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第五章-5 瀬戸田で、彼女は船の時刻を暗記していた

 灯台へ向かう道に入る前に、凪は一度だけ足を止めた。


 そこは、海沿いの道から少し外れた分かれ道だった。右へ行けば港の方へ戻れる。左へ行けば、祖母の地図にある灯台の方角へ続いているらしい。


 凪は左の道を見ていた。


 けれど、進まない。


「凪?」


「ごめん。ちょっとだけ」


 そう言って、凪は近くの石段に腰を下ろした。


 疲れた、という顔ではなかった。むしろ、これ以上進む前に、自分の中の何かを押さえ込もうとしているように見えた。


 僕は少し迷って、隣ではなく、一段下に座った。


 海は見える。


 けれど、港は見えない。


 祖母の地図に書かれていた言葉が、また頭に浮かんだ。


灯台は、港から見えない。


 まだ灯台には着いていない。

 それでも、このあたりからもう、町の見え方は変わっていた。


「母の話をしてもいい?」


 凪が言った。


 僕は顔を上げた。


「うん」


「でも、たぶん、ちゃんとした話にはならない」


「断片?」


「そう。断片」


 凪は、自分の指先を見つめながら言った。


「母は、私に瀬戸田のことをあまり話さなかった。でも、時々変に細かいことだけ言うの。港のベンチが固かったとか、喫茶店のみかんジュースが甘すぎたとか、船の音が思ったより早く聞こえるとか」


「うん」


「それで、途中で黙る」


 風が吹いた。


 凪の髪が頬にかかる。彼女はそれを払わなかった。


「私が小学生の頃、聞いたことがあるんだ。どうして瀬戸田に帰らないのって」


「お母さんは?」


「笑った」


「笑った?」


「うん。さっきの喫茶店で聞いた話みたいに、少しだけ笑った」


 この店で、あの子は一度だけ笑った。


 祖母の地図の一文と、凪の母の笑いが重なる。


「それから言ったの。帰る船に乗れなかったから、帰り方を忘れたって」


 僕は黙った。


 帰る船に乗れなかった。


 それは、冗談のようでいて、冗談ではない。


「十七時の船?」


 僕が聞くと、凪は頷いた。


「たぶん」


「たぶん?」


「母は、はっきり言わなかった。ただ、十七時の船だけは、見送らなきゃいけなかったって」


 僕は鞄の中の封筒を思い出した。


十七時の船を見送ること。


 凪の母は、祖母のメモと同じ言葉を知っている。


 もう偶然ではない。


「凪のお母さんの名前を、聞いてもいい?」


 凪は、すぐには答えなかった。


 それでも、逃げなかった。


「水瀬澪」


 声は小さかった。


 けれど、はっきり聞こえた。


 澪。


 相原澪。


 僕は息を止めた。


「相原、じゃないんだ」


「今はね」


 凪は海の方を見た。


「昔の名前は、知らないことにしてた」


「知らないことに?」


「母が言わなかったから。私も、聞かないふりをした。水瀬澪。それが母の名前。それだけでいいって思ってた」


「でも、違った」


「違ったのかどうかも、まだ分からない」


 凪は笑おうとして、うまく笑えなかった。


「母が相原澪なのかもしれないって、ずっと思ってた。でも、ちゃんと聞けなかった。聞いたら、母が本当にどこかへ行ってしまう気がした」


 僕は、母と祖母のことを思い出した。


 聞かなかった。

 いつか話してくれると思った。

 そうしているうちに、聞けなくなった。


 凪はまだ聞けるのかもしれない。


 でも、聞けるからこそ怖いのだ。


「僕も、祖母のことを何も知らなかった」


 僕は言った。


「死んでから、ノートを見つけて、初めて尾道のことを知った。だから、凪が聞けなかったことを、簡単に責める気にはなれない」


「優しいね」


「違うよ。僕も同じだから」


 凪は少しだけこちらを見た。


 その目は、港で会った時よりずっと弱く見えた。


「湊くんは、おばあちゃんのこと、怖くないの?」


「怖い」


 僕は正直に答えた。


「知れば知るほど、僕の知ってる祖母じゃなくなる。でも、知らないままの方が、もっと嫌だと思った」


「そっか」


 凪は小さく息を吐いた。


「私も、そうなのかも」


 沈黙が落ちた。


 遠くで船の音がした。


 凪は反射的に顔を上げたが、すぐに視線を戻した。


「今のは?」


 僕が聞くと、凪は少しだけ笑った。


「瀬戸田に入る船じゃない。音が遠い」


「本当に分かるんだ」


「分かりたくて覚えたんじゃないけどね」


 凪は立ち上がった。


「行こう」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないけど、行く」


 その答えは、強がりではなかった。


 怖いまま進む、という意思に聞こえた。


 僕も立ち上がる。


 左の道の先に、灯台へ続く坂が見えた。観光客の姿は少ない。道は細く、海から少し離れていく。


「この先に、何があるの?」


 僕が聞くと、凪は答えた。


「母が、最後まで話さなかった場所」


「灯台?」


「うん」


 凪は歩き出した。


「あと、祖母さんの地図に書いてあったでしょ。港から見えないって」


「見た」


「母も同じことを言ってた」


 僕は足を止めそうになった。


「何て?」


 凪は振り返らずに言った。


「見えない場所にいれば、まだ見つかってないことにできるって」


 その言葉は、祖母の地図よりずっと切実だった。


 見つかっていないことにできる。


 それは、逃げる人の言葉だ。


 僕たちは灯台へ向かって歩き出した。


 もう十七時の船までは、それほど余裕がない。


 けれど凪は時刻表を見なかった。


 見なくても分かっているのだろう。


 十七時の船までに、どれだけ時間が残っているか。


 そして、その船に母が乗れなかったことも。

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