。水面は昼の光を受けて白く揺れ、遠くの斜面に建物がいくつも張りついて見えた。
写真と同じ場所を探す。
最初は分からなかった。
似たような斜面。似たような建物。似たような海。瀬戸内の景色を知らない僕には、どれも同じように見えてしまう。
けれど、しばらく見ていると、写真の中の白い建物とよく似たものが視界の端に入った。
僕は写真を持つ手に力を込めた。
同じだ。
たぶん。
完全に同じかは分からない。十年あれば建物も変わる。改修されたかもしれないし、周りの景色も変わったかもしれない。
それでも、写真の角度と、今の窓の外の角度は重なった。
この写真は、ここから撮られた。
つまり祖母も、この船に乗って、この窓の外を見ていた。
僕は写真を裏返した。
この角度なら、港からは見えない。
息が止まった。
昨日までは見落としていた。薄い鉛筆の字で、写真の裏にそう書かれていた。
この角度なら、港からは見えない。
観光写真の裏に書く言葉ではない。
僕はもう一度、窓の外を見た。
白い建物。その下に続く斜面。海から見える場所と、港からは見えない場所。その違いを、祖母は船上から確認していたのだろうか。
いや、確認していたのは祖母だけではないかもしれない。
澪も、隣に座ってこの景色を見ていたのだろうか。
自分が待つことになる場所。
自分が隠れることになる場所。
自分の死を装うためではなく、生きるために見つけなければならなかった死角。
船が少し揺れた。
僕は慌てて写真を押さえた。
近くの席に座っていた年配の女性が、僕の方をちらりと見た。僕は写真をノートの上に置き、何でもない顔をした。
旅に見えるように。
その言葉を思い出して、少し苦くなる。
今の僕は、どう見えているのだろう。古い写真と外の景色を見比べる、祖母の思い出を辿る高校生。そう見えているなら、十分に旅行者だ。
でも、内側では違う。
僕は景色を楽しんでいるのではない。
祖母の嘘の角度を探している。
二枚目の写真を取り出した。
今度は、船の窓越しに撮られたものではなかった。外に出られる場所から撮ったのか、水面が近く、船の手すりが画面の下に写っている。遠くには小さな灯台のようなものがある。観光写真としてなら、こちらの方がずっとそれらしい。
けれど、祖母の写真は灯台そのものを中心にしていなかった。
灯台の少し下。
岩場と、細い道と、港からは隠れるような陰。
そこが写真の中心だった。
裏には、こうあった。
ここで待つなら、船の音が先に聞こえる。
僕は、思わず写真を伏せた。
船の音が先に聞こえる。
誰かを待つための場所。
誰かから隠れるための場所。
あるいは、近づいてくるものに先に気づくための場所。
藤野さんは言っていた。
澪は、戻されたら今度こそ出られなくなると言った。
なら、待つ場所は安全でなければならなかった。港から見えず、でも船の音は聞こえる。追ってくる人間が船を確認している間に、別の道へ動ける場所。
祖母は、それを写真に残していた。
旅の記念ではなく、逃げ道の確認として。
僕は封筒のメモを広げた。
重井東で、降りたことにする。
瀬戸田で、待つ。
灯台は、港から見えない。
十七時の船を見送ること。
重井東で、降りたことにする。
この一文の意味だけが、まだ分からない。
なぜ、降りたことにする必要があったのか。
本当に降りたのは誰なのか。
祖母なのか、澪なのか。
それとも、誰かがそう見せかけたのか。
船内のアナウンスが流れた。
次の寄港地を告げる声。
重井東。
僕は顔を上げた。
窓の外に、港らしい場所が近づいていた。防波堤。桟橋。数人の人影。小さな建物。船が速度を落とすにつれて、水面の音が変わる。
重井東。
祖母のメモに書かれていた場所。
降りたことにする場所。
僕は写真を封筒へ戻し、ノートを閉じた。
ここで何があったのかは、まだ分からない。
でも、船上で一つだけ分かったことがある。
海から行かなければ見えないものがあった。
陸路を選んでいたら、祖母の写真の角度は分からなかった。港から見えない場所も、船の音が先に聞こえるという意味も、ただの言葉のままだった。
祖母は、景色を見せようとしていたのではない。
見えない場所を、海から見せようとしていた。
船が桟橋に近づく。
乗客の何人かが立ち上がった。
僕も鞄を肩にかけた。
足元が、少しだけ揺れている。
船はまだ完全には止まっていない。それでも、桟橋はもう目の前だった。
十年前、ここで誰かが降りたことになった。
その「誰か」を確かめるために、僕は重井東で降りる。
船体がゆっくりと桟橋に寄せられた。
金属の触れる音がして、係員の声がした。
僕は列の後ろに並びながら、もう一度だけ窓の外を見た。
海は明るかった。
明るくて、何も隠していないように見えた。
でも、祖母はその明るさの中に、港から見えない場所を見つけていた。




