第六章-1 島民は、同じ嘘を別々に覚えている
灯台へ向かう前に、凪は「一か所だけ寄りたい」と言った。
「灯台じゃないの?」
「その前に、聞いておいた方がいい人がいる」
「誰?」
「母のことを、たぶん知ってる人」
凪はそう言ったが、表情は明るくなかった。
さっき、彼女は母の名前を言った。
水瀬澪。
その名前は、僕が追っている相原澪と重なっている。完全に同じだと決まったわけではない。けれど、もう無関係だと思う方が難しかった。
凪も、それを分かっている。
分かっているからこそ、確かめるのが怖いのだろう。
僕たちは、灯台へ続く道から少し外れ、瀬戸田の町の内側へ戻った。海沿いの明るさから離れると、道は細くなり、観光客の姿も少なくなる。洗濯物の揺れる家。古い塀。小さな祠。軒先に置かれた柑橘の箱。
凪は迷わず歩く。
僕はその後ろで、祖母の地図を鞄の中にしまったままにしていた。
ここから先は、祖母の地図だけでは進めない。
凪の記憶と、凪の知らないふりをしてきたものが必要になる。
最初に訪ねたのは、古い土産物屋だった。
店先には柑橘の菓子や絵葉書が並んでいて、奥に白髪の女性が座っていた。凪を見ると、女性はすぐに目を細めた。
「凪ちゃん、久しぶりじゃね」
「こんにちは、山根さん」
「今日はお友達?」
「うん。ちょっと聞きたいことがあって」
女性の視線が、僕に移る。
僕は軽く頭を下げた。
「高坂湊です」
高坂、と聞いた瞬間、女性の表情がかすかに変わった。
もう驚かなかった。
この反応にも、慣れ始めている自分が少し嫌だった。
「高坂……千代さんの?」
「孫です」
「そう」
山根さんは、それだけ言って目を伏せた。
凪が一歩前に出た。
「山根さん。十年前の、相原澪のことを聞きたい」
店の奥の空気が、すっと冷えた。
さっきまで、近所の子に話しかけるようだった山根さんの顔が、別のものになる。
「そんな昔のこと、何を今さら」
「今さらだから、聞きたいの」
凪の声は硬かった。
山根さんは、彼女をじっと見た。
「お母さんに聞きんさい」
「聞けないから来た」
「聞けんことは、聞かん方がええこともある」
「それ、大人はみんな言う」
凪が小さく笑った。
けれど、その笑いは尖っていた。
「でも、言われる側は、ずっと分からないままなんだよ」
山根さんは黙った。
僕は二人の間に立っていることが、少し申し訳なくなった。これは、凪とこの町の話だ。僕はよそから来た、祖母のノートを持っただけの人間でしかない。
それでも、僕の祖母もこの話に関わっている。
だから、聞かないわけにはいかなかった。
「澪さんは、十年前、ここにいたんですか」
僕が聞くと、山根さんは僕を見た。
「いたよ」
答えは、思ったより早かった。
「でも、あの日の夕方には、もういなかった」
「海で消えたと?」
「そういうことになっとる」
その言い方は、村上老人や藤野さんと同じだった。
「山根さんは、澪さんを見たんですか」
「見た」
「いつですか」
「昼過ぎ。港の近くで」
僕は息を詰めた。
重井東では、澪が降りたかどうかの証言が割れていた。ここでは、昼過ぎに港近くで見たという。
「一人でしたか」
山根さんは、少しだけ答えに詰まった。
「一人に見えた」
「見えた?」
「隣に誰かおった気もする。でも、はっきりは覚えとらん」
まただ。
証言が、輪郭を持たない。
見た。
でも一人かどうか分からない。
誰かがいた気もする。
はっきりしない。
十年前だから曖昧なのか。
それとも、曖昧にしているのか。
「その誰かは、高坂千代でしたか」
僕が聞くと、山根さんはすぐに答えなかった。
代わりに、凪を見た。
「凪ちゃん。あんた、どこまで知っとるん」
「知らないから聞いてる」
「澪ちゃんは、あんたに何も話さんかったん?」
凪の肩が、わずかに強張った。
澪ちゃん。
山根さんは、凪の母をそう呼んだ。
僕は、心臓が一つ強く鳴るのを感じた。
凪も気づいたはずだ。
けれど彼女は、声を荒げなかった。
「今、母のことを澪ちゃんって呼んだ?」
静かな声だった。
山根さんの顔に、しまった、という表情が浮かんだ。
「……昔の癖よ」
「昔の癖って、どういう意味?」
「凪ちゃん」
「私の母は、水瀬澪。山根さんは、母が相原澪だったって知ってるんだね」
山根さんは答えなかった。
でも、沈黙が答えだった。
凪は唇を結んだ。
泣きそうには見えなかった。
怒っているようにも見えなかった。
ただ、今まで曖昧なまま置かれていたものが、ようやく言葉になったせいで、立っている場所を失ったように見えた。
「母は、死んでないんだね」
凪が言った。
山根さんは、ゆっくりと目を閉じた。
「私は、そう思っとる」
「思ってる?」
「見送ったわけじゃない。全部を知っとるわけでもない。ただ、あの子は海で死ぬような目をしとらんかった」
「じゃあ、何でみんな死んだみたいに言うの」
凪の声が、少し震えた。
「何で、母は帰れなかったの」
