第六章-4 島民は、同じ嘘を別々に覚えている
相原誠一の車が見えなくなっても、凪はしばらく歩き出さなかった。
灯台へ続く道は、目の前にある。
細く、ゆるく上っている道。観光客がまったく通らないわけではないのだろうけれど、今は人影がなかった。海沿いの明るさから少し外れただけで、町の音が薄くなる。
凪はその道を見つめていた。
「似てるって」
ぽつりと言った。
「え?」
「あの人、私を見て、母に似てるって言った」
僕は何も言えなかった。
誠一のあの声は、ただの驚きではなかった。懐かしさとも違う。もっと厄介な、過去が突然目の前に戻ってきた時の声だった。
「私、母に似てるって言われるの嫌いだった」
凪は、灯台の方を見たまま言った。
「どうして?」
「母のこと、何も知らないのに、似てるって言われるから。顔だけ似てても、何を考えてたか分からない。何から逃げたのかも分からない。なのに、似てるって言われると、私まで何かを背負わされる気がする」
風が吹いた。
凪の手には、山根さんから渡された絵葉書がまだ握られている。
まだ帰れません。
でも、生きています。
あの短い文が、凪にとって救いなのか、傷なのか、僕には分からなかった。
「でも」
凪は続けた。
「さっきは、嫌じゃなかった」
「相原誠一に?」
「うん。嫌だけど、嫌じゃなかった。変だよね」
「変じゃないと思う」
「どうして」
「凪のお母さんが、本当にここにいたって分かったからじゃないかな」
凪は、少しだけ僕を見た。
「似てるって言葉が、証拠みたいに聞こえた?」
「たぶん」
僕がそう言うと、凪は小さく息を吐いた。
「湊くん、変なところで鋭いね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
少しだけ、いつもの凪に戻った。
でも、すぐに表情は硬くなる。
「私、母が相原澪だったって、ずっと疑ってた。でも、今日、みんなの話を聞いて、ほとんど分かっちゃった」
「うん」
「母は死んでない。島から逃がされた。十七時の船に乗れなかった。高坂千代さんが助けた」
凪は、僕の祖母の名前を丁寧に言った。
「でも、まだ一番大事なところが分からない」
「大事なところ?」
「母は、どうして私に何も言わなかったのか」
その問いは、海風よりも冷たく響いた。
「守るためだったって言われたら、たぶん私は怒れない。でも、怒れないからって、傷つかなかったことにはならない」
僕は頷いた。
祖母も同じだ。
誰かを守るための嘘だったとしても、僕と母はその嘘の外側に置かれていた。祖母のことを知らないまま、祖母を失った。
救われた誰かがいる。
でも、知らされなかった誰かもいる。
その両方が、同じ嘘から生まれている。
「さっき、あの人が言ったこと」
凪が言った。
「嘘は嘘です、って」
「うん」
「あれ、悔しいけど、間違ってないよね」
「うん」
「でも、だからって、母を逃がしたことまで間違いだったとは思いたくない」
凪は、絵葉書を鞄にしまった。
そして、僕を見た。
「湊くんのおばあちゃんは、間違えたと思う?」
答えに詰まった。
祖母は、帳簿から澪を消した。
上着を隠した。
船の時刻を使った。
人々に別々の嘘を残した。
正しい手順ではなかったのだろう。
でも、あの夜の澪が「戻されたら出られなくなる」と言ったのなら。
祖母は、その声を信じた。
「まだ分からない」
僕は正直に言った。
「でも、逃げる子が謝らなくていいって言った祖母のことは、信じたいと思ってる」
凪は目を伏せた。
「そっか」
それだけ言って、灯台へ続く道に足を向けた。
歩き出して少しすると、凪がふいに言った。
「母が言ってた言葉と同じだった」
「何が?」
「見えない場所にいれば、まだ見つかってないことにできるって」
それは、さっき凪が言った言葉だった。
「母は、小さい頃の私に言ったの。かくれんぼしてた時。私がすぐ見つかって泣いたら、母が笑って、『見えない場所にいれば、まだ見つかってないことにできるよ』って」
凪の声は、少しずつ低くなった。
「その時は、ただのかくれんぼの話だと思ってた」
「でも、違った」
「うん。たぶん、母は自分の話をしてた」
僕は祖母の地図を思い出した。
灯台は、港から見えない。
見えない場所にいれば、まだ見つかっていないことにできる。
澪は、その言葉をここで覚えたのだろうか。
それとも、祖母がそう言ったのだろうか。
どちらにしても、その言葉は十年後、凪の幼い日のかくれんぼに紛れ込んでいた。
伏線は、こんなふうに人の生活へ沈むのだと思った。
初めて聞いた時には、ただの優しい言葉。
でも、真相に近づくと、別の意味を持って浮かび上がる。
「湊くん」
「うん」
「灯台で、もし本当のことが分かったら」
凪は一度言葉を切った。
「私、母に聞く。今度は、聞かないふりをしない」
「うん」
「だから、湊くんも聞いた方がいいよ」
「誰に?」
「お母さんに。おばあちゃんのこと」
僕は少し驚いた。
「うちの母に?」
「うん。湊くんのお母さんも、知らないだけじゃなくて、聞かなかったことがあるんでしょ」
凪は前を向いたまま言った。
「聞ける人がいるなら、聞いた方がいい。いなくなった人のことは、残った人からしか聞けないから」
その言葉は、まっすぐ胸に入ってきた。
僕は祖母にはもう聞けない。
でも、母には聞ける。
母が何を知り、何を知らず、何を聞けなかったのか。
それもまた、祖母を知ることなのだろう。
道は少しずつ上っていた。
海の音が遠くなる。代わりに、風の音が強くなる。港はもう見えない。振り返っても、建物と木々に遮られて、桟橋の位置は分からなかった。
港から見えない場所。
祖母の地図の言葉が、ようやく体で分かる。
ここまで来ると、船が着いたかどうかは見えない。
でも、音は聞こえる。
遠くで、低い船の音がした。
凪が立ち止まる。
僕も足を止めた。
「今の」
「船?」
「うん」
凪は目を閉じるようにして聞いていた。
「まだ十七時じゃない。でも、近づいてる」
時刻表を見なくても、凪には分かる。
船の音で。
体に染み込んだ母の記憶で。
「行こう」
凪は目を開けた。
「十七時の船が来る前に、見たい」
僕は頷いた。
灯台へ続く道は、もうすぐ先で海の方へ開けているようだった。
凪は早足になった。
僕はその後を追う。
祖母のノート。
澪の絵葉書。
凪の母が漏らした言葉。
島民たちの食い違う証言。
相原誠一の警告。
全部が、灯台へ向かって集まっていく。
港から見えない場所へ。
十年前、本当の相原澪が最後にいた場所へ。




