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第七章-1 灯台の下で、旅ノートは逃走経路になる

 灯台は、思っていたよりも小さかった。


 観光写真に写る灯台というものは、もっと立派で、もっと遠くからでも分かるものだと思っていた。青い空を背負い、白く高く立ち、誰が見ても「あれが灯台だ」と分かるような。


 けれど、僕たちの前に現れた灯台は、そういう場所ではなかった。


 白い円筒形の小さな建物。周囲には低い草と、海へ向かって落ちていく斜面。道は途中から細くなり、観光客向けの整った広場というより、知っている人だけが来る場所に見えた。


 凪は、灯台の少し手前で立ち止まった。


 息が少し乱れている。急いで歩いたせいもあるだろう。でも、それだけではない。


「ここ?」


 僕が聞くと、凪は頷いた。


「たぶん」


「たぶん?」


「母の話と、湊くんのおばあちゃんの地図が、同じ場所を指してるなら」


 凪はそう言って、海の方を見た。


 ここからは港が見えなかった。


 さっきまで歩いていた道も、瀬戸田の町も、建物と地形に隠れている。海は見える。遠くの島影も見える。けれど、港の桟橋は見えない。


 祖母の地図にあった一文。


灯台は、港から見えない。


 僕はその意味を、ようやく理解した。


 地図で見ても分からない。写真で見ても、たぶん分からない。実際にここまで来て、港の方角を振り返って初めて分かる。


 ここは、港から死角になる。


 そして、ここからなら船の音が聞こえる。


 遠くで、低いエンジン音がした。


 凪が反射的に顔を上げた。


 その仕草は、もう癖になっているのだろう。船の音を聞くたび、凪は時間を確かめる。港を見る代わりに、音で時刻を測る。


「今のは?」


 僕が聞くと、凪はしばらく耳を澄ませた。


「まだ違う」


「十七時の船じゃない?」


「うん。でも、近い」


 凪の声は硬かった。


 十七時の船。


 彼女の母が乗れなかった船。

 祖母のメモに、見送ることと書かれていた船。

 相原誠一が見張っていたかもしれない船。


 僕たちは、その時間に近づいている。


 灯台の下には、少し開けた場所があった。草の間に、平たい石がいくつか見える。誰かが座るにはちょうどいい。観光客が休む場所にも見えるし、誰かが息を潜めて待つ場所にも見える。


