第七章-3 灯台の下で、旅ノートは逃走経路になる
澪の手紙を、凪は何度も読み返した。
風で紙が揺れるたび、彼女は両手でそれを押さえた。破れそうなほど古い紙ではない。けれど、今の凪にとっては、どんなものより壊れやすいものに見えているのだと思う。
私は海に返りません。
でも、いつか娘がこの海を見たら、
その時は、嘘ではなく本当の道を教えてください。
娘。
その一文字が、凪をここに縫いとめていた。
「母は、私のことを考えてたんだ」
凪は、ほとんど独り言のように言った。
「生まれる前か、生まれた後かは分からないけど。少なくとも、私がいつかここへ来るかもしれないって思ってた」
「うん」
「でも、言わなかった」
その声には、怒りもあった。
でも、さっきまでとは違う。
怒りの奥に、どうしていいか分からない安堵が混じっていた。
僕はノートを開いたまま、次のページを見た。
そこには、これまでより細かい字で、逃走当日の流れが書かれていた。時刻、場所、役割。祖母の字はいつも通り丸いのに、そのページだけは、どこか硬かった。
僕は声に出して読むべきか迷った。
凪が僕を見た。
「読んで」
「いいの?」
「うん。ここまで来たなら、ちゃんと聞きたい」
僕は頷き、ページに目を落とした。
尾道駅。
旅の始まりに見せること。
人の流れに混じる。
駅前桟橋へ。
小銭を使う。記録を残さない。
向島へ渡る。五分。
村上さんの店で上着を受け取る。
最初の導線。
僕が辿ってきた道。
初めはただの旅行メモに見えたものが、今は一つ一つ、別の意味を持っていた。
「上着は、澪さんを隠すためだった」
僕は言った。
「顔じゃなくて、印象を変えるために」
凪は、僕の鞄の中の上着を見た。
「母が、それを着た」
「たぶん」
僕は続きを読んだ。
尾道へ戻る。
宿へ入る。帳簿は一人。
あの子を眠らせる。
濡れた服を分ける。
怖がるなら、窓を閉める。
朝まで、嘘を預かる。
藤野さんの話と重なる。
この部屋で、澪はずぶ濡れだった。
祖母は、帳簿から澪を消した。
藤野さんは、その嘘を朝まで預かった。
凪は、唇を結んでいた。
「母、眠れたのかな」
「藤野さんは、眠れなかった部屋って言ってた」
「そっか」
凪は、手紙を胸元に寄せた。
「でも、おばあちゃんは眠らせようとしてくれたんだね」
おばあちゃん。
凪が僕の祖母をそう呼んだことに、少しだけ胸が詰まった。
僕はページをめくる。
翌日。
尾道の町を歩く。急がない。
旅に見えること。
昼、尾道駅前へ。
十二時四十分。海から行く。
陸路を選ばない。
陸には見ている人がいる。
海では、誰も長くは顔を見ない。
陸には見ている人がいる。
祖母は、相原誠一の目を警戒していたのだろう。港や道、バスや車。陸路を使えば、誰かが澪を見つけるかもしれない。
でも、船なら人は景色を見る。
乗客の顔を、一人ずつ確かめたりはしない。
祖母はその性質を使った。
重井東。
私だけ降りる。
あの子は降りない。
ただし、降りたことにする。
上着は別の人に。
証言は割れる。
割れた証言は、追う人を遅らせる。
僕はそこで息を止めた。
重井東の証言の矛盾。
ようやく意味が分かった。
「澪さんは、重井東では降りてない」
僕は言った。
「でも、降りたことにした。祖母だけが降りた証言、若い子を見た証言、二人を見た証言。全部、追っ手を迷わせるためだった」
「上着は別の人に、って」
「森川さんが見た背中は、澪さんじゃなかったのかもしれない」
凪は目を伏せた。
「母に似た上着を着た、別の誰か」
「うん」
「その人も、嘘をついたんだ」
「たぶん」
旅ノートの中で、点だったものが線になる。
村上老人の上着。
重井東の食い違う証言。
森川さんが見た背中。
山根さんが聞いた噂。
すべてが、澪を追う人間の目を散らすためだった。
僕は続きを読んだ。
あの子は船に残る。
瀬戸田へ向かう。
喫茶店で伝言を受け取る。
まだ消えていないと伝える。
