第六章-3 島民は、同じ嘘を別々に覚えている
灯台へ向かう道に戻ろうとした時、凪の足が止まった。
視線の先に、一台の黒い車が停まっていた。
古い商店の前。道幅の狭い場所に、少し無理をして寄せるように停められている。車の横には、背の高い男が立っていた。白いシャツに薄い上着。観光客には見えない。地元の人にしては、町に馴染もうとしていない立ち方だった。
凪の表情が変わった。
「知ってる人?」
僕が小声で聞くと、凪は答えなかった。
男がこちらへ歩いてくる。
年齢は五十代後半くらいだろうか。髪には白いものが混じっているが、背筋は伸びていた。目元は穏やかに作られているのに、こちらを見る視線だけが冷たい。
「水瀬凪さんですね」
男は、凪の名前を正確に呼んだ。
凪は一歩も下がらなかった。
「そうですけど」
「相原誠一です」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
相原澪の伯父。
島の有力者。
澪を追い詰めた側の人間。
これまで話の中にだけいた人物が、急に現実の道に立っていた。
相原誠一は、僕へ視線を移した。
「君が、高坂千代さんのお孫さんかな」
「……高坂湊です」
「そうですか」
誠一は、丁寧に頷いた。
その動作だけなら礼儀正しい大人だった。けれど、凪の肩が強張っているせいで、僕まで身構えてしまう。
「ずいぶん熱心に昔のことを調べているようですね」
「誰から聞いたんですか」
僕が聞くと、誠一は薄く笑った。
「この町は狭い。知らない人間が、十年前の名前を聞いて回れば、すぐに分かります」
知らない人間。
その言い方には、僕だけでなく、凪も含まれているように聞こえた。
「私たちは、母のことを聞いているだけです」
凪が言った。
「母?」
誠一は、少しだけ眉を上げた。
「水瀬澪さんのことですか」
「相原澪です」
凪は、はっきり言った。
誠一の目が細くなる。
「その名前を、軽々しく使うべきではない」
「私の母の名前です」
「君の母親は、水瀬澪さんでしょう」
「同じ人なんじゃないんですか」
凪の声は震えていなかった。
誠一は、少しだけ沈黙した。
そして、僕たちの後ろにある道を見た。灯台へ続く方角だ。
「これ以上、行くのはやめなさい」
「どうしてですか」
「何も残っていないからです」
「残っていないなら、行っても困らないでしょう」
凪が言い返す。
誠一は彼女を見た。
「君は、自分が何を壊そうとしているのか分かっていない」
「壊したのは、そっちじゃないんですか」
凪の声が少し鋭くなった。
「母を追い詰めたのは、あなたなんじゃないんですか」
誠一の表情は、大きくは変わらなかった。
けれど、作っていた穏やかさが一枚剥がれた。
「子どもには分からない事情がある」
「それ、大人が一番よく使う逃げ言葉ですよね」
「凪」
僕は思わず名前を呼んだ。
彼女は止まらなかった。
「母は、戻されたら出られなくなるって言ったそうです。十七時の船に乗れなかった。海で死んだことにされた。みんな嘘をついて、母を隠した」
凪は誠一を見据えた。
「あなたから」
誠一は、ゆっくり息を吐いた。
「高坂千代さんは、余計なことをした」
その言葉で、僕の中の何かが熱くなった。
「余計なこと?」
「家庭のことに、外の人間が口を出すべきではなかった」
「澪さんは助けを求めたんですよね」
「十六歳の子どもは、自分の置かれた状況を正しく理解できないことがある」
その言い方が、ひどく嫌だった。
澪の言葉を、最初から無効にする言い方だった。
「だから、進路も外出も交友関係も、全部あなたが決めたんですか」
僕が聞くと、誠一は僕を見た。
「君は何も知らない」
「だから、知ろうとしています」
「知れば済む話ではない」
誠一の声が低くなる。
「高坂君。君のお祖母さんが守ったものを、君が壊すことになるかもしれない」
僕は言葉に詰まった。
村上老人も、藤野さんも、山根さんも、森川さんも、澪を守るために嘘をついたと言った。
そして今、澪を追い詰めたはずの相原誠一も、同じようなことを言っている。
守ったものを壊す。
それは脅しなのか。
それとも、本当に何かを守ろうとしているのか。
「澪さんは、生きているんですか」
僕は聞いた。
誠一は答えなかった。
その沈黙に、凪が一歩前へ出る。
「母は、生きてます」
凪は言った。
「私は、その娘です」
誠一の顔に、初めてはっきりと動揺が浮かんだ。
彼は凪を見た。
まるで、今初めて彼女の顔をきちんと見たように。
「……似ている」
小さな声だった。
凪の表情が強張る。
「母に?」
誠一はすぐには答えなかった。
やがて、視線を外した。
「灯台へ行っても、君の望む答えはない」
「それは、私が決めます」
「君の母親も、そう言った」
凪が息を止めた。
「自分で決める、と。だが、決めた結果、多くの人間を巻き込んだ」
「巻き込んだのは母じゃない」
凪の声は低かった。
「母を逃げるしかないところまで追い詰めた人たちでしょう」
誠一は、もう何も言わなかった。
ただ、僕に一枚の名刺を差し出した。
「これ以上調べるなら、先に私のところへ来なさい。古い証言を集めても、都合のいい美談にしかなりません」
「美談?」
「高坂千代さんは、善人だった。島民は少女を守った。澪は自由になった。そういう話にしたいのでしょう」
誠一の目は、静かに冷たかった。
「でも、嘘は嘘です」
その言葉だけは、否定できなかった。
誠一は車へ戻っていく。
ドアが閉まる音がして、車はゆっくり走り去った。
凪は、しばらく動かなかった。
「大丈夫?」
僕が聞くと、彼女は笑った。
けれど、目は笑っていなかった。
「全然」
そう言って、凪は灯台へ続く道を見た。
「でも、行く」
「うん」
「母が本当にいた場所を、あの人の言葉で終わらせたくない」
僕は名刺を鞄にしまった。
相原誠一。
彼は敵に見えた。
でも、最後の言葉だけは棘のように残っている。
嘘は嘘です。
祖母の嘘が誰かを救ったとしても、その嘘で傷ついた人がいる。
凪も、その一人なのかもしれない。
僕たちは、灯台へ向かって歩き出した。
十七時の船まで、時間はもうあまり残っていなかった。