 凪は、そこへゆっくり歩いていった。


 そして、石の前で立ち止まった。


「母が、言ってた」


「何を?」


「石が冷たかったって」


 凪は、しゃがんでその石に触れた。


「夏なのに、冷たかったって。海の音が近いのに、港は見えなくて。船が来るたびに、自分を探しに来たんじゃないかと思ったって」


 僕は声を出せなかった。


 凪は、その話をいつ聞いたのだろう。


 母は、どんな顔でそれを話したのだろう。


 それを思い出話として言ったのか。悪夢の断片として漏らしたのか。娘に伝えるつもりではなく、ただ口からこぼれてしまったのか。


 どちらにしても、その言葉は凪の中に残った。


 石が冷たかった。


 船が来るたびに怖かった。


 港は見えなかった。


 何気ない断片が、今ここで場所を得ている。


「凪のお母さんは、ここにいたんだね」


 僕が言うと、凪は石に触れたまま、小さく頷いた。


「たぶん」


「たぶんじゃなくて」


「うん」


 凪は顔を上げた。


「いたんだと思う」


 その声は、震えていた。


 でも、さっきまでとは違う。怖さだけではなく、ようやく母の足跡に追いついたような響きがあった。


 僕は鞄から祖母のノートを取り出した。


 灯台のページを探す。


 何度も開いたせいで、ページの端が少し丸まっている。僕は風で飛ばされないように手で押さえながら、祖母の字を読んだ。


灯台。

港からは見えない。

船の音は先に届く。

あの子が怖がったら、海ではなく足元を見せる。

石は冷たい。

冷たいものは、まだここにいる証拠になる。


 石は冷たい。


 凪の母が言っていた言葉と、祖母のノートが重なった。


 僕は凪にノートを見せた。


 凪は、祖母の字を目で追った。


 そして、石に触れていた手を握りしめた。


「母が言ってたのと同じ」


「うん」


「本当に、ここだったんだ」


 風が吹いた。


 凪の声は、その風に消えそうだった。


 僕はページの続きを読んだ。


十七時の船を待たない。

待つのは、船ではない。

港を見ている人たちが、船を見るまで待つ。

あの子は、船に乗せない。


 僕はそこで手を止めた。


 あの子は、船に乗せない。


 十七時の船を見送ること。


 同じ意味の言葉が、別の形でここにも残っていた。


 凪は、その一文を見つめている。


「乗せない」


 彼女が小さく言った。


「母は、乗れなかったんじゃなくて、乗せてもらえなかったの?」


 その声には、わずかに怒りが混じっていた。


 無理もない。


 凪にとって十七時の船は、母が帰れなかった船だ。母がずっと恐れていた船だ。その船に「乗せない」と書かれているなら、祖母が母の帰路を奪ったようにも見える。


「まだ、分からない」


 僕は言った。


「でも、たぶん理由がある」


「守るため?」


「そうかもしれない」


「便利な言葉だね」


 凪の声が少し鋭くなった。


「守るため。隠すため。逃がすため。みんなそう言う。でも、乗りたかったかもしれないじゃん。母は、その船に乗って帰りたかったかもしれないじゃん」


 僕は何も返せなかった。


 凪の怒りは正しい。


 澪を守るためだったとしても、澪自身がどう思ったのかは、まだ誰も語っていない。祖母のノートも、村上老人も、藤野さんも、山根さんも、森川さんも、みんな大人の側の言葉だった。


 逃がした側の言葉。


 守った側の言葉。


 でも、逃がされた澪の言葉は、断片しか残っていない。


 石が冷たかった。

 船の音が怖かった。

 十七時の船を見送った。

 帰る船に乗れなかった。


 凪は、その断片をずっと抱えていた。


 母が本当は何を望んだのか分からないまま。


 僕はノートのページをめくった。


 次のページには、祖母の字で短く書かれていた。


あの子が「帰りたい」と言ったら、止めないこと。

ただし、港へは戻さない。

帰る場所は、尾道ではない。

ここから先は、私が決めてはいけない。


 僕は凪にそのページを見せた。


 凪は、黙って読んだ。


 何度も、同じ行を目で追った。


「あの子が帰りたいと言ったら、止めないこと」


 凪は声に出した。


「でも、港へは戻さない」


「帰る場所は、尾道ではない」


 僕が続けた。


 凪はノートから目を離さなかった。


「ここから先は、私が決めてはいけない」


 その一文で、凪の表情が少し変わった。


 怒りが消えたわけではない。


 ただ、その怒りが向かう先を失ったように見えた。


「湊くんのおばあちゃんは、母の行き先を決めなかったの?」


「そう書いてある」


「じゃあ、誰が決めたの」


 僕は答えられなかった。


 ノートは、まだそこまで語っていない。


 けれど、ここまで来れば分かる。


 この灯台は、終点ではない。


 十七時の船に乗らないための待機場所。

 港から見えない場所。

 船を見送る場所。

 そして、その後の行き先を決める場所。


 澪はここで、ただ隠れていたのではない。


 自分の行き先を選ばされていたのだ。


 いや、初めて選べたのかもしれない。


 戻るか。

 逃げるか。

 尾道へ行くか。

 別の場所へ行くか。


 遠くで、また船の音がした。


 今度は凪がはっきりと反応した。


「近い」


「十七時の船?」


 凪はしばらく耳を澄ませた。


 顔から血の気が引いている。


「たぶん、まだ違う。でも、次か、その次」


 時間が迫っている。


 過去の十七時と、現在の十七時が重なろうとしている。


 僕は祖母のノートを閉じかけて、最後にもう一行あることに気づいた。


 ページの下の余白に、小さく書かれている。


船が見えなくなったら、嘘は旅でなくなる。


 僕は、その意味をすぐには理解できなかった。


 でも、心臓だけが先に反応した。


 嘘は旅でなくなる。


 つまり、ここまでは旅に見せていた。


 尾道駅。

 駅前桟橋。

 向島。

 重井東。

 瀬戸田。

 喫茶店。

 灯台。


 祖母の旅ノートは、澪を逃がすための導線だった。


 でも、十七時の船が見えなくなった後、もう旅ではいられなくなる。


 その先に、本当の逃走がある。


 凪も同じことに気づいたのだろう。


 彼女は、灯台の向こうの海を見た。


「母は、ここからどこへ行ったの」


 小さな声だった。


「船には乗らずに。港にも戻らずに。じゃあ、どこへ」


 僕はノートを握りしめた。


 風がページをめくろうとする。


 その時、遠くから船の音が響いた。


 さっきより低く、重い音。


 凪が立ち上がった。


「来る」


「十七時の船?」


 凪は答えなかった。


 ただ、海を見つめていた。


 港は見えない。


 でも、船の音だけが届く。


 十年前、澪もこの音を聞いた。


 ここで、港から見えない場所に隠れて。


 自分が乗らない船が近づいてくる音を聞いていた。


 凪の手が、震えていた。


 僕は何も言えず、隣に立った。


 祖母のノートは、ここで初めて、旅行記ではなくなろうとしていた。

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