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第五章-1 瀬戸田で、彼女は船の時刻を暗記していた

 瀬戸田の港に着いた時、最初に思ったのは、ここは静かすぎる、だった。


 尾道駅前のように、駅と海が隣り合っている賑やかさはない。向島の渡船場のような生活の近さとも違う。重井東の港よりは人の気配があるのに、どこか音が柔らかかった。


 船が桟橋に着き、乗客が少しずつ降りていく。


 僕もその流れに続いた。


 足が桟橋に触れた瞬間、船の揺れが体の中に少し残った。重井東からここまでの短い時間で、また一つ場所が変わった。海は同じように見えるのに、港ごとに空気が違う。


 瀬戸田。


 祖母の地図にあった名前。


 澪が待った場所。

 澪が一度だけ笑った場所。

 そして、祖母の嘘が次の形を持つ場所。


 僕は桟橋の端で立ち止まり、鞄から祖母の地図を取り出した。


 尾道駅前。

 重井東。

 瀬戸田。

 港。

 喫茶店。

 灯台。


 今、僕はその中の「瀬戸田」にいる。


 ただ、それだけのことなのに、地図の文字が急に生きた場所になった気がした。


 港の周りには、観光客らしい人もいた。自転車を押す人、海を背景に写真を撮る人、道案内の看板を見上げる人。けれど、尾道ほど忙しくはない。時間が少し広く使われているような町だった。


 僕は地図を見ながら、喫茶店へ向かう道を探した。


 祖母の地図は、正確ではない。スマホの地図と重ねると、微妙にずれている。けれど、港から少し歩いたところに喫茶店があるという藤野さんの言葉は覚えている。


 問題は、店名が分からないことだった。


 名前を知って行くより、地図を見て探した方がいい。


 藤野さんはそう言った。


 祖母がそういうふうに残したから、と。


 僕は港の前に立ち、周囲を見回した。


 海沿いの道。低い建物。観光案内の看板。少し先に続く商店らしい並び。柑橘の色を使った土産物の旗が揺れている。春の風に、潮の匂いとは別の、少し甘い匂いが混じっていた。


 瀬戸田の匂い。


 そんな言葉が浮かんで、少しだけ自分で恥ずかしくなった。


 僕は歩き出した。


 祖母の地図では、港からまっすぐ進み、二つ目の角を曲がるような線が引かれている。けれど実際には、道はそんな単純ではなかった。古い建物が並び、小さな店があり、細い道がいくつか分かれている。


 どれが祖母の歩いた道なのか分からない。


 スマホを見ればすぐに現在地は分かる。けれど、店名が分からなければ検索できない。喫茶店、と入れれば候補は出るだろう。でも、それをしてしまうと、祖母の地図を辿っているというより、ただ現代の便利さで答えを探しているだけになる。


