第七章-2 灯台の下で、旅ノートは逃走経路になる
船の音は、少しずつ近づいてきた。
見えない。
港はここから見えない。桟橋も、待っている人も、船に乗る人も、降りる人も見えない。
それなのに、音だけが届く。
低く、重く、水面を押し分けるような音。
凪は立ったまま、その音を聞いていた。
僕はスマホで時刻を確認した。
十六時五十二分。
十七時の船には、まだ少し早い。けれど、ここへ来るまでに聞いてきた凪の言葉を思えば、その「少し」がどれくらいなのか、僕には分からなかった。
船の音を、凪は時刻表より正確に聞く。
「凪」
「まだ」
彼女は短く言った。
「まだ十七時じゃない。でも、もうすぐ」
もうすぐ。
その言葉だけで、空気が張り詰めた。
僕は祖母のノートを開き直した。
灯台のページ。
船が見えなくなったら、嘘は旅でなくなる。
その下に、薄い鉛筆の字で追記があった。さっきは風でページが揺れて気づかなかった。
ここまでを、旅に見せる。
ここから先は、誰にも見せない。
僕は声に出さず、その一文を何度も読んだ。
ここまでを、旅に見せる。
尾道駅から始まった導線が、頭の中で一本につながっていく。
駅から三分。
小銭を用意。
振り返るな。
向島で上着を受け取る。
尾道の宿で一人に見せる。
十二時四十分。
海から行く。
重井東で降りたことにする。
瀬戸田で待つ。
喫茶店で伝言を受け取る。
港から見えない灯台へ向かう。
十七時の船を見送る。
それらは、別々の観光メモではなかった。
別々の場所に置かれた、別々の嘘でもなかった。
一人の少女を、旅の形に包んで移動させるための手順だった。
僕は、背中に冷たいものが流れるのを感じた。
祖母のノートは、旅行記ではない。
逃走経路だ。
そう思った瞬間、今まで見てきた景色が一斉に裏返った。
尾道駅は、旅の始まりではなく、逃走の起点だった。
駅前桟橋は、海を見に行く場所ではなく、記録を残さず町を離れる入口だった。
向島の渡船は、五分の観光ではなく、人生を分ける境界だった。
古い上着は、思い出の品ではなく、澪を澪に見せないための変装だった。
尾道の宿は、旅情のある宿ではなく、帳簿から少女を消す場所だった。
重井東は、寄港地ではなく、証言をずらす地点だった。
瀬戸田の喫茶店は、休憩場所ではなく、まだ生きていることを確認する伝言場所だった。
灯台は、景色のいい場所ではなく、港から死角になる待機場所だった。
全部、最初からそう読めるように書かれていた。
なのに僕は、旅の記録だと思って読んでいた。
祖母は、それを狙っていたのだろう。
読んだ人間が、まず旅として辿るように。
その後で、場所ごとに意味が反転するように。
「湊くん」
凪の声で、僕は顔を上げた。
彼女は、僕の手元のノートを見ていた。
「何か、分かった?」
「たぶん」
僕は喉を鳴らした。
「このノート、旅行記じゃない」
凪は黙って続きを待った。
「逃走経路だ」
その言葉を口にした瞬間、凪の顔がわずかに歪んだ。
分かっていたような顔だった。
でも、誰かの口からはっきり言われるのを待っていたようでもあった。
「母を逃がすための?」
「うん」
僕はノートを凪に向けた。
「祖母は、澪さんを旅の中に隠したんだと思う。観光客に見えるように。逃げているように見えないように。場所ごとに協力者を置いて、証言をずらして、追う人の目を別の方へ向けた」
「だから、みんな違う嘘をついた」
「たぶん」
凪は、ゆっくりと石の上に座った。
力が抜けたようだった。
「母は、逃げたんだ」
「うん」
「捨てたんじゃなくて」
僕はすぐには答えなかった。
それは、僕が決めていいことではない気がした。
凪は僕の沈黙を責めなかった。
「逃げることと、捨てることって、違うよね」
「違うと思う」
「でも、残された人からは似て見える」
その言葉は、静かだった。
凪自身の話でもあり、祖母を失った僕の話でもあった。
僕はノートの次のページをめくった。
そこには、短い箇条書きのような文章があった。
一、十七時の船に、あの子を乗せない。
二、港へ戻らない。
三、灯台から下の道へ。
四、海を背にしない。顔を見られる。
