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第五章-4 瀬戸田で、彼女は船の時刻を暗記していた

 海沿いの道は、思っていたより長く続いた。


 右手に海。左手に低い建物や、ところどころに柑橘の木。風が吹くと、葉が擦れる音と、遠くの船の音が混じった。


 凪は、少し前を歩いていた。


 案内しているというより、僕がついてくることを確認しながら、自分の記憶を辿っているような歩き方だった。さっきまでの軽さはない。言葉も少ない。


「母が嫌いだった場所って、どこ?」


 僕が聞くと、凪は足を止めずに答えた。


「もう少し先」


「そこに何があるの」


「何もない」


「何もない場所が嫌いなの?」


「何もないから、嫌いなんじゃない?」


 凪はそう言って、少しだけ笑った。


 でも、その笑いはすぐに風にほどけた。


 海沿いの道の途中に、小さなベンチがあった。観光客が景色を見るためのものか、地元の人が休むためのものか分からない。古びていて、座面の端が少し白く擦れている。


 凪はそこで立ち止まった。


「ここ」


「ここ?」


「母は、この辺が嫌いだった」


 僕は周囲を見回した。


 特別なものはない。


 海が見える。向こうに島影がある。少し先に道が続き、後ろを振り返れば港の方角が見える。綺麗な場所ではあるけれど、観光名所という感じではない。


「どうして」


「船の音が聞こえるから」


 凪は海を見たまま言った。


「港にいなくても、船が来るのが分かる。母は、それが嫌だったんだと思う」


 船の音が聞こえる。


 僕は祖母の写真の裏にあった言葉を思い出した。


ここで待つなら、船の音が先に聞こえる。


 凪の母は、この場所を知っている。


 いや、知っているだけではない。


 嫌っている。


 つまり、ここで何かを待ったのだ。


「凪のお母さんは、ここで船を待ったの?」


 凪は答えなかった。


 代わりに、ベンチに腰を下ろした。


 僕も少し離れて座る。


 海は明るい。午後の光は少し傾き始めているが、まだ夕方には早い。水面は穏やかで、遠くに小さな船が見えた。


 凪はその船を見て、何気なく言った。


「あれは瀬戸田には来ない船」


「分かるの?」


「うん。進む向きが違うし、時間も違う」


「時間?」


「今の時間にこっちへ来るなら、たぶん別の便。瀬戸田に入る船は、もう少し後」


 僕はスマホを取り出そうとして、やめた。


 凪の方が、たぶん早い。


「凪は本当に船の時刻を覚えてるんだね」


「だから言ったでしょ」


「生活で使うから?」


「それもある」


「それ以外もある?」


 凪は、海を見たまま黙った。


 その横顔は、さっき喫茶店でみかんジュースを見つめていた時と似ていた。


「母が、何度も言ったから」


「船の時間を?」


「うん」


 凪は指を折るように、淡々と言った。


「尾道駅前、十二時四十分。重井東、十三時。瀬戸田、十三時十九分」


 僕は息を止めた。


 祖母の封筒にあった時刻。


 僕が今日辿ってきた船の時刻。


 凪は、時刻表を見ずに言った。


「それから、瀬戸田、十七時。重井東、十七時二十三分。尾道、十七時四十五分」


 最後の数字を言う時だけ、凪の声が少し低くなった。


 僕は鞄の中の封筒を思い出す。


 十七時の船を見送ること。


「それ、お母さんが教えたの?」


「教えたっていうか、勝手に聞かされた」


「いつ?」


「小さい頃から。母は、時々変なことを言う人だったから」


 凪は軽く言おうとしていた。


 でも、軽くはならなかった。


「夕方に船の音がすると、急に黙る。テレビで瀬戸内の港が映ると、部屋を出る。旅行番組で尾道が出ると、チャンネルを変える。なのに、船の時刻だけは間違えない」


 僕は、母が祖母について話したことを思い出した。


 尾道の話になると、急に黙ることがあった。

 テレビで瀬戸内の港が映っただけで、部屋を出ていったこともあった。


 祖母と凪の母は、同じような反応をしていた。


 同じ嘘を別々に抱えていたのだろうか。


「凪のお母さんは、瀬戸田を嫌ってるの?」


「分からない」


 凪は即答した。


「嫌いなら、話さなければいいのに。なのに時々、すごく細かいことを覚えてる。喫茶店のみかんジュースの味とか、港から見える雲の形とか、灯台までの道で靴に砂が入ったこととか」


