第七章-4 灯台の下で、旅ノートは逃走経路になる
凪は、灯台の白い壁に背を預けて、しばらく海を見ていた。
港は見えない。
船も見えない。
けれど、十七時の船が出ていった後の静けさだけが、ここまで届いていた。
さっきまで聞こえていた低いエンジン音は、もう遠い。水面を渡ってくる音は薄くなり、風の音と区別がつかなくなっている。凪はその消えていく音を、最後まで聞こうとしているようだった。
「母は、この音が消えるまで待ったんだね」
凪が言った。
「たぶん」
「船が出ていく音を聞いて、それから歩き出した」
「うん」
「怖かっただろうな」
その声は、母を憐れむものではなかった。
十六歳の相原澪に、今の凪が初めて追いついたような声だった。
僕は祖母のノートを閉じた。
青い表紙が、夕方の光を受けて少し沈んだ色に見える。最初に家で見つけた時、このノートは祖母の旅行記だと思っていた。尾道が好きだった祖母の、思い出の記録だと。
でも、違った。
いや、全部が違ったわけではないのかもしれない。
祖母は、本当に旅をしていた。
駅を出て、海へ向かい、船に乗り、島へ渡り、喫茶店で休み、灯台まで歩いた。
ただ、その旅は観光ではなかった。
人を逃がすために、旅の形をしていた。
「湊くん」
「うん」
「おばあちゃんのこと、疑ってた?」
凪の問いは、責めるものではなかった。
だから、僕も正直に答えた。
「疑ってた」
「事件を隠した人だと思った?」
「うん」
凪は頷いた。
「私も、母を隠した人たちを恨みそうになった」
「今は?」
「まだ、少し恨んでる」
凪は苦笑した。
「母を助けてくれたことは分かった。でも、私には何も教えてくれなかった。母がここで何を選んだのか、どうして水瀬になったのか、どうして十七時の船を怖がるのか。私は、ずっと分からなかった」
僕は何も言わずに聞いていた。
「でも、全部教えられていたら、母は生きられなかったのかもしれない。相原澪のままでは、私の母になれなかったのかもしれない」
その言葉は、凪自身に言い聞かせるようでもあった。
「だから、まだ許せるかは分からない。でも、分かりたいとは思った」
分かりたい。
それは、僕が尾道へ来た理由にも似ていた。
祖母を許すためではない。
祖母を責めるためでもない。
ただ、知らないままにしたくなかった。
「僕も、まだ祖母のことを全部分かったわけじゃない」
僕は言った。
「でも、少なくとも、祖母は澪さんを消そうとしたんじゃない。生かそうとしたんだと思う」
「うん」
「それは、信じたい」
凪は海を見たまま、小さく頷いた。
「私も」
風が少し強くなった。
凪の手の中には、澪の手紙がある。彼女はそれをもう一度開き、最後の行を見た。
その時は、嘘ではなく本当の道を教えてください。
「本当の道って、何だったんだろう」
「今日辿った道じゃないかな」
「逃げ道?」
「うん。でも、それだけじゃなくて」
僕は少し考えてから言った。
「澪さんが、自分で名前を選んで、生きる方へ行った道」
凪はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「湊くん、たまに詩人みたいなこと言うね」
「今のは真面目に言った」
「分かってる」
その笑いは、さっきより少しだけ柔らかかった。
僕たちは、灯台の下をもう一度見回した。
石。草。斜面。海。港から見えない角度。船の音だけが届く場所。
初めて来た時には、ただの静かな場所に見えた。
けれど今は、ここに十年前の時間が重なっている。
澪が座っていた石。
祖母がノートを開いた場所。
十七時の船を見送った海。
相原澪が水瀬澪になる前に、最後に自分の名前を抱えていた場所。
凪は、石の前で立ち止まった。
「母は、ここで泣いたかな」
「分からない」
「笑ったかな」
