第六章-2 島民は、同じ嘘を別々に覚えている
山根さんの店を出てから、凪はしばらく黙っていた。
手には、あの絵葉書を持っている。
まだ帰れません。
でも、生きています。
差出人の名前はない。
けれど、凪はそれを疑っていないように見えた。疑わないというより、疑う余裕がないのかもしれない。母が昔送ったかもしれない絵葉書。その一枚が、凪の中でずっと曖昧だったものに、形を与えてしまった。
「凪」
「大丈夫」
僕が何か言う前に、凪はそう答えた。
「まだ何も言ってない」
「慰められそうだったから」
「慰めるほど、僕も分かってない」
「じゃあ、ちょうどいいね」
凪は少しだけ笑った。
でも、絵葉書を握る指には力が入っている。
僕たちは灯台へ向かう前に、もう一人だけ話を聞くことにした。山根さんが最後に教えてくれた人物だ。港近くで昔、小さな自転車修理の店をしていた老人。十年前の夕方、港へ向かう道にいたらしい。
「その人も、母のことを知ってるの?」
「分からない」
凪は首を横に振った。
「でも、山根さんが言うなら、何かは見てると思う」
「みんな、少しずつだね」
「うん」
凪は海の方を見た。
「少しずつ知ってて、少しずつ黙ってる」
その言い方には、怒りだけではないものが混じっていた。
諦め。疲れ。怖さ。
たぶん、彼女自身も母のことを少しずつしか知らないまま、ここまで来たからだ。
自転車修理の店は、もう営業していなかった。
シャッターは半分下り、店先には古い空気入れと、錆びた看板が残っている。けれど、奥の住居部分には人の気配があり、凪が声をかけると、しばらくして老人が出てきた。
細い体に作業着を着ている。髪は白く、目は小さいが鋭かった。
「凪ちゃんか」
「こんにちは、森川さん」
「珍しいのう。そっちの子は?」
「高坂湊くん」
高坂、と聞いた瞬間、森川さんは表情を変えなかった。
変えなかったことが、逆に不自然だった。
「そうか」
それだけ言って、彼は店先の古い椅子を示した。
「座るほどの話でもないが」
「十年前の、相原澪のことを聞きたいんです」
僕が言うと、森川さんは海の方を見た。
「また、その話か」
「また?」
「人は忘れた頃に、昔のことを掘り返しに来る」
「前にも誰か来たんですか」
森川さんは答えなかった。
代わりに、凪を見た。
「母親には聞いたんか」
凪は唇を結んだ。
「聞けないから来た」
「聞けるうちに聞いとけ」
森川さんの声は、突き放すようでいて、少しだけ痛みがあった。
「聞けんようになってからでは、遅い」
僕は祖母のことを思い出した。
聞けなくなってから、尾道へ来た僕には、何も言えなかった。
「森川さんは、あの日、何を見たんですか」
僕が聞くと、森川さんはゆっくりと息を吐いた。
「夕方、港へ向かう女の子を見た」
「澪さんですか」
「そう言われれば、そう見えた」
「一人で?」
「一人じゃった」
初めて、はっきりした証言だった。
けれど、すぐに森川さんは付け足した。
「少なくとも、わしにはそう見えた」
「また、見えた、ですか」
思わず言うと、森川さんは僕を見た。
「十年前の夕方のことを、断言できる方が怖いわ」
「でも、みんな言うことが違うんです」
「そりゃそうじゃろ」
「どうしてですか」
「見たものが違うからじゃ」
森川さんは、静かに言った。
「同じものを見ていたんじゃない。みんな、自分が見ることになっとったものを見た」
意味が分からなかった。
「見ることになっていた?」
「港にいた者は、船を見た。店にいた者は、客を見た。道にいたわしは、歩く背中を見た。それぞれが、それぞれの場所で見たものを覚えとる」
「でも、その証言が食い違ってる」
「食い違うようにしたんじゃろ」
森川さんは、あまりにもあっさり言った。
凪が顔を上げた。
「誰が?」
「千代さんじゃ」
僕の中で、何かが冷たく沈んだ。
「祖母が、証言を食い違わせた?」
「全部を指示したわけじゃなかろう。でも、あの人は分かっとった。人間は、自分が見たいものと、自分が言えることしか言わん」
