表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/32

第四章-3 十二時四十分、海から行くこと

 重井東で降りた瞬間、尾道とも向島とも違う静けさを感じた。


 港には、派手な観光地らしさはなかった。桟橋と、待合所のような小さな建物と、海沿いの道。遠くに車の音が聞こえる。潮風は尾道駅前より少し強く、船が離れていくと、その音だけがしばらく水面に残った。


 僕は桟橋の端で立ち止まった。


 船は、次の港へ向かっていく。


 その背中を見送りながら、祖母のメモを思い出す。


重井東で、降りたことにする。


 僕は今、本当に降りた。


 でも十年前は、誰かがここで「降りたことにした」。


 その違いが、まだ分からない。


 降りたふり。

 降りたという証言。

 半券。

 目撃情報。

 それとも、誰か別の人間が代わりに降りたのか。


 考えながら港の周辺を歩き始めた。


 まず、地図アプリで現在地を確認する。重井東。祖母の地図にもあった名前。現実の画面にも同じ名前が表示されている。それだけのことなのに、少しだけ足元が確かになる。


 港の近くには、小さな食堂らしい店があった。


 昼を少し過ぎている。中を覗くと、地元の人らしい男性が一人、カウンターで食事をしていた。観光客向けというより、港の人や近所の人が使う店に見える。


 入るべきか迷った。


 知らない土地で、十年前の失踪少女について聞く。どう考えても自然ではない。


 でも、自然に見える必要がある。


 僕は深く息を吸い、店の戸を開けた。


「いらっしゃい」


 奥から声がした。


 出てきたのは、五十代くらいの女性だった。エプロン姿で、手には布巾を持っている。僕を見ると、一瞬だけ観光客かどうかを判断するような顔をした。


「一人?」


「はい」


「好きなとこ座って」


 僕は窓際の席に座った。


 窓の外には港が見える。さっき降りた桟橋も見えた。十年前、ここで誰かが見ていたなら、船から降りた人間を確認することはできたかもしれない。


 メニューを見て、簡単な定食を頼んだ。


 空腹ではなかったが、何も頼まずに話だけ聞くわけにはいかない。急ぐと旅に見えなくなる。食堂で食事をする高校生なら、まだ自然だ。


 料理を待つ間、僕は祖母の写真を一枚だけ取り出した。


 港らしい場所が写っている写真。桟橋の角度と、待合所らしい建物。今いる窓から見える景色と似ている。


 店の女性が水を持ってきた。


「観光?」


「あ、はい。祖母の昔の写真を辿ってて」


 この説明は、嘘ではない。


 全部ではないだけだ。


 女性は写真をちらりと見た。


「へえ。古い写真じゃね」


「ここ、重井東ですよね」


「たぶんね。待合の屋根が前の形じゃけえ、ずいぶん前のじゃろ」


 思ったよりも自然に会話がつながった。


 僕は慎重に続けた。


「祖母が昔、このあたりに来ていたみたいで。高坂千代っていうんですけど」


 女性の手が、ほんの少し止まった。


 本当に少しだけ。


 けれど、僕はもう見逃さなかった。


「高坂さん」


「知ってますか」


「名前だけは」


 女性は水の入ったコップをテーブルに置いた。


「昔、そういう人が来たって話は聞いたことある」


「話?」


「私が直接会うたわけじゃないよ。うちはその頃、まだ親が店をしとったけえ」


「じゃあ、お母さんかお父さんが」


「父がね。もう亡くなったけど」


 女性はそこで、少し視線を港へ向けた。


「高坂さんと、若い女の子の話なら、聞いたことがある」


 背中に冷たいものが走った。


「相原澪さんですか」


 名前を出した瞬間、店内の空気が少し硬くなった。


 カウンターの男性が、食べる手を止めた気がした。気のせいかもしれない。でも、僕にはそう見えた。


 女性は、すぐには答えなかった。


「どこで、その名前を聞いたん」


「向島と、尾道の宿で」


「……そう」


 短い返事だった。


 警戒されている。


 僕は慌てて言った。


「すみません。変なことを聞いてるのは分かってます。でも、祖母のノートに重井東って書いてあって。ここで降りたことにする、って」


 言ってから、失敗したと思った。


 降りたことにする。


 それは、知らない人に見せていい言葉ではなかった。


 女性の表情が変わった。