「喫茶店では、一度笑ったって」
「じゃあ、ここでは」
凪は少し考えて、首を横に振った。
「たぶん、笑えなかったと思う」
「どうして?」
「ここで笑えるほど強かったら、母は船の音を忘れられない人にはならなかった気がする」
その言葉は、静かに胸に落ちた。
澪は強かったから逃げたのではない。
怖かったまま、逃げたのだ。
祖母は強い少女を助けたのではない。怖がって、謝って、眠れなくて、それでも生きたいと言った少女を助けた。
そこを間違えてはいけない気がした。
「戻ろうか」
僕が言うと、凪は海を見た。
「十七時の船、もう出たよね」
「うん」
「次で戻れる?」
「たぶん。瀬戸田から尾道へ戻る船」
凪は少しだけ黙った。
その沈黙で、僕は気づいた。
次は、帰る船だ。
十年前、澪が乗らなかった船。
凪がずっと避けてきた十七時の船。
そして今、僕たちが尾道へ戻るために乗るかもしれない船。
「無理しなくていい」
僕は言った。
「尾道へ戻らずに、ここに残ることもできる。別の便でもいいし、別の道でも」
凪は僕を見た。
「それ、湊くんのおばあちゃんみたい」
「え?」
「決めるのは、あの子。私たちは、決めない」
祖母のノートの言葉だった。
僕は少しだけ苦笑した。
「影響されてるのかも」
「悪くないと思う」
凪は手紙を丁寧に畳み、鞄にしまった。
「でも、私は乗る」
「本当に?」
「うん」
凪は、はっきり頷いた。
「母が乗れなかった船に、私は乗る。逃げるためじゃなくて、帰るために」
その言葉で、第八章の場所が決まった気がした。
十年前、船は危険だった。
乗れば見つかる。乗れば戻される。だから祖母は澪を乗せなかった。
でも今、同じ船は違う意味を持つ。
凪が母の過去から逃げるためではなく、母と向き合うために乗る船になる。
「行こう」
凪は歩き出した。
僕もその隣に並ぶ。
灯台から下る道は、来た時より少しだけ短く感じた。港はまだ見えない。けれど、凪の足取りはさっきより確かだった。
途中で、凪が言った。
「湊くん」
「うん」
「おばあちゃんのノート、ありがとう」
「僕が書いたわけじゃないよ」
「でも、持ってきてくれた」
僕は返事に困った。
祖母のノートを持ってきたのは、偶然に近い。葬儀で泣けなかった自分が、祖母の過去を知るための口実として尾道へ来ただけだ。
でも、その偶然が、凪へ手紙を届けた。
祖母が残した道は、十年経って、ようやく本当の相手へ届いた。
「祖母は、これを凪に渡したかったのかもしれない」
僕が言うと、凪は首を横に振った。
「私だけじゃないと思う」
「え?」
「湊くんにも、見せたかったんだと思う。自分が何をしたか。何を嘘にしたか。何を守ろうとしたか」
その言葉に、胸が詰まった。
祖母は、僕に何を残したかったのだろう。
優しい祖母の記憶だけではなく、嘘をついた祖母の姿も、知ってほしかったのだろうか。
だとしたら、それは少し残酷で、少し誠実だった。
港へ向かう道に出ると、遠くに瀬戸田の町が見えた。
喫茶店のある道。山根さんの店。森川さんの古い自転車屋。相原誠一の車が停まっていた場所。全部が、さっきまでとは違って見える。
島民たちは、同じ嘘を別々に覚えていた。
その嘘は、澪を守るためだった。
同時に、自分たちを守るためでもあった。
だから美談にはならない。
でも、ただの隠蔽にもならない。
その曖昧さごと、十年前の逃走はここに残っている。
凪は、港の方を見た。
「十七時の船、もう行っちゃったね」
「うん」
「次は、帰る船だ」
彼女の声には、まだ怖さが残っていた。
けれど、もう目を逸らしてはいなかった。
僕たちは港へ向かって歩いた。
祖母のノートを鞄にしまう。
その重みは、尾道駅で初めて持った時とは違っていた。
もう謎の重さではない。
誰かが生きるために残した道の重さだった。