笑えたなら、それでいい。
笑えなくても、立っていればいい。
凪が、そこで小さく息を吸った。
「喫茶店」
「うん」
「みかんジュース」
「祖母は、澪さんが笑ったことを書いてた」
凪は少しだけ笑った。
涙が出そうな顔で。
「母は、ジュースが甘すぎたって言ってた」
「覚えてたんだね」
「うん。きっと、忘れられなかったんだ」
忘れたかったのではなく、忘れられなかった。
それは、祖母も同じだったのだろう。
僕はさらにページを進めた。
灯台へ。
港から見えない場所。
船の音は聞こえる。
十七時の船を見送る。
追う人は船を見る。
船に乗ったかどうかを確かめる。
その間に、あの子は選ぶ。
尾道へ戻るか。
島へ戻るか。
どちらでもない道へ行くか。
凪が、手紙を握りしめた。
「母は、どちらでもない道を選んだんだ」
「そうだと思う」
「自分で?」
僕は次の行を見た。
決めるのは、あの子。
私たちは、決めない。
ただし、港へ戻れば捕まる。
尾道へ戻れば見つかる。
それだけは伝える。
祖母は、澪の行き先を決めなかった。
でも、選べる道を作った。
それが正しかったのかは分からない。
けれど、少なくとも祖母は、澪を物のように運んだのではなかった。最後に選ばせようとしていた。
「迎えって、誰だったんだろう」
凪が聞いた。
僕はページの下を見た。
そこに、短い名前があった。
水瀬さん。
福山まで。
そこから先は、澪が決める。
水瀬。
凪の姓。
凪は、その文字を見つめた。
「水瀬って」
「迎えの人の名前だったんだと思う」
「母は、その人の名前をもらった?」
「たぶん。安全のためか、自分で選んだのかは分からないけど」
凪はゆっくりと座り込んだ。
石の上ではなく、草の端に。
「母の名前、ここで変わったんだ」
声が震えていた。
「相原澪から、水瀬澪に」
僕はノートを閉じずに、彼女の隣に立っていた。
何か言うべきなのかもしれなかった。
でも、言葉は出なかった。
名前が変わるということは、生き延びることだったのだろう。
同時に、元の自分を置いていくことでもあった。
澪は、その両方を選んだ。
十六歳で。
船の音を聞きながら。
港から見えない灯台の下で。
凪は、手紙をもう一度見た。
「私は海に返りません」
彼女は小さく読んだ。
「母は、海で死ななかったんだね」
「うん」
「でも、海に返らないために、名前を変えた」
「うん」
「じゃあ、私が知ってる母は、逃げた後の母なんだ」
僕は頷いた。
「相原澪だった母じゃなくて、水瀬澪になった母」
凪は笑った。
今にも泣きそうな顔で。
「知らないわけだよね。母が話さないんだもん。私が知ってる母は、もう逃げた後の人だったんだから」
その言葉は、僕にも刺さった。
僕が知っていた祖母も、きっと同じだ。
澪を逃がした後の祖母。
嘘を抱えた後の祖母。
尾道の話になると黙るようになった祖母。
僕は、祖母の前半を知らないだけではない。祖母が何かを背負った後の姿を、ただ「穏やかな人」だと思って見ていたのだ。
遠くで、十七時の船の音が小さくなっていく。
凪は立ち上がった。
目元を手の甲で拭った。
「湊くん」
「うん」
「続き、まだある?」
僕はノートを確認した。
逃走経路のページの最後に、祖母の字でこう書かれていた。
船が見えなくなったら、旅は終わる。
あの子が歩き出したら、嘘は始まる。
でも、その嘘は、あの子を生かすためのもの。
いつか誰かがここに来たら、そう伝えること。
僕はその一文を読んだ。
凪は目を閉じた。
「伝わったよ」
彼女は言った。
「たぶん、ちゃんと」
風が吹いた。
灯台の白い壁に、午後の光が当たっている。港は見えない。船も見えない。
でも、ここで起きたことは、もう見えないままではなかった。
祖母の旅ノートは、逃走経路になった。
澪は海で死んでいなかった。
相原澪は、水瀬澪になって生きた。
そして凪は、その娘として、十年越しに本当の道を受け取った。




