表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/32

第七章-2 灯台の下で、旅ノートは逃走経路になる

 船の音は、少しずつ近づいてきた。


 見えない。


 港はここから見えない。桟橋も、待っている人も、船に乗る人も、降りる人も見えない。


 それなのに、音だけが届く。


 低く、重く、水面を押し分けるような音。


 凪は立ったまま、その音を聞いていた。


 僕はスマホで時刻を確認した。


 十六時五十二分。


 十七時の船には、まだ少し早い。けれど、ここへ来るまでに聞いてきた凪の言葉を思えば、その「少し」がどれくらいなのか、僕には分からなかった。


 船の音を、凪は時刻表より正確に聞く。


「凪」


「まだ」


 彼女は短く言った。


「まだ十七時じゃない。でも、もうすぐ」


 もうすぐ。


 その言葉だけで、空気が張り詰めた。


 僕は祖母のノートを開き直した。


 灯台のページ。


船が見えなくなったら、嘘は旅でなくなる。


 その下に、薄い鉛筆の字で追記があった。さっきは風でページが揺れて気づかなかった。


ここまでを、旅に見せる。

ここから先は、誰にも見せない。


 僕は声に出さず、その一文を何度も読んだ。


 ここまでを、旅に見せる。


 尾道駅から始まった導線が、頭の中で一本につながっていく。


 駅から三分。

 小銭を用意。

 振り返るな。

 向島で上着を受け取る。

 尾道の宿で一人に見せる。

 十二時四十分。

 海から行く。

 重井東で降りたことにする。

 瀬戸田で待つ。

 喫茶店で伝言を受け取る。

 港から見えない灯台へ向かう。

 十七時の船を見送る。


 それらは、別々の観光メモではなかった。


 別々の場所に置かれた、別々の嘘でもなかった。


 一人の少女を、旅の形に包んで移動させるための手順だった。


 僕は、背中に冷たいものが流れるのを感じた。


 祖母のノートは、旅行記ではない。


 逃走経路だ。


 そう思った瞬間、今まで見てきた景色が一斉に裏返った。


 尾道駅は、旅の始まりではなく、逃走の起点だった。

 駅前桟橋は、海を見に行く場所ではなく、記録を残さず町を離れる入口だった。

 向島の渡船は、五分の観光ではなく、人生を分ける境界だった。

 古い上着は、思い出の品ではなく、澪を澪に見せないための変装だった。

 尾道の宿は、旅情のある宿ではなく、帳簿から少女を消す場所だった。

 重井東は、寄港地ではなく、証言をずらす地点だった。

 瀬戸田の喫茶店は、休憩場所ではなく、まだ生きていることを確認する伝言場所だった。

 灯台は、景色のいい場所ではなく、港から死角になる待機場所だった。


 全部、最初からそう読めるように書かれていた。


 なのに僕は、旅の記録だと思って読んでいた。


 祖母は、それを狙っていたのだろう。


 読んだ人間が、まず旅として辿るように。


 その後で、場所ごとに意味が反転するように。


「湊くん」


 凪の声で、僕は顔を上げた。


 彼女は、僕の手元のノートを見ていた。


「何か、分かった?」


「たぶん」


 僕は喉を鳴らした。


「このノート、旅行記じゃない」


 凪は黙って続きを待った。


「逃走経路だ」


 その言葉を口にした瞬間、凪の顔がわずかに歪んだ。


 分かっていたような顔だった。


 でも、誰かの口からはっきり言われるのを待っていたようでもあった。


「母を逃がすための?」


「うん」


 僕はノートを凪に向けた。


「祖母は、澪さんを旅の中に隠したんだと思う。観光客に見えるように。逃げているように見えないように。場所ごとに協力者を置いて、証言をずらして、追う人の目を別の方へ向けた」