山根さんは答えられなかった。
その沈黙が、店の中に重く残る。
僕は、祖母のノートを思い出した。
十七時の船を見送ること。
澪は、帰る船に乗れなかった。
凪はそのことを、母の断片から知っていた。
でも、理由は知らない。
「相原誠一さんは、その日、澪さんを探していたんですか」
僕が聞くと、山根さんの顔が硬くなった。
「その名前は、ここであまり出さん方がええ」
「どうしてですか」
「今も、力のある人じゃけえ」
今も。
十年前の話では終わっていない。
「相原さんは、澪さんに何をしたんですか」
「何をした、とは言えん」
「みんなそう言います」
僕の声が少し強くなった。
「何かをしたとは言えない。でも、澪さんは逃げたがっていた。戻されたら出られなくなると言った。十七時の船に乗れなかった。海で消えたことになった。なのに、誰も何をしたかは言わない」
山根さんは、僕を見た。
その目には、怒りではなく、疲れがあった。
「言えんこともある」
「守るためですか」
「そう言えば、聞こえはええね」
山根さんは小さく言った。
「でも、守るためだけじゃない。自分たちが怖かったから黙ったこともある。町のためと言って、自分の暮らしを守ったこともある」
それは、初めて聞く種類の言葉だった。
村上老人も、藤野さんも、嘘を守る側として語っていた。けれど山根さんは、その中にある弱さを認めた。
「じゃあ、祖母は?」
僕は聞いた。
「高坂千代は、怖くなかったんですか」
山根さんは、少しだけ笑った。
「怖かったと思うよ」
「でも、やった」
「旅行者じゃったからね」
その言葉は、村上老人のものと同じだった。
旅行者の顔をしていた。
でも、旅行者ではなかった。
「千代さんは、この町の人間じゃなかった。だから、できたことがある。逆に、知らなかったこともある」
「知らなかったこと?」
「この町で嘘をつくと、十年経っても残るってこと」
僕は何も言えなかった。
凪は、黙って山根さんを見ていた。
「母は、ここを捨てたんですか」
やがて、凪が聞いた。
山根さんは首を横に振った。
「捨てられたんじゃない。捨てたんでもない」
「じゃあ、何」
「逃がされたんよ」
凪の目が揺れた。
「誰に」
山根さんは、僕を見た。
「高坂千代さんに」
その名前が、店の中に静かに落ちた。
僕は、祖母を疑っていた。
事件を隠した人なのではないか。澪を帳簿から消し、海で消えたことにして、何かを隠蔽したのではないか。
でも今、山根さんは言った。
逃がされた。
祖母に。
まだ、全部を信じるには早い。
藤野さんは、嘘をついた人間の言葉をそのまま信じるなと言った。山根さんもまた、十年前に何かを黙った人間なのだろう。
それでも、凪の顔を見ると、その言葉がどれほど大きいか分かった。
母は、自分を捨てたのではない。
帰れなかったのではなく、逃がされたのかもしれない。
それは救いであり、同時に新しい痛みでもあった。
「山根さん」
凪が言った。
「母は、十七時の船に乗れなかったの?」
山根さんは、今度ははっきり頷いた。
「乗らんかった」
「どうして」
「乗ったら、見つかるから」
短い答えだった。
でも、祖母のメモと完全に重なった。
十七時の船を見送ること。
凪は目を伏せた。
「やっぱり」
小さな声だった。
「母が言ってたのと同じ」
僕は凪の横顔を見た。
この瞬間、彼女の中でも、母の断片がつながり始めているのだろう。
山根さんは、店の奥から一枚の古い絵葉書を持ってきた。
「これは、千代さんが置いていったものじゃない。澪ちゃんが後で送ってきたもの」
「母が?」
凪の声が変わった。
山根さんは、絵葉書をテーブルに置いた。
表には、海の写真が印刷されている。裏には短い文字。
まだ帰れません。
でも、生きています。
差出人の名前は、なかった。
凪はその絵葉書を見つめたまま、動かなかった。
僕も、言葉を失った。
澪は生きている。
少なくとも、この絵葉書が送られた時点では。
海で死んだわけではない。
祖母の嘘は、誰かを消すためだけのものではなかった。
誰かを生かすための嘘でもあった。
山根さんは、静かに言った。
「これ以上は、灯台へ行きんさい」
また、次の場所だった。
でも今度は、不親切だとは思わなかった。
この町の嘘は、場所ごとに置かれている。
全部を一度に語ると、たぶん壊れてしまう。
「灯台で、何が分かるんですか」
僕が聞くと、山根さんは答えた。
「なぜ、港から見えない場所が必要だったのか」
凪が、ゆっくり顔を上げた。
その目は、まだ揺れていた。
でも、さっきより少しだけ前を見ていた。
「行こう、湊くん」
凪は言った。
「母が帰れなかった理由を、ちゃんと見る」
僕は頷いた。
店を出ると、外の光は少し傾いていた。
十七時の船まで、時間は確実に近づいている。
凪は時刻表を見なかった。
それでも、分かっているのだろう。
船の時間も。
母が乗れなかった理由も。
そして、僕たちが次に向かうべき場所も。




