第四章-3 十二時四十分、海から行くこと
重井東で降りた瞬間、尾道とも向島とも違う静けさを感じた。
港には、派手な観光地らしさはなかった。桟橋と、待合所のような小さな建物と、海沿いの道。遠くに車の音が聞こえる。潮風は尾道駅前より少し強く、船が離れていくと、その音だけがしばらく水面に残った。
僕は桟橋の端で立ち止まった。
船は、次の港へ向かっていく。
その背中を見送りながら、祖母のメモを思い出す。
重井東で、降りたことにする。
僕は今、本当に降りた。
でも十年前は、誰かがここで「降りたことにした」。
その違いが、まだ分からない。
降りたふり。
降りたという証言。
半券。
目撃情報。
それとも、誰か別の人間が代わりに降りたのか。
考えながら港の周辺を歩き始めた。
まず、地図アプリで現在地を確認する。重井東。祖母の地図にもあった名前。現実の画面にも同じ名前が表示されている。それだけのことなのに、少しだけ足元が確かになる。
港の近くには、小さな食堂らしい店があった。
昼を少し過ぎている。中を覗くと、地元の人らしい男性が一人、カウンターで食事をしていた。観光客向けというより、港の人や近所の人が使う店に見える。
入るべきか迷った。
知らない土地で、十年前の失踪少女について聞く。どう考えても自然ではない。
でも、自然に見える必要がある。
僕は深く息を吸い、店の戸を開けた。
「いらっしゃい」
奥から声がした。
出てきたのは、五十代くらいの女性だった。エプロン姿で、手には布巾を持っている。僕を見ると、一瞬だけ観光客かどうかを判断するような顔をした。
「一人?」
「はい」
「好きなとこ座って」
僕は窓際の席に座った。
窓の外には港が見える。さっき降りた桟橋も見えた。十年前、ここで誰かが見ていたなら、船から降りた人間を確認することはできたかもしれない。
メニューを見て、簡単な定食を頼んだ。
空腹ではなかったが、何も頼まずに話だけ聞くわけにはいかない。急ぐと旅に見えなくなる。食堂で食事をする高校生なら、まだ自然だ。
料理を待つ間、僕は祖母の写真を一枚だけ取り出した。
港らしい場所が写っている写真。桟橋の角度と、待合所らしい建物。今いる窓から見える景色と似ている。
店の女性が水を持ってきた。
「観光?」
「あ、はい。祖母の昔の写真を辿ってて」
この説明は、嘘ではない。
全部ではないだけだ。
女性は写真をちらりと見た。
「へえ。古い写真じゃね」
「ここ、重井東ですよね」
「たぶんね。待合の屋根が前の形じゃけえ、ずいぶん前のじゃろ」
思ったよりも自然に会話がつながった。
僕は慎重に続けた。
「祖母が昔、このあたりに来ていたみたいで。高坂千代っていうんですけど」
女性の手が、ほんの少し止まった。
本当に少しだけ。
けれど、僕はもう見逃さなかった。
「高坂さん」
「知ってますか」
「名前だけは」
女性は水の入ったコップをテーブルに置いた。
「昔、そういう人が来たって話は聞いたことある」
「話?」
「私が直接会うたわけじゃないよ。うちはその頃、まだ親が店をしとったけえ」
「じゃあ、お母さんかお父さんが」
「父がね。もう亡くなったけど」
女性はそこで、少し視線を港へ向けた。
「高坂さんと、若い女の子の話なら、聞いたことがある」
背中に冷たいものが走った。
「相原澪さんですか」
名前を出した瞬間、店内の空気が少し硬くなった。
カウンターの男性が、食べる手を止めた気がした。気のせいかもしれない。でも、僕にはそう見えた。
女性は、すぐには答えなかった。
「どこで、その名前を聞いたん」
「向島と、尾道の宿で」
「……そう」
短い返事だった。
警戒されている。
僕は慌てて言った。
「すみません。変なことを聞いてるのは分かってます。でも、祖母のノートに重井東って書いてあって。ここで降りたことにする、って」
言ってから、失敗したと思った。
降りたことにする。
それは、知らない人に見せていい言葉ではなかった。