五、迎えが来るまで、名前を呼ばない。
迎え。
僕はその言葉で止まった。
「凪」
「何?」
「迎えが来るって書いてある」
凪は顔を上げた。
「迎え?」
「うん。ここから先は、祖母だけじゃなかったみたいだ」
凪は立ち上がり、ノートを覗き込んだ。
文字を読んだ瞬間、表情が変わる。
「迎えって、誰?」
「分からない」
ページの下には、さらに小さな字が続いていた。
尾道へは戻さない。
島にも戻さない。
名前を変えるのは、あの子が決める。
私たちは、道だけ作る。
凪の唇が震えた。
「名前を変えるのは、あの子が決める」
彼女はその一文を声に出した。
「だから、水瀬?」
「たぶん」
「相原澪じゃなくて、水瀬澪に」
「澪さん自身が決めたのかもしれない」
凪は目を伏せた。
怒りではない。
悲しみとも少し違う。
母が自分の名前を選んだかもしれないという事実を、どう受け取ればいいのか分からない顔だった。
「母は、自分で選んだんだ」
凪は小さく言った。
「逃がされたんじゃなくて、最後は自分で」
そこまで言って、彼女は黙った。
船の音が、また聞こえた。
今度はさらに近い。
凪の肩が震えた。
「来る」
「十七時の船?」
凪は頷いた。
「たぶん、そう」
港は見えない。
けれど、音だけが現実の時刻を連れてくる。
十年前も、澪はここでこの音を聞いた。
自分が乗らない船。
乗れば見つかる船。
帰るように見えて、戻される船。
その船を、祖母は見送らせた。
澪を閉じ込めるためではない。
追っ手の視線を、船へ向けるために。
港で待つ人間たちが、十七時の船を見る。
澪が乗っているかどうかを確かめる。
その間に、澪は港から見えない場所で、次の道を選ぶ。
旅は、ここで終わる。
ここから先は、逃走になる。
僕はノートを握った。
凪は海を見ていた。
港は見えないのに、彼女はまるで船そのものを見ているようだった。
「母は、この音をずっと覚えてたんだね」
凪が言った。
「この船に乗れなかったからじゃなくて」
彼女は息を吸った。
「乗らないことで、生きたから」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
船の音が、ゆっくり遠ざかっていく。
十七時の船は、港へ入り、また出ていくのだろう。
僕たちからは見えない。
でも、音だけがその動きを伝えていた。
凪は目を閉じた。
しばらくして、静かに言った。
「私、母に聞くよ」
「うん」
「なんで黙ってたのって、怒ると思う。でも、その前に言う」
「何を?」
「生きててくれてよかったって」
僕は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
その時、ノートの間から一枚の紙が滑り落ちた。
薄い紙だった。
灯台のページに挟まっていたらしい。
僕は拾い上げる。
そこには、祖母の字ではない文字が書かれていた。
少し硬く、けれど丁寧な字。
千代さんへ。
私は海に返りません。
でも、いつか娘がこの海を見たら、
その時は、嘘ではなく本当の道を教えてください。
澪
凪が息を止めた。
僕も、動けなかった。
これは、相原澪の文字だ。
凪の母が、祖母に宛てた手紙。
そして、そこには「娘」と書かれている。
凪のことだ。
祖母は、この紙を残していた。
いつか凪がこの海を見る日のために。
凪は、震える手でその紙に触れた。
「母の字……」
「分かるの?」
「うん」
凪の声は、泣く直前のように細かった。
「家にあるメモと同じ」
彼女は手紙を両手で持った。
紙が風で揺れる。
「嘘ではなく、本当の道を教えてください」
凪は読み上げた。
「じゃあ、母は」
そこで声が途切れた。
僕は続きを言わなかった。
言わなくても分かる。
澪は、娘がいつかここへ来ることを想像していた。
逃げたまま、完全に捨てたわけではない。
戻れなくても、忘れたわけではない。
凪へ、本当の道を残そうとしていた。
遠くで、船の音が消えていく。
港から見えない灯台の下で、祖母の旅ノートは完全に別のものになった。
観光記録ではない。
逃走経路。
そして、十年後に娘へ渡されるための、真実への地図だった。




