第五章-3 瀬戸田で、彼女は船の時刻を暗記していた
喫茶店を出る時、店主は何も言わなかった。
ただ、僕たちが席を立つと、カウンターの奥から小さな紙袋を一つ持ってきた。
「持っていきなさい」
そう言って、凪に渡す。
凪は少し眉を寄せた。
「また?」
「また、じゃない。今日は必要じゃろ」
「いらないって」
「凪ちゃんが決めることじゃない」
「私が食べるんだから、私が決めることでしょ」
二人のやり取りは、親しいようで、どこか噛み合っていなかった。
店主は困ったように笑い、紙袋を僕の方へ差し出した。
「なら、君が持っときなさい」
「え、僕ですか」
「歩くんじゃろ。腹が減る」
紙袋の中には、小さな包みが二つ入っていた。柑橘の香りがする焼き菓子のようだった。
凪は、少しだけ目を逸らした。
「……余計なことする」
「余計なことをするのが、年寄りの仕事じゃ」
店主はそう言って、僕たちを送り出した。
外に出ると、喫茶店の中にあったコーヒーと柑橘の匂いが、風で薄くほどけた。
凪は何も言わずに歩き出した。
僕はその横に並ぶ。
さっきまでより、彼女の歩幅が少し速い。
「凪」
「何」
「店の人と、知り合いなんだね」
「瀬戸田って狭いから」
「それだけ?」
凪は僕を見ずに言った。
「湊くん、意外と遠慮なく聞くね」
「さっき、君も僕の地図を遠慮なく見た」
「それはそう」
凪は少しだけ笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
海沿いの道へ戻ると、視界が一気に開けた。港から少し離れただけなのに、海の見え方が変わる。船が行き交う水面。向こうに重なる島影。日差しを受けて、海は明るすぎるくらいに光っていた。
凪はその景色を見慣れているはずなのに、時々、初めて見るもののように目を向ける。
その横顔が気になった。
「さっきの伝言」
僕は言った。
「祖母が残したやつ」
「うん」
「君は、知ってた?」
「知らない」
答えは早かった。
早すぎた。
「でも、驚いてなかった」
「驚いたよ」
「そうは見えなかった」
凪は足を止めた。
海風が、彼女の髪を揺らす。
「じゃあ、驚き方が下手なんだと思う」
「そういう話じゃなくて」
「分かってる」
凪は、少しだけ面倒くさそうに息を吐いた。
「知ってたわけじゃない。でも、似たような話は聞いたことがある」
「誰から?」
「母から」
母。
その言葉が出た瞬間、僕は次の質問を飲み込んだ。
凪は、母の話になると空気が変わる。
港で会った時も、喫茶店でもそうだった。隠しているというより、触れると痛い場所を、自分でもどう扱えばいいか分からないように見えた。
「お母さんも、瀬戸田の人?」
「昔はね」
「今は?」
「今は、違うところ」
短い答え。
それ以上は踏み込ませない答え。
僕は黙った。
凪は再び歩き出した。
「母は、船の話をよくした」
「船?」
「尾道から来る船。重井東に寄る船。瀬戸田を出る船。十七時の船」
最後の言葉だけ、少し低くなった。
僕は鞄の中の封筒を意識した。
十七時の船を見送ること。
「十七時の船って、何かあるの?」
凪は答えなかった。
代わりに、海の方を見た。
「嫌いなんだ」
「船が?」
「違う。十七時の船が」
理由は言わなかった。
でも、それだけで十分だった。
凪は十七時の船を知っている。
祖母のメモにも、十七時の船がある。
彼女の母は、その船の話をよくした。
偶然ではない。
凪は祖母の旅程の続きを、母から聞いている。
少なくとも、その一部を。
「凪は、どうして僕に声をかけたの?」
僕が聞くと、彼女はようやくこちらを見た。
「地図を持ってたから」
「それだけ?」
「高坂って名乗ったから」
「その前に声をかけた」
「うん」
「じゃあ、やっぱり地図?」
凪は少し笑った。
「その地図、普通じゃないから」
「普通じゃない地図に見えた?」
「見えた」
「どうして」
「道順が、母の話と似てた」
僕は足を止めた。
凪も少し遅れて止まる。
「君のお母さんは、その道順を知ってるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「ちゃんと話してくれたことはない。断片だけ。港とか、喫茶店とか、灯台とか、十七時の船とか。そういう言葉だけ」
断片。
僕と同じだと思った。
僕は祖母のノートと写真と封筒を持っている。
凪は母の言葉を持っている。
どちらも、全部ではない。
「じゃあ、君も知りたいんだ」
「何を?」
「その道順の意味」
凪は答えなかった。
ただ、海沿いの柵に手を置いた。
その指先に、少し力が入っている。
「母は、瀬戸田の話をする時だけ、途中で黙る」
凪は言った。
「船の時間は覚えてるのに、何があったかは言わない。喫茶店のジュースの味は覚えてるのに、誰と飲んだかは言わない。灯台の場所は覚えてるのに、そこへ誰と行ったかは言わない」
「それで、知りたくなった」
「知りたくないわけないでしょ」
凪の声に、初めて苛立ちが混じった。
「母が何かを隠してるのは分かる。でも、聞くと笑ってごまかす。昔のことだからって。もう終わったことだからって」
もう終わったこと。
母が祖母のことを話す時にも、似たような空気があった。
終わったことにすれば、今を守れる。
けれど、残された側は終われない。
「だから、僕の地図を見て声をかけたんだ」
「そう」
「僕を利用するつもりだった?」
凪は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、目を逸らさずに答えた。
「うん」
正直な答えだった。
「ごめん」
「謝るんだ」
「利用したのは本当だから」
「まだ利用されてる途中?」
「たぶん」
凪は、少しだけ困ったように笑った。
「でも、湊くんも私を利用すればいいよ。私はこの辺の道を知ってる。船の時間も覚えてる。母の話も、少しは知ってる」
「交換条件?」
「そう。案内料としては安いでしょ」
冗談めかして言ったが、声は軽くなかった。
僕は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、お願いする」
「うん」
「でも、嘘は少なめにして」
凪は一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「それ、この旅で一番難しいお願いかも」
海風が、二人の間を抜けた。
僕は鞄の中の青いノートを思い出す。
祖母の嘘。
村上老人の嘘。
藤野さんの嘘。
重井東で食堂の女性が抱えていた嘘。
そして、凪の嘘。
この旅は、嘘を一つずつ拾っている。
けれど、その嘘がすべて悪意から生まれたものではないことも、少しずつ分かり始めていた。
「次は、どこ?」
僕が聞くと、凪は海沿いの先を指さした。
「このまま歩く。少し行くと、母が嫌いだった場所がある」
「嫌いだった場所?」
「うん」
凪は、もう笑っていなかった。
「でも、たぶん大事な場所」
僕は頷き、彼女の隣を歩き出した。
祖母の地図に書かれていた順番は、まだ終わっていない。
港。
喫茶店。
海沿いの道。
灯台。
凪は、その先を知っている。
でも、知っているからこそ、怖がっている。
僕たちは海沿いの道を進んだ。
遠くで船の音がした。
凪は、その音に気づかないふりをした。




