第八章-2 十七時四十五分、尾道へ帰る船
船に乗った瞬間、凪は少しだけ息を止めた。
僕は何も言わなかった。
彼女は船内の座席へ向かわず、まず手すりの近くに立った。逃げるためではない。外を見るためでもない。ただ、自分が本当に船の上にいることを、体で確かめているようだった。
船が瀬戸田港を離れる。
桟橋がゆっくり遠ざかる。
凪は、港を見ていた。
そこにはもう、母の姿はない。十年前の祖母もいない。相原誠一も、山根さんも、森川さんも、喫茶店の店主もいない。
ただ、夕方の港がある。
それでも凪は、目を逸らさなかった。
「揺れるね」
彼女が言った。
「うん」
「母も、こういう揺れを覚えてたのかな」
「覚えてたと思う」
「そっか」
凪は短く答えた。
船は海を進む。
瀬戸田の港が小さくなる。灯台のある方角は見えない。けれど、僕たちはもう、そこに何があったのかを知っている。
港から見えない場所。
船の音だけが届く場所。
澪が十七時の船を見送った場所。
相原澪が水瀬澪になる前、最後に自分で行き先を選んだ場所。
凪は、鞄の上から澪の手紙を押さえていた。
「尾道に着いたら、電話する」
「うん」
「たぶん、最初は怒る」
「うん」
「でも、怒れるってことは、生きてるってことだよね」
僕は少し考えてから頷いた。
「たぶん、そうだと思う」
凪は小さく笑った。
「じゃあ、ちゃんと怒る」
その笑いは、泣くのを我慢する笑いではなかった。
まだ痛みは残っている。怖さも消えていない。けれど、少なくとも凪は、母の過去を見ないふりをする場所から、一歩だけ移動した。
船内アナウンスが流れた。
次の寄港地、重井東。
僕は顔を上げた。
重井東。
降りたことにする場所。
僕が食堂で証言の食い違いを聞いた場所。祖母だけを見た人、澪らしき少女を見た人、誰を見たのか曖昧にした人。
今、船はそこへ向かっている。
「重井東だね」
凪が言った。
「うん」
「そこでも、嘘があったんだよね」
「うん。たぶん、澪さんを追う人を遅らせるための嘘」
「母は降りてなかった」
「祖母のノートでは、そうだった」
「でも、誰かが母の代わりに見られた」
「上着を着て」
凪は少しだけ黙った。
「その人も、怖かっただろうね」
僕は、はっとした。
重井東の嘘を、僕は仕掛けとして考えていた。証言をずらすため。追っ手を遅らせるため。祖母の逃走経路の一部として。
でも、そこには実際に誰かがいた。
澪に似た上着を着て、背中だけを見られた誰か。名前を呼ばれても返事をしなかったかもしれない誰か。自分が何を引き受けているか、全部は知らなかったかもしれない誰か。
凪は、そこに気づいた。
「うん」
僕は言った。
「怖かったと思う」
「嘘って、一人じゃつけないんだね」
「そうだね」
「一人の嘘に見えて、いろんな人が少しずつ持ってる」
島民は、同じ嘘を別々に覚えている。
その章題の意味が、船の上でまた変わった。
同じ真実を隠すために、同じ口裏を合わせたのではない。
それぞれが、自分に持てる分だけ嘘を持った。
だから証言はずれた。
でも、そのずれが澪を逃がした。
船が重井東に近づく。
夕方の光の中で、港が見えた。
さっき僕が降りた場所。食堂があった場所。待合所。桟橋。
船がゆっくり接岸する。
何人かが降り、何人かが乗った。
凪は降りなかった。
僕も降りなかった。
十年前、ここで降りたことにされた少女は、船に残った。
今、凪も同じように船に残っている。
でも意味は違う。
澪は逃げるために残った。
凪は帰るために残っている。
船が再び動き出した。
重井東が離れていく。
凪は、その港が小さくなるまで見ていた。
「私、母のことを、少しだけ間違えてた」
「どういうふうに?」
「逃げた人だと思ってた。帰らなかった人だと思ってた。私に何も教えてくれなかった人だと思ってた」
「うん」
「でも、母は逃げた人だけど、それだけじゃなかった。逃がされた人でもあって、自分で選んだ人でもあって、帰れなかった人でもあった」
凪は言葉を選びながら話した。
「一つじゃなかった」
僕は祖母のことを思った。
祖母も一つではなかった。
優しい人。
嘘をついた人。
澪を逃がした人。
家族に黙っていた人。
旅が好きだった人。
旅を逃走経路に変えた人。
一つに決めると、たぶん間違える。
人を知るというのは、矛盾を消すことではないのかもしれない。
矛盾したまま持つことなのかもしれない。
船は尾道へ向かって進んだ。
