第四章-4 十二時四十分、海から行くこと
食堂を出たあと、僕はもう一度港へ戻った。
重井東の港は、相変わらず静かだった。さっき僕が降りた桟橋には、もう船はいない。待合所の前に、地元の人らしい男性が一人立っているだけで、観光地らしい賑わいはない。
ここで、十年前に誰かが嘘をついた。
ある人は、年配の女の人と若い子が一緒に降りたと言った。
別の人は、若い子だけが降りたと言った。
食堂の人の父親は、年配の女の人しか見ていないと言った。
でも本当は、誰かを見ていたのかもしれない。
証言が、合わない。
普通なら、記憶違いで片づけられる。十年前の話だ。港にいた人全員が、同じものを正確に覚えている方が不自然かもしれない。
けれど、祖母のメモがある。
重井東で、降りたことにする。
降りた、ではなく。
降りたことにする。
この一文があるせいで、証言のずれはただの記憶違いには見えなくなる。
僕は待合所のベンチに座り、封筒の中の地図と半券を広げた。
スマホで現在の時刻表も確認する。
十二時四十分、尾道駅前発。
十三時、重井東。
十三時十九分、瀬戸田。
数字だけなら、単純な旅程だ。
尾道から船に乗る。
重井東に寄る。
瀬戸田へ行く。
でも、十年前の祖母は、この単純な流れのどこかに嘘を混ぜた。
僕はノートの端に、今日聞いた証言を書き出した。
A:年配の女と若い子が一緒に降りた。
B:若い子だけが降りた。
C:年配の女しか見ていない。
D:澪を探す人がここに来た。
E:夕方には瀬戸田で見た人がいたらしい。
並べてみると、さらに変だった。
もし澪が重井東で降りたなら、その後どうやって瀬戸田へ行ったのか。
もし祖母だけが降りたなら、澪は船に残って瀬戸田へ向かったのか。
もし二人とも降りたなら、なぜ「降りたことにする」などと書いたのか。
もし誰も正しく見ていないなら、誰が何を見せようとしたのか。
答えは出ない。
ただ、分かることはある。
重井東は、目的地ではない。
ここは、誰かの目をずらすための場所だ。
祖母はここで何かを終わらせたのではなく、ここで何かを「そう見せた」。
僕は顔を上げた。
港から見える海は明るい。さっきまで乗っていた船が進んでいった方向に、瀬戸田がある。祖母の地図も、藤野さんの言葉も、食堂の女性の最後の言葉も、全部そこへ向かっている。
続きは、瀬戸田で聞きなさい。
村上老人も、藤野さんも、重井東の食堂の女性も、同じことをしている。
全部は話さない。
次の場所へ渡す。
最初は、それが不親切に思えた。肝心なところで口を閉ざし、僕を別の場所へ向かわせる。まるで、祖母の残した迷路をなぞらされているみたいだった。
でも、今は少しだけ分かる。
一か所で全部を聞いても、たぶん理解できない。
尾道駅から海へ出なければ、「駅から三分」の意味は分からなかった。
向島へ渡らなければ、「小銭」と「上着」の意味は分からなかった。
宿の部屋に泊まらなければ、「帳簿に一人」の重さは分からなかった。
この港に降りなければ、「降りたことにする」の不自然さは分からなかった。
祖母のノートは、答えを隠している。
でも同時に、答えを分かる順番で置いている。
それが優しさなのか、用心なのか、まだ判断できない。
僕は半券を封筒へ戻した。
次の船の時刻を確認する。瀬戸田へ向かうには、まだ少し時間がある。待合所の壁に貼られた時刻表を見上げると、スマホの画面と同じ港名が並んでいた。
重井東。
瀬戸田。
紙の上の地名は、ただの文字だ。
でも、一度そこへ降りると、文字は場所になる。風の強さや、港の匂いや、食堂の女性の沈黙と結びつく。
祖母は、そのことを知っていたのだろうか。
知っていたから、旅にしたのだろうか。
僕は待合所を出て、桟橋の方へ歩いた。
海の向こうから、次の船らしい白い影が近づいてくる。
その船に乗れば、瀬戸田へ着く。
祖母の地図にある喫茶店。
澪が一度だけ笑った場所。
そして、おそらく水瀬凪と出会う場所。
もちろん、その時の僕はまだ、凪の名前を知らない。
ただ、瀬戸田には誰かがいる気がしていた。
祖母の嘘の続きを持っている誰かが。
船が近づくにつれて、水面が白く割れた。
僕は鞄の肩紐を握った。
青いノート。古い上着。封筒。半券。重井東で聞いた食い違う証言。
全部が、少しずつ瀬戸田へ向かっている。
船が桟橋に着く。
乗客が降りてくる。僕はその流れが落ち着くのを待ってから、一歩前へ出た。
重井東で、降りたことにする。
祖母のメモの意味は、まだ分からない。
でも、その一文が嘘なら、次の場所にはその嘘を必要とした理由があるはずだ。
僕は船に乗った。
瀬戸田まで、あと少し。
海から行くこと。
陸路を選んではいけない。
祖母の言葉は、まだ終わっていなかった。