「そんなことまで書いとったん」


「知ってるんですか」


 女性は僕を見た。


 その目は、藤野さんのものに少し似ていた。嘘を守ってきた人の目。けれど、藤野さんよりもずっと警戒が強い。


「私は知らん」


「でも」


「父が言うとっただけ」


「何をですか」


 女性は、一度店の奥を見た。カウンターの男性は、もう食事に戻っている。でも、聞いていないふりをしているだけかもしれなかった。


 やがて女性は、声を落とした。


「十年前、ここで女の子を見た人がおった」


「澪さんを?」


「そう言われとる」


「ここで降りたんですか」


「降りたのを見た、って」


 僕は息を止めた。


 降りたのを見た。


 祖母のメモと重なる。


 けれど、メモには「降りたことにする」と書かれていた。


「誰が見たんですか」


「港にいた人。何人か」


「高坂千代も一緒に?」


「そこが、話によって違う」


 女性は小さく言った。


「ある人は、年配の女の人と若い子が一緒に降りたと言った。別の人は、若い子だけが降りたと言った。父は、年配の女の人しか見ていないと言っていた」


「証言が違う」


「昔の話じゃけえね」


 女性はそう言った。


 でも、その言い方は、時間が経って記憶が曖昧になったというだけには聞こえなかった。


「その後、澪さんは?」


「夕方には、瀬戸田の方で見た人がいたらしい」


「瀬戸田で」


「でも、ここで降りたなら、そこへ行くにはまた船に乗るか、別の手段を使わんといけん」


 僕は封筒の地図を思い出した。


 重井東。瀬戸田。港。喫茶店。灯台。


 道はつながっている。


 けれど、問題は時間だ。


 十年前、澪はどこで降り、どこで待ち、どこから消えたことになったのか。


「その、瀬戸田で見たというのは何時頃ですか」


 僕が聞くと、女性は少し困った顔をした。


「そこまでは知らん。父も詳しくは言わんかった。ただ、夕方の船の前後で揉めたって」


「揉めた?」


「澪さんを探しとる人がおったんよ」


 相原誠一。


 その名前が頭に浮かんだ。


「伯父さんですか」


 女性は答えなかった。


 けれど、視線だけで肯定したように見えた。


「その人は、ここにも来たんですか」


「来た」


 女性は即答した。


「澪を見なかったか、って。父にも聞いた」


「お父さんは、何て?」


「見ていない、と」


「でも、さっき年配の女の人しか見ていないって」


「だからよ」


 女性は僕を見た。


「父は、若い子は見ていないと言った。年配の女の人しか見ていない、と」


 僕は理解するのに少し時間がかかった。


 若い子は見ていない。


 でも、年配の女の人は見た。


 もしその年配の女の人が祖母なら、祖母はここで降りた。

 澪は降りていない。

 それなのに、他の人は澪を見たと言った。


 証言が、合わない。


 いや、合わないように作られているのか。


「父は、死ぬまでその話を嫌がった」


 女性は言った。


「どうして」


「見ていない、と言うのも嘘じゃったから」


「え?」


「父はたぶん、見ていたんよ」


 女性の声は、ほとんど囁きだった。


「でも、誰を見たのかは言わんかった」


 料理が運ばれてきた。


 湯気の立つ定食が、話を中断させるみたいにテーブルに置かれる。


 女性は布巾を持ち直し、普通の店の人の顔に戻った。


「冷めんうちに食べんさい」


「あの、もう少し」


「ここで聞けるのは、それくらい」


 それは拒絶ではなく、線引きだった。


「続きは、瀬戸田で聞きんさい」


 また、次の場所へ渡された。


 村上老人から藤野さんへ。

 藤野さんから重井東へ。

 そして今、重井東から瀬戸田へ。


 祖母の旅程は、手がかりを一か所に置かない。


 場所ごとに、違う嘘がある。


 僕は箸を取った。


 味は、正直よく分からなかった。


 窓の外には、港が見えている。


 さっき降りた桟橋。十年前、誰かが降りたことにした場所。


 僕は食事をしながら、何度もそこを見た。


 もしここで見られたのが祖母だけだったなら。


 澪はどこにいたのか。


 そして、なぜ誰かは澪を見たと言ったのか。


 重井東の静かな港は、何も答えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