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第八章-1 十七時四十五分、尾道へ帰る船

 瀬戸田港へ戻る道で、凪は何度も空を見上げた。


 時計ではなく、空。


 それから海。


 それから、港の方角。


 船の時刻を覚えている彼女にとって、時間は数字ではなく、音と光と海の色で近づいてくるものなのかもしれない。


 僕は何度かスマホを見た。


 十七時の船は、もう出ている。


 十年前、澪が見送った船。

 港にいる誰かが、澪が乗っているかどうかを確かめた船。

 その間に、澪が別の道を選んだ船。


 僕たちが乗るのは、その後の尾道行きだった。


 けれど凪にとっては、どの船も同じではないのだろう。


 港へ近づくにつれて、凪の口数は減っていった。


 灯台では、彼女は強かった。


 母が逃げたこと。母が名前を変えたこと。母が自分のことを考えていたこと。祖母が残したノートと、澪の手紙。それらを受け取って、凪は「帰るために船に乗る」と言った。


 でも、言うことと、実際に桟橋へ向かうことは違う。


 港が見える場所まで来た時、凪は足を止めた。


 桟橋には、何人かの人がいた。観光客らしい人。地元の人らしい人。自転車を押す人。荷物を足元に置いて、海を眺めている人。


 普通の夕方だった。


 十年前のことなど、どこにも見えない。


 でも、凪はその普通さの前で立ち尽くしていた。


「やっぱり、無理しなくていい」


 僕は言った。


 凪は、港を見たまま答えた。


「それ、二回目」


「何回でも言うよ」


「優しいね」


「たぶん、逃げ道を残したいだけ」


 凪が少しだけ笑った。


「それも優しさでいいんじゃない?」


 僕は何も言えなかった。


 凪は港の方へ一歩進み、また止まった。


「母は、ここから船に乗れなかったんだよね」


「うん」


「乗れば、見つかるから」


「祖母のノートには、そう読めた」


「じゃあ、港って怖かっただろうね」


 凪の声は静かだった。


「船があるのに、乗れない。帰れそうなのに、帰れない。みんなは普通に乗っていくのに、自分だけ乗ったら終わる」


 僕は桟橋を見た。


 普通に船を待つ人たち。


 十年前の澪には、その普通が手の届かないものだった。


 そして凪は今、その普通の中へ入ろうとしている。


「凪は、どこへ帰るの?」


 僕が聞くと、彼女は少し考えた。


「分からない」


「分からない?」


「尾道に戻るけど、それは母の過去から帰るだけで、家に帰るのとは少し違う気がする」


「うん」


「でも、ここに残るのも違う」


 凪は、鞄の中に入れた澪の手紙を押さえるように手を置いた。


「母は、ここで名前を変えた。相原澪じゃなくなった。水瀬澪になった。だったら私は、水瀬凪として船に乗る」


 その言葉は、誰に向けたものでもなく、自分自身へ向けたものに聞こえた。


「母の代わりじゃなくて?」


「うん」


 凪は頷いた。


「母が乗れなかった船に、娘が乗るって言うと、なんか綺麗すぎるでしょ」


「そうかな」


「そうだよ。そういう話にしたら、母が怖かったことまで、いい話みたいになる」


 凪は桟橋を見つめた。


「私は、母の代わりに乗るんじゃない。母が怖がったものを、私も怖いまま見るだけ」


 それは、凪らしい答えだった。


 簡単に感動へ寄せない。

 母の苦しみを、自分の成長の材料にしない。

 怖いものは怖いまま、でも目を逸らさない。


 僕は頷いた。


「じゃあ、行こう」


「うん」


 僕たちは桟橋へ向かった。


 船を待つ列の後ろに並ぶ。


 凪は少しだけ僕の隣に近づいた。触れるほどではない。でも、灯台へ向かう前より、距離は近い。


 海風が吹く。


 凪の髪が揺れる。


 彼女は港の時刻表を見なかった。


 必要ないのだろう。


 覚えているから。


 母から何度も聞かされて、忘れられなくなった時刻だから。


「ねえ、湊くん」


「何?」


「尾道に戻ったら、お母さんに電話する」


「凪のお母さん?」


「うん」


「今じゃなくて?」


「今は、たぶん泣くから」


 凪は少しだけ笑った。


「泣きながら怒るの、難しいでしょ」


「怒るんだ」


「怒るよ。なんで言ってくれなかったのって。なんで私に何も知らないふりをさせたのって」


「うん」


「でも、その前に言う。生きててくれてよかったって」


 灯台で聞いた言葉。


 もう一度聞いても、胸に来るものがあった。


「湊くんは?」


「僕?」


「お母さんに電話する?」


「すると思う」


「何て?」


 僕は少し考えた。


 母には、祖母のことをどう伝えればいいのだろう。


 祖母は嘘をついた。

 少女を帳簿から消した。

 島民たちに別々の嘘を残した。

 でも、その嘘は少女を生かすためのものだった。


 そんなふうに説明すれば、母はどう受け止めるのだろう。


 僕と同じように、祖母を遠く感じるかもしれない。

 それでも、少しだけ近づいたと思うかもしれない。


「まず、謝るかも」


「なんで?」


「おばあちゃんのこと、僕だけ先に知ったから」


「それ、謝ること?」


「分からない。でも、母も知りたかったはずだから」


 凪は少し考えてから言った。


「じゃあ、一緒に知ればいいんじゃない?」


「一緒に?」


「うん。湊くんが見たことを話して、お母さんが知ってることを話す。そうすれば、おばあちゃんのこと、少し増えるでしょ」


 祖母のことが増える。


 その言い方が、不思議と腑に落ちた。


 祖母はもういない。

 でも、祖母を知る人の言葉を集めれば、祖母は少し増える。


 優しかった祖母。

 旅行者の顔をした祖母。

 怒った祖母。

 嘘をついた祖母。

 澪を逃がした祖母。


 その全部を、母と一緒に持てばいいのかもしれない。


 船が近づいてきた。


 港にいる人たちが、少しずつ動き始める。


 凪の肩が強張った。


 僕は何も言わなかった。


 怖くないよ、と言うのは違う気がした。

 大丈夫、と言うのも違う。

 凪は怖いと分かった上で、ここに立っている。


 だから僕は、ただ隣にいた。


 船が桟橋に寄せられる。


 水面が白く揺れ、金属の触れる音がした。


 乗客が降りてくる。


 その中に、十年前の澪はいない。


 今ここにいるのは、凪だ。


 水瀬凪。


 相原澪の娘で、水瀬澪の娘で、そして母の代わりではない、一人の少女。


「行く」


 凪が言った。


「うん」


 列が進む。


 僕たちも、一歩ずつ前へ進む。


 桟橋の板を踏む音がする。


 船の入口が近づく。


 凪は一度だけ、港の方を振り返った。


 灯台は、ここから見えない。


 母がいた場所は、港から見えない。


 でも、もう見えないからといって、なかったことにはならない。


 凪は前を向いた。


 そして、自分の足で船に乗った。

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