「どういう意味ですか」
「若い子を見たと言えば、探しとる大人が来る。見ていないと言えば、嘘になる。なら、少しずつずらす。見た時間をずらす。場所をずらす。一緒にいた人間を曖昧にする」
森川さんは、凪を見た。
「そうすれば、追う側は迷う」
凪の顔が強張った。
「母を逃がすために?」
「そう聞いとる」
「誰から」
「千代さんからじゃ」
風が吹いた。
店先の錆びた看板が、小さく鳴った。
「森川さんも、嘘をついたんですか」
凪の声は静かだった。
森川さんは頷いた。
「ついた」
「何て?」
「夕方、澪ちゃんが港へ向かうのを見た、と」
「本当は?」
森川さんは少しだけ目を細めた。
「わしが見たのは、澪ちゃんに似た上着を着た別の子じゃったかもしれん」
「別の子?」
僕は息を止めた。
上着。
村上老人から受け取った紺色の上着。
「それは誰ですか」
「知らん」
「知らない?」
「知ろうとせんかった。知らん方が、嘘が少なくて済む」
森川さんの言葉は、重かった。
「わしは、澪ちゃんを見たと言った。けれど、本当は顔を見とらん。見たのは上着と背中だけじゃ」
「それが、母だと思ったんですか」
凪が聞いた。
「思ったことにした」
森川さんは答えた。
凪の手の中で、絵葉書がかすかに震えた。
「みんな、そんなふうに?」
「みんなではない。けれど、何人かはそうじゃ。見たことにした者。見ていないことにした者。時間を間違えたことにした者。覚えていないことにした者」
同じ嘘をついたわけではない。
それぞれが、自分の場所で、違う嘘をついた。
藤野さんの言葉が、ここで形を持った。
島民たちの証言がずれていたのは、口裏合わせに失敗したからではない。
最初から、別々の嘘だったのだ。
「どうしてそこまでしたんですか」
僕は聞いた。
「澪さんを守るためですか」
「それもある」
「それも?」
「相原誠一が怖かったからでもある」
森川さんは、初めてその名前をはっきり口にした。
「澪ちゃんを追っとったのは、あの人じゃ。あの人に逆らえば、面倒なことになる。商売にも、暮らしにも響く」
「じゃあ、自分たちを守るためでもあった」
「そうじゃ」
森川さんは逃げなかった。
「きれいな話にするな。わしらは澪ちゃんを助けたかった。けれど、自分たちも守りたかった。その両方じゃ」
凪は黙っていた。
その横顔からは、怒っているのか、納得しているのか分からなかった。
「でも、母は生きていた」
凪は絵葉書を見た。
「少なくとも、逃げたあとも」
「そうじゃろうな」
「なのに、誰も教えてくれなかった」
「教えたら、嘘が壊れる」
「私にも?」
凪の声が、少しだけ震えた。
「私は、母の娘なのに」
森川さんは、初めて言葉に詰まった。
その沈黙が、凪の問いの重さを物語っていた。
僕は口を挟めなかった。
嘘は澪を守った。
でも、その嘘は凪から母の過去を奪った。
誰かを守るための嘘が、別の誰かを傷つけることもある。
祖母は、それを分かっていたのだろうか。
「灯台へ行け」
森川さんが言った。
また、その場所だった。
「そこに、何があるんですか」
僕が聞くと、森川さんは海の方を見た。
「港から見えん場所がある」
「それは知っています」
「そこが、最後に本当の澪ちゃんがいた場所じゃ」
凪が、顔を上げた。
「本当の母?」
「上着でも、背中でも、噂でもない。相原澪本人が、最後にいた場所」
森川さんは、僕たちを見た。
「十七時の船が出る前にな」
十七時。
凪の指がまた強く握られる。
船の時間は、近づいている。
僕たちは礼を言い、店を離れた。
歩き出してからも、凪はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「母は、守られたんだよね」
「うん」
「でも、私には隠された」
僕は答えられなかった。
凪は絵葉書を鞄にしまった。
「行こう」
「灯台へ?」
「うん」
彼女は海の方を見ずに歩き出した。
「母が本当にいた場所を、見に行く」