 僕はスマホをしまった。


 その時だった。


「それ、どこの地図?」


 背後から声がした。


 女の子の声だった。


 僕は振り返った。


 そこに立っていたのは、僕と同じくらいの年の少女だった。


 白いパーカーに、薄い色のスカート。肩に小さなショルダーバッグをかけている。髪は肩より少し長く、風で乱れた前髪を片手で押さえていた。


 最初に思ったのは、写真の少女に少し似ている、だった。


 でも、すぐに違うと分かった。


 写真の中の相原澪は、もっと張り詰めた目をしていた。今目の前にいる少女は、少し警戒しているようでいて、口元には好奇心がある。こちらを見ている目も、怯えてはいない。


「えっと」


 僕は地図を手元に引き寄せた。


「祖母の地図です」


「おばあちゃんの?」


「はい。昔、ここに来たみたいで」


 少女は僕の手元を覗き込むように一歩近づいた。


 距離感が近い。


 僕は反射的に半歩下がった。


 少女はそれを見て、少し笑った。


「あ、ごめん。怪しい人みたいだった?」


「いや、急に声をかけられたので」


「それは怪しいね」


 自分で言って、彼女はまた笑った。


 明るい笑い方だった。


 けれど、僕の地図を見る目だけは、妙に真剣だった。


「港、喫茶店、灯台……」


 彼女は、地図の文字を小さく読んだ。


 僕は少し驚いた。


「読めるんですか」


「読めるよ。字、きれいだし」


「いや、そうじゃなくて」


 祖母の地図は、正確な地図ではない。地元の人間でなければ、港と喫茶店と灯台の関係は分かりにくいはずだ。


 少女は顔を上げた。


「その喫茶店、たぶんあそこだと思う」


「あそこ?」


「でも、観光客はあんまり行かないよ。港から近いけど、少し分かりにくいから」


 僕は胸の奥が少し冷えるのを感じた。


 藤野さんは、店名を教えなかった。


 祖母は、地図だけを残した。


 その喫茶店を、この少女は見ただけで分かった。


「地元の人ですか」


「半分くらい」


「半分?」


「今はこっちにいるけど、ずっといたわけじゃないから」


 曖昧な答えだった。


 けれど、僕はそれ以上聞けなかった。


 彼女は僕の地図をもう一度見た。


「これ、順番が変だね」


「順番?」


「普通、港から喫茶店に行って、それから灯台って、あんまりしない。時間が余ってるなら別だけど。というか、灯台まで行くなら、先に行った方が楽だし」


「そうなんですか」


「うん。地元の人なら、たぶんそう言う」


 普通はそうしない。


 まただ。


 祖母の旅程は、いつも普通から少しずれている。


 駅から三分。

 小銭。

 振り返るな。

 重井東で降りたことにする。

 瀬戸田で待つ。

 灯台は港から見えない。


 観光のためではない順番。


「でも」


 少女は少しだけ地図から目を離し、海の方を見た。


「誰かを待たせるなら、この順番かも」


 僕は息を止めた。


「どういう意味ですか」


「あ、ごめん。なんとなく」


「なんとなくで、そう思ったんですか」


「うん」


 彼女は笑った。


 けれど、その笑い方はさっきより浅かった。


 何かを隠した。


 そう思った。


「名前、聞いてもいいですか」


 僕が言うと、少女は少し意外そうに目を丸くした。


「声かけたの、こっちなのに?」


「だからです」


「ああ、そっか」


 彼女は一拍置いてから答えた。


「水瀬凪」


「水瀬さん」


「凪でいいよ。水瀬さんって呼ばれると、なんか先生みたい」


「じゃあ、凪さん」


「そこはさん付けなんだ」


 凪は、少し可笑しそうに笑った。


「君は?」


「高坂湊」


 僕が名乗った瞬間、凪の笑顔が止まった。


 本当に一瞬だった。


 けれど、僕は見逃さなかった。


 向島の村上老人。

 尾道の藤野さん。

 重井東の食堂の女性。


 祖母の名前や、相原澪の名前を出した時に見た、あのわずかな変化。


 凪の顔にも、同じものが浮かんだ。


「高坂」


 凪は、僕の姓だけを繰り返した。


「うん。どうかした?」


「別に」


 彼女はすぐに笑顔を戻した。


 でも、もうさっきの笑顔とは違っていた。


「珍しい名字だなと思って」


「そうかな」


「うん。少なくとも、この辺ではあんまり聞かない」


 嘘だ、と思った。


 凪は、何かを知っている。


 僕の姓に反応した。祖母の地図も読めた。喫茶店の場所も分かった。そして、誰かを待たせるならこの順番、と言った。


 でも、初対面で問い詰めるわけにはいかない。


 僕は地図を畳もうとした。


「喫茶店、教えてもらえますか」


「いいよ」


 凪は軽く頷いた。


「案内する」


「そこまでしてもらわなくても」


「どうせ近くまで行くし」


「用事があるんですか」


「まあね」


 また曖昧な答え。


 凪は港の方へ一度目を向けた。


 船の時刻表が掲示されている場所だった。


 彼女はそこをちらりと見ただけで、すぐに言った。


「十七時の船までには戻れるよ」


 僕は動きを止めた。


「今、時刻表見ました?」


「見てないよ」


「じゃあ、なんで分かるんですか」


「だいたい覚えてるから」


 凪は何でもないことのように言った。


 船の時刻を、だいたい覚えている。


 地元の人なら、そういうものなのかもしれない。生活に船があるなら、時刻表くらい覚えるのかもしれない。


 でも、凪の声には、生活の慣れとは違う何かがあった。


 十七時の船。


 祖母のメモにもあった。


十七時の船を見送ること。


 僕は鞄の中の封筒を意識した。


 凪は、僕の反応を見て首を傾げた。


「どうかした?」


「いや」


 僕は首を振った。


「船の時間に詳しいんですね」


「詳しいっていうか」


 凪は少しだけ間を置いた。


「忘れられないだけ」


 その言葉は、風に紛れるくらい小さかった。


 聞き返すべきだったのかもしれない。


 でも、その時の凪の横顔が、あまりにも遠くを見ていたので、僕は何も言えなかった。


「行こう」


 凪はすぐに明るい声に戻った。


「その喫茶店、初めてだと通り過ぎるから」


 彼女は歩き出した。


 僕は一瞬迷ったあと、その後を追った。


 港から少し離れると、海の音が遠くなる。代わりに、町の音が近づいてきた。店の前で話す人の声。自転車の音。風に揺れる旗の音。


 凪は迷わず歩いていく。


 その背中を見ながら、僕は思った。


 瀬戸田には、誰かがいる気がしていた。


 祖母の嘘の続きを持っている誰かが。


 もしかすると、その誰かは、僕が思っていたより早く現れたのかもしれない。

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