「じゃあ、好きだったんじゃない?」


「好きな場所から逃げた人って、どうしたらいいの」


 凪の声が、少しだけ震えた。


 僕は答えられなかった。


「好きだったなら、なんで帰らないの。嫌いだったなら、なんで覚えてるの。捨てたなら、なんで船の時間を忘れないの」


 凪は、手元を見つめていた。


「母は何も言わない。でも、忘れてない。だったら、私はどうすればいいの」


 僕は、鞄の中のノートを思い出した。


 祖母も、忘れていなかった。

 尾道を。

 澪を。

 船の時刻を。

 嘘の順番を。


 忘れられないことと、戻りたいことは同じではない。


 でも、残された側にはその違いが分からない。


「凪は、お母さんに帰ってきてほしいの?」


 凪は答えなかった。


 その沈黙が、答えのようでもあった。


「分からない」


 しばらくして、凪は言った。


「帰ってきてほしいのか、ちゃんと嫌いだって言ってほしいのか、自分でも分からない」


 海から、低い音が聞こえた。


 凪の肩がわずかに動いた。


 僕はその反応を見逃さなかった。


「船?」


「うん」


 凪は、海を見たまま言った。


「たぶん、次の便」


「見なくても分かる?」


「分かる。音が違う」


「音?」


「近づいてくる船と、離れていく船は違う。港に入る船は、少し音が重くなる」


 その説明は、地元の人のものに聞こえた。


 でも、それ以上に、長い時間その音を気にしてきた人の説明だった。


 凪は、船の時刻を覚えているだけではない。


 船の音を覚えている。


 それが来る音か、去る音かまで。


「母も、そうだった」


 凪は言った。


「船の音がすると、時計を見る前に分かるみたいだった。十七時の船だけは、絶対に間違えなかった」


「どうして十七時の船が嫌いなんだろう」


「知らない」


 凪は言った。


 けれど、その「知らない」は、知らないというより、まだ認めたくないという言い方だった。


「でも、たぶん、母はその船に乗れなかった」


 僕は封筒の言葉を思い出した。


 十七時の船を見送ること。


 やはり、凪の母は澪なのではないか。


 その疑いは、もうほとんど形になっていた。


 でも、まだ言えなかった。


 ここで言葉にしてしまえば、何かが壊れる気がした。


 凪も、僕がそこまで考えていることに気づいているのかもしれない。だから、こちらを見なかった。


 僕は鞄から祖母の地図を取り出した。


 凪に見せる。


「次は、灯台だよね」


 凪は地図を見て、少しだけ表情を変えた。


 怖がっている。


 そう思った。


「うん」


「行ける?」


「案内するって言ったから」


「無理なら」


「無理じゃない」


 凪は立ち上がった。


 その声は強かった。


 でも、強すぎた。


「行こう。今からなら、まだ時間ある」


「十七時の船まで?」


 僕が聞くと、凪は一瞬だけ黙った。


 そして、笑った。


「そう。十七時の船まで」


 その笑顔は、さっきよりも作り物に見えた。


 僕も立ち上がる。


 海沿いの道の先に、灯台へ向かう道がある。


 祖母の地図に残された次の場所。


 港から見えない場所。

 船の音が先に聞こえる場所。

 澪が待ったかもしれない場所。


 凪は歩き出した。


 僕はその後を追う。


 遠くでまた、船の音がした。


 今度は凪は振り返らなかった。


 けれど、その指先が、ぎゅっと握られているのが見えた。

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