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第五章-2 瀬戸田で、彼女は船の時刻を暗記していた

 凪の歩き方には、迷いがなかった。


 港を出て、海沿いの道を少し進み、観光客が向かいそうな大きな通りから、一本だけ細い道へ入る。僕なら絶対に見落としていた角だった。案内板もない。目印らしいものといえば、古い家の軒先に置かれた鉢植えと、色の褪せた郵便受けくらいだ。


「本当にこっち?」


「疑うの早くない?」


「いや、地図だともう少し真っ直ぐみたいに見えたから」


「その地図、正確じゃないよ」


 凪は振り返らずに言った。


「でも、順番は合ってる」


「順番?」


「港から、喫茶店。それから海沿いに戻って、灯台の方」


 また、彼女は祖母の地図を当然のように読む。


 僕は鞄の中の地図を意識した。


「凪さんは、その道を知ってるんですか」


「凪でいいって言った」


「じゃあ、凪は」


「知ってるよ。瀬戸田にいれば、だいたいの道は分かる」


「でも、観光客はあまり行かないって」


「うん。だから、地元の人の道」


 地元の人の道。


 凪は軽く言ったが、その言葉は祖母のノートと相性がよすぎた。


 旅行者の顔をして、地元の人の道を歩く。


 十年前、祖母はそれをしたのだろうか。


 道は、思っていたより静かだった。海から一歩入っただけで、音が変わる。船のエンジン音は遠ざかり、代わりに生活の音が近づく。開いた窓からテレビの音が漏れ、どこかで食器の触れる音がした。観光地の明るさではなく、人が日々を積み重ねている気配。


 凪はその中を自然に歩く。


 僕は、少し遅れてついていく。


 彼女の背中を見ながら、さっきの言葉を思い出していた。


 忘れられないだけ。


 船の時刻について、凪はそう言った。


 忘れられない。


 生活で覚えた時刻ではなく、忘れられない時刻。


 それは、祖母のメモにあった十七時の船と関係しているのだろうか。


「ここ」


 凪が足を止めた。


 そこにあったのは、小さな喫茶店だった。


 看板は古く、店名はかすれている。大きな窓も、派手なメニュー表もない。入口の横に、手書きの札が出ているだけだ。営業中、と書かれている。


 僕は祖母の地図を広げた。


 港から少し内側へ入った道。角を曲がった先。海は見えないけれど、遠くに船の音が届く場所。


 たぶん、ここだ。


「普通、通り過ぎるでしょ」


 凪が言った。


「うん。たぶん」


「でも、待つにはちょうどいい」


「待つ?」


 僕が聞き返すと、凪は少しだけ口を閉じた。


 そして、何でもないふりをして肩をすくめた。


「船まで時間がある時とか。観光客が多い店より落ち着くし」


 取り繕った。


 そう思った。


 けれど、僕は追及しなかった。


 今は、この店の中に入る方が先だ。


 戸を開けると、鈴が鳴った。


 店内は、外から見るよりも奥行きがあった。木のテーブルが四つ。カウンター席が数席。壁には古い写真と、少し色褪せた船の時刻表が貼られている。コーヒーの匂いに、どこか甘い柑橘の匂いが混じっていた。