「だから、みんな違う嘘をついた」


「たぶん」


 凪は、ゆっくりと石の上に座った。


 力が抜けたようだった。


「母は、逃げたんだ」


「うん」


「捨てたんじゃなくて」


 僕はすぐには答えなかった。


 それは、僕が決めていいことではない気がした。


 凪は僕の沈黙を責めなかった。


「逃げることと、捨てることって、違うよね」


「違うと思う」


「でも、残された人からは似て見える」


 その言葉は、静かだった。


 凪自身の話でもあり、祖母を失った僕の話でもあった。


 僕はノートの次のページをめくった。


 そこには、短い箇条書きのような文章があった。


一、十七時の船に、あの子を乗せない。

二、港へ戻らない。

三、灯台から下の道へ。

四、海を背にしない。顔を見られる。

五、迎えが来るまで、名前を呼ばない。


 迎え。


 僕はその言葉で止まった。


「凪」


「何?」


「迎えが来るって書いてある」


 凪は顔を上げた。


「迎え?」


「うん。ここから先は、祖母だけじゃなかったみたいだ」


 凪は立ち上がり、ノートを覗き込んだ。


 文字を読んだ瞬間、表情が変わる。


「迎えって、誰?」


「分からない」


 ページの下には、さらに小さな字が続いていた。


尾道へは戻さない。

島にも戻さない。

名前を変えるのは、あの子が決める。

私たちは、道だけ作る。


 凪の唇が震えた。


「名前を変えるのは、あの子が決める」


 彼女はその一文を声に出した。


「だから、水瀬?」


「たぶん」


「相原澪じゃなくて、水瀬澪に」


「澪さん自身が決めたのかもしれない」


 凪は目を伏せた。


 怒りではない。


 悲しみとも少し違う。


 母が自分の名前を選んだかもしれないという事実を、どう受け取ればいいのか分からない顔だった。


「母は、自分で選んだんだ」


 凪は小さく言った。


「逃がされたんじゃなくて、最後は自分で」


 そこまで言って、彼女は黙った。


 船の音が、また聞こえた。


 今度はさらに近い。


 凪の肩が震えた。


「来る」


「十七時の船?」


 凪は頷いた。


「たぶん、そう」


 港は見えない。


 けれど、音だけが現実の時刻を連れてくる。


 十年前も、澪はここでこの音を聞いた。


 自分が乗らない船。

 乗れば見つかる船。

 帰るように見えて、戻される船。


 その船を、祖母は見送らせた。


 澪を閉じ込めるためではない。


 追っ手の視線を、船へ向けるために。


 港で待つ人間たちが、十七時の船を見る。

 澪が乗っているかどうかを確かめる。

 その間に、澪は港から見えない場所で、次の道を選ぶ。


 旅は、ここで終わる。


 ここから先は、逃走になる。


 僕はノートを握った。


 凪は海を見ていた。


 港は見えないのに、彼女はまるで船そのものを見ているようだった。


「母は、この音をずっと覚えてたんだね」


 凪が言った。


「この船に乗れなかったからじゃなくて」


 彼女は息を吸った。


「乗らないことで、生きたから」


 その言葉に、僕は何も返せなかった。


 船の音が、ゆっくり遠ざかっていく。


 十七時の船は、港へ入り、また出ていくのだろう。


 僕たちからは見えない。


 でも、音だけがその動きを伝えていた。


 凪は目を閉じた。


 しばらくして、静かに言った。


「私、母に聞くよ」


「うん」


「なんで黙ってたのって、怒ると思う。でも、その前に言う」


「何を?」


「生きててくれてよかったって」


 僕は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 その時、ノートの間から一枚の紙が滑り落ちた。


 薄い紙だった。


 灯台のページに挟まっていたらしい。


 僕は拾い上げる。


 そこには、祖母の字ではない文字が書かれていた。


 少し硬く、けれど丁寧な字。


千代さんへ。

私は海に返りません。

でも、いつか娘がこの海を見たら、

その時は、嘘ではなく本当の道を教えてください。


 凪が息を止めた。


 僕も、動けなかった。


 これは、相原澪の文字だ。


 凪の母が、祖母に宛てた手紙。


 そして、そこには「娘」と書かれている。


 凪のことだ。


 祖母は、この紙を残していた。


 いつか凪がこの海を見る日のために。


 凪は、震える手でその紙に触れた。


「母の字……」


「分かるの?」


「うん」


 凪の声は、泣く直前のように細かった。


「家にあるメモと同じ」


 彼女は手紙を両手で持った。


 紙が風で揺れる。


「嘘ではなく、本当の道を教えてください」


 凪は読み上げた。


「じゃあ、母は」


 そこで声が途切れた。


 僕は続きを言わなかった。


 言わなくても分かる。


 澪は、娘がいつかここへ来ることを想像していた。


 逃げたまま、完全に捨てたわけではない。


 戻れなくても、忘れたわけではない。


 凪へ、本当の道を残そうとしていた。


 遠くで、船の音が消えていく。


 港から見えない灯台の下で、祖母の旅ノートは完全に別のものになった。


 観光記録ではない。


 逃走経路。


 そして、十年後に娘へ渡されるための、真実への地図だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