夕方の海は、昼間よりも色が深い。水面の光は白から金色へ変わり、島影は黒く濃くなっていく。
尾道が近づくにつれて、駅前の町が少しずつ見えてきた。
最初の日、僕はあそこから始めた。
尾道駅。午前十時十七分。
改札を出ると、海の匂いがした。
あの時の僕は、祖母のことを何も知らなかった。知らないままでもいいと思っていた。葬儀で泣けなかった自分を、どこかで許そうとしていた。
今も、祖母のすべてを知ったわけではない。
でも、知らないままではなくなった。
それだけで、尾道の見え方は変わっていた。
凪がスマホを取り出した。
画面を見つめている。
「今、かける?」
僕が聞くと、凪は首を横に振った。
「尾道に着いてから」
「どうして?」
「船の上だと、逃げ場がないから」
「電話の?」
「私の」
凪は少し笑った。
「でも、もう逃げない。着いたら、かける」
その声は、静かに強かった。
船内アナウンスが流れる。
まもなく尾道。
凪が息を吸った。
僕も、窓の外を見た。
尾道駅前の桟橋が近づいてくる。駅の建物。海沿いの道。初めて来た時に座ったベンチ。向島へ渡る乗り場。すべてが、たった二日前とは違う意味を持っている。
駅から三分。
小銭を用意。
最初の海を渡る。
祖母のノートの最初の言葉は、もうただの始まりではなかった。
船が桟橋に着いた。
十七時四十五分。
尾道へ帰る船。
僕たちは人の流れに従って降りた。
桟橋の板を踏んだ瞬間、凪が小さく息を吐いた。
「着いた」
「うん」
「普通に着いたね」
「普通に」
その普通が、どれほど大きいことなのか、今なら分かる。
十年前、澪にはこの普通がなかった。
乗ることも、帰ることも、降りることも、すべてが危険だった。
でも今、凪は自分の足で船に乗り、自分の足で尾道に降りた。
母の代わりではなく、凪自身として。
桟橋を出ると、夕方の尾道の風が吹いた。
凪は少し離れた場所でスマホを握った。
「かける」
僕は頷いた。
「うん」
「聞かないでね」
「もちろん」
僕は少し離れ、海の方を向いた。
背後で、凪が電話をかける気配がした。
数秒の沈黙。
そして、凪の声。
「お母さん」
それだけで、胸が詰まった。
僕は振り返らなかった。
海を見ていた。
夕方の尾道水道を、小さな船が渡っていく。向島はすぐそこにある。五分で世界が変わる場所。すべてが始まったようで、実際には十年前から続いていた場所。
しばらくして、凪の声が震えた。
「怒ってる」
少し間が空く。
「でも、その前に言う」
また沈黙。
凪は、泣きそうな声で言った。
「生きててくれて、よかった」
僕は目を閉じた。
海の匂いがした。
最初に尾道駅で嗅いだ時より、ずっとはっきりと。
電話が終わるまで、僕は振り返らなかった。
やがて、凪が戻ってきた。
目は赤かった。
でも、顔は少しだけ晴れていた。
「怒れた?」
僕が聞くと、凪は頷いた。
「ちょっとだけ」
「お母さんは?」
「泣いてた」
「そっか」
「でも、話すって。全部は無理かもしれないけど、少しずつ話すって」
凪は鞄を押さえた。
その中には、澪の手紙がある。
「帰ったら、ちゃんと聞く」
「うん」
「湊くんも」
「僕も?」
「お母さんに電話」
僕はスマホを取り出した。
母からメッセージが来ていた。
船、大丈夫だった?
僕はしばらく画面を見た。
そして、返信ではなく、電話をかけた。
すぐに母が出た。
『湊?』
「うん」
『大丈夫?』
「大丈夫」
僕は尾道の海を見た。
「おばあちゃんのこと、少し分かった」
電話の向こうで、母が黙る。
「優しいだけの人じゃなかった。嘘もついてた。でも、誰かを生かすための嘘だった」
『……そう』
「帰ったら、ちゃんと話す。母さんが知ってるおばあちゃんの話も、聞かせてほしい」
母は、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
『うん。私も、聞きたい。話したい』
その声は震えていた。
僕は、ようやく少しだけ泣きそうになった。
祖母の葬儀では泣かなかった。
棺の中の祖母を見ても、遠い人だと思った。
でも今、祖母が少し近くにいた。
尾道の海と、青いノートと、嘘を抱えた人たちの言葉の中に。
電話を切ると、凪が僕を見ていた。
「泣いた?」
「泣いてない」
「嘘」
「少しだけ」
「嘘は少なめにって言ったの、湊くんでしょ」
凪が笑った。
僕も笑った。
夕方の尾道は、明るかった。
嘘を隠すには明るすぎる町。
けれど、嘘の意味を見つけるには、ちょうどいい明るさだった。