 カウンターの奥に、年配の男性がいた。


 白髪で、背は高くない。けれど、姿勢がよく、目だけが鋭い。僕と凪を見ると、一瞬だけ眉を上げた。


「凪ちゃん」


「こんにちは」


「今日は一人じゃないんか」


「拾った」


「人聞き悪いな」


 思わずそう言うと、店主らしい男性が僕を見た。


 その目は、すぐに僕の鞄へ向かった。次に、手に持っていた祖母の地図へ。


「旅行かね」


「はい。祖母の昔の地図を辿っていて」


「祖母」


 男性の声が、ほんの少し低くなった。


 僕は名乗るべきか迷ったが、ここまで来て隠しても仕方がない。


「高坂湊です。祖母は、高坂千代といいます」


 店の奥の空気が、少し止まった。


 村上老人。藤野さん。重井東の食堂の女性。

 同じ反応を、僕はもう何度も見ている。


 店主は、すぐには何も言わなかった。


 代わりに、凪が僕の方を見た。


「高坂千代」


 彼女は、祖母の名前を小さく繰り返した。


「やっぱり、そうなんだ」


「やっぱり?」


「ううん」


 凪はすぐに目を逸らした。


 店主は、静かにカウンターから出てきた。


「座りなさい」


 その言い方は、村上老人や藤野さんと似ていた。


 外で話すことじゃない。

 玄関で話すことではない。

 そして今度は、座りなさい。


 祖母の残した嘘は、どこでもまず、人を座らせる。


 僕と凪は、窓際の席に座った。


 窓の外に海は見えない。けれど、遠くで船の音がする。港から少し離れているのに、完全には切り離されていない場所だった。


 店主は水を置き、メニューも出さずに言った。


「千代さんは、ここで何を飲んだか知っとるかね」


「いえ」


「コーヒーじゃ」


 それは普通すぎる答えだった。


「澪ちゃんは、みかんジュース」


 僕の胸が強く鳴った。


 相原澪。


 この店にも、その名前が残っていた。


 凪は、黙っていた。


 彼女は驚いた顔をしない。


 知っていたのか。


 それとも、驚かないようにしているのか。


 店主は、凪には目を向けず、僕だけを見た。


「千代さんの地図には、ここはどう書いてある」


 僕は祖母の地図を広げた。


 喫茶店の横にある一文を見せる。


この店で、あの子は一度だけ笑った。


 店主はそれを見て、長く黙った。


「そう書いたか」


 声が少し掠れていた。


「祖母は、ここで何をしたんですか」


「待った」


「誰を?」


「人を」


「澪さんを?」


 店主は答えなかった。


 代わりに、カウンターの奥へ戻り、古い箱を取り出した。蓋を開けると、中には紙ナプキンや古い伝票、色褪せた写真が数枚入っている。


「十年前、千代さんはここで伝言を預けた」


「伝言?」


「もし、女の子が一人で来たら、こう言えと」


 店主は箱の中から、小さな紙片を取り出した。


 それを僕に見せる。


 祖母の字だった。


船の音が聞こえたら、まだ動かない。

笑えるなら、少しだけ笑って。

あなたはまだ、ここにいる。


 僕は、その字から目を離せなかった。


 逃走経路。

 偽装。

 港から見えない場所。

 十七時の船。


 そういう硬い言葉の間に、祖母はこんな伝言を残していた。


 笑えるなら、少しだけ笑って。


 あなたはまだ、ここにいる。


 凪が、テーブルの下で手を握ったのが見えた。


 彼女の顔は、横を向いている。けれど、その肩がほんの少し硬くなっていた。


「澪さんは、この伝言を聞いたんですか」


 僕が聞くと、店主は頷いた。


「聞いた」


「それで、笑った?」


「ほんの少しだけな」


 祖母の地図の言葉が、現実に結びついた。


 この店で、あの子は一度だけ笑った。


 観光途中の休憩ではない。


 この店は、伝言場所だった。


 逃げる少女に、自分がまだ消えていないと伝える場所だった。


 僕は、喉の奥が詰まるのを感じた。


 店主は、凪の前にみかんジュースを置いた。


 注文していない。


 凪はそれを見て、少しだけ目を伏せた。


「私、頼んでない」


「知っとる」


「じゃあ、なんで」


「今日は、出す日じゃと思った」


 凪は何も言わなかった。


 その沈黙が、答えのようだった。


 僕は店主と凪を交互に見た。


 この二人の間には、僕の知らない何かがある。


 凪は、ただの案内役ではない。


 店主は、凪のことも知っている。


 そして、凪は相原澪の名前にも、祖母の名前にも、驚ききらなかった。


「凪」


 僕は静かに聞いた。


「君は、澪さんのことを知ってるの?」


 凪は、みかんジュースのグラスを見つめていた。


 グラスの中の橙色が、窓から入る光を受けて少し揺れている。


 やがて、彼女は小さく笑った。


 最初に港で見せた、明るい笑い方ではなかった。


「知ってるよ」


「どういう」


「でも、今は言わない」


 凪は顔を上げた。


 その目は、さっきまでよりずっと真剣だった。


「湊くんも、まだ全部聞いてないでしょ」


「それは」


「じゃあ、順番通りに行こう」


 順番通り。


 祖母の地図。

 港。喫茶店。灯台。


 凪は、まるでその続きを知っているように言った。


「次は、海沿いの道」


 彼女はグラスを手に取り、みかんジュースを一口飲んだ。


「それから、灯台」


 僕は鞄の中の地図を見た。


 祖母の残した順番と、凪の言葉が重なっている。


 店主は、何も言わなかった。


 ただ、カウンターの奥で静かに僕たちを見ている。


 僕は思った。


 瀬戸田で出会ったこの少女は、祖母の嘘の続きを持っている。


 でも、その嘘が誰のものなのかは、まだ分からない。


 祖母のものか。

 澪のものか。

 それとも、凪自身のものなのか。


 窓の外で、遠く船の音がした。


 凪は、その音に反応するように、ほんの少しだけ顔を上げた。

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