女性の表情が変わった。
「そんなことまで書いとったん」
「知ってるんですか」
女性は僕を見た。
その目は、藤野さんのものに少し似ていた。嘘を守ってきた人の目。けれど、藤野さんよりもずっと警戒が強い。
「私は知らん」
「でも」
「父が言うとっただけ」
「何をですか」
女性は、一度店の奥を見た。カウンターの男性は、もう食事に戻っている。でも、聞いていないふりをしているだけかもしれなかった。
やがて女性は、声を落とした。
「十年前、ここで女の子を見た人がおった」
「澪さんを?」
「そう言われとる」
「ここで降りたんですか」
「降りたのを見た、って」
僕は息を止めた。
降りたのを見た。
祖母のメモと重なる。
けれど、メモには「降りたことにする」と書かれていた。
「誰が見たんですか」
「港にいた人。何人か」
「高坂千代も一緒に?」
「そこが、話によって違う」
女性は小さく言った。
「ある人は、年配の女の人と若い子が一緒に降りたと言った。別の人は、若い子だけが降りたと言った。父は、年配の女の人しか見ていないと言っていた」
「証言が違う」
「昔の話じゃけえね」
女性はそう言った。
でも、その言い方は、時間が経って記憶が曖昧になったというだけには聞こえなかった。
「その後、澪さんは?」
「夕方には、瀬戸田の方で見た人がいたらしい」
「瀬戸田で」
「でも、ここで降りたなら、そこへ行くにはまた船に乗るか、別の手段を使わんといけん」
僕は封筒の地図を思い出した。
重井東。瀬戸田。港。喫茶店。灯台。
道はつながっている。
けれど、問題は時間だ。
十年前、澪はどこで降り、どこで待ち、どこから消えたことになったのか。
「その、瀬戸田で見たというのは何時頃ですか」
僕が聞くと、女性は少し困った顔をした。
「そこまでは知らん。父も詳しくは言わんかった。ただ、夕方の船の前後で揉めたって」
「揉めた?」
「澪さんを探しとる人がおったんよ」
相原誠一。
その名前が頭に浮かんだ。
「伯父さんですか」
女性は答えなかった。
けれど、視線だけで肯定したように見えた。
「その人は、ここにも来たんですか」
「来た」
女性は即答した。
「澪を見なかったか、って。父にも聞いた」
「お父さんは、何て?」
「見ていない、と」
「でも、さっき年配の女の人しか見ていないって」
「だからよ」
女性は僕を見た。
「父は、若い子は見ていないと言った。年配の女の人しか見ていない、と」
僕は理解するのに少し時間がかかった。
若い子は見ていない。
でも、年配の女の人は見た。
もしその年配の女の人が祖母なら、祖母はここで降りた。
澪は降りていない。
それなのに、他の人は澪を見たと言った。
証言が、合わない。
いや、合わないように作られているのか。
「父は、死ぬまでその話を嫌がった」
女性は言った。
「どうして」
「見ていない、と言うのも嘘じゃったから」
「え?」
「父はたぶん、見ていたんよ」
女性の声は、ほとんど囁きだった。
「でも、誰を見たのかは言わんかった」
料理が運ばれてきた。
湯気の立つ定食が、話を中断させるみたいにテーブルに置かれる。
女性は布巾を持ち直し、普通の店の人の顔に戻った。
「冷めんうちに食べんさい」
「あの、もう少し」
「ここで聞けるのは、それくらい」
それは拒絶ではなく、線引きだった。
「続きは、瀬戸田で聞きんさい」
また、次の場所へ渡された。
村上老人から藤野さんへ。
藤野さんから重井東へ。
そして今、重井東から瀬戸田へ。
祖母の旅程は、手がかりを一か所に置かない。
場所ごとに、違う嘘がある。
僕は箸を取った。
味は、正直よく分からなかった。
窓の外には、港が見えている。
さっき降りた桟橋。十年前、誰かが降りたことにした場所。
僕は食事をしながら、何度もそこを見た。
もしここで見られたのが祖母だけだったなら。
澪はどこにいたのか。
そして、なぜ誰かは澪を見たと言ったのか。
重井東の静かな港は、何も答えなかった。




