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終章 次に来る人へ

 家に帰ってから、祖母のノートを机の上に置いた。


 青い表紙は、尾道へ行く前より少し古く見えた。


 いや、たぶん本当に古くなったわけではない。僕がその重さを知ってしまっただけだ。尾道駅の改札を出た時の海の匂い。駅前桟橋までの三分。向島へ渡る五分。村上老人の店。紺色の上着。尾道の宿。閉めた窓。十二時四十分の船。重井東の港。瀬戸田の喫茶店。みかんジュース。灯台の下の冷たい石。十七時四十五分、尾道へ帰る船。


 それらが全部、ノートの中に挟まっている。


 紙に書かれているのは文字だけなのに、ページを開くと、海の音がする気がした。


 母は、僕の向かいに座っていた。


 夕食の後、僕たちは長い時間話した。尾道で聞いたこと。祖母が相原澪を逃がしたこと。澪が水瀬澪になったこと。凪がその娘だったこと。島民たちが同じ真実を、別々の嘘で守っていたこと。


 母は、途中で何度か泣いた。


 でも、僕の知らない祖母の話もしてくれた。


 祖母は若い頃、家を出たい時期があったこと。けれど結局、出られなかったこと。だからなのか、誰かが「ここではない場所」へ行きたがる話を聞くと、妙に真剣な顔をしたこと。


「おばあちゃん、澪さんを見た時、自分を見たのかもしれないね」


 母はそう言った。


 僕は、すぐには答えられなかった。


 祖母が澪を助けた理由は、ノートには書かれていない。


 でも、理由が全部書かれていないことも、今は少し分かる。


 人は、自分のしたことを全部説明できるわけではない。優しさも、後悔も、怒りも、恐怖も、一つの言葉には収まらない。


 祖母は、正しい人だったのか。


 まだ分からない。


 嘘をついた。澪を帳簿から消した。人々に嘘を背負わせた。母にも、僕にも、何も言わなかった。


 それでも、十六歳の少女を海へ返さなかった。


 その事実だけは、僕の中で動かなくなっていた。


 数日後、凪からメッセージが来た。


母と話した。

まだ全部じゃないけど、少し聞けた。

みかんジュースは本当に甘すぎたらしい。


 その後に、泣き笑いのような絵文字がついていた。


 僕は少し笑って、返事を打った。


いつかまた、瀬戸田に行こう。

今度は普通に観光で。


 すぐに既読がついた。


 少し間があって、凪から返事が来た。


普通って難しいよ。

でも、行く。


 僕はその短い文を、何度も読み返した。


 普通に旅をする。


 それは、十年前の澪にはできなかったことだ。


 だからこそ、いつか凪と同じ道をもう一度歩きたいと思った。逃げ道としてではなく、隠れるためでもなく、誰かを欺くためでもなく。


 ただ、尾道駅から海へ向かう。


 駅前桟橋まで歩く。


 向島へ渡る。


 瀬戸田へ船で行く。


 喫茶店でみかんジュースを飲む。


 灯台の下で、海を見る。


 それだけの旅を。


 僕は祖母のノートを開いた。


 最後のページは、まだ白紙だった。


 祖母はそこに何も書いていなかった。書けなかったのか、書かなかったのかは分からない。


 僕はペンを取った。


 少し迷ってから、最初の一行を書く。


次に来る人へ。


 祖母の字とは違う。


 僕の字は、少し角張っていて、落ち着きがない。けれど、それでいいと思った。これは祖母のノートだけれど、もう祖母だけのものではない。


 僕は続けて書いた。


この旅は、尾道駅から始めること。

改札を出たら、海の匂いがする方へ。

駅から三分。

急がなくていい。

ただし、何も見落とさないこと。


 そこで一度、手を止めた。


 祖母なら、もっと短く書いただろう。


 でも、僕は僕の言葉で書くしかない。


最初の海は、五分で渡れる。

その五分で世界が変わるかどうかは、渡る人による。

小銭を用意。

振り返るかどうかは、自分で決めること。


 祖母のノートには、振り返るな、とあった。


 でも、僕はそうは書かなかった。


 振り返ってはいけない時もある。

 振り返らなければならない時もある。


 その違いは、きっと自分で決めるしかない。


 さらに書く。


十二時四十分。

海から行くこと。

陸路にも道はある。

でも、海からしか見えないものがある。

重井東では、降りたことにされた人のことを考える。

瀬戸田では、待っていた人のことを考える。

喫茶店では、甘すぎるみかんジュースを頼むこと。


 少しだけ笑った。


 凪が見たら、たぶん「そこはコーヒーじゃないんだ」と言うだろう。


 僕は最後の方に、ゆっくり書いた。


灯台の下には、港から見えない場所がある。

そこに立つと、船は見えないのに音だけが聞こえる。

十年前、そこで一人の少女が、自分の行き先を選んだ。

彼女は海で死ななかった。

名前を変えて、生きた。


 ペン先が止まる。


 澪のことを、どこまで書いていいのか迷った。


 真実を残すことと、誰かの人生を勝手に書くことは違う。


 だから、僕は名前をそれ以上書かなかった。


 代わりに、こう続けた。


このノートは、観光案内ではない。

けれど、旅をしてほしい。

できれば、同じ時間に。

同じ船で。

同じ風を受けて。

そうしないと分からない嘘がある。

そうして初めて、嘘ではなくなる道がある。


 窓の外では、夜の住宅街が静かだった。


 尾道の海は見えない。


 船の音も聞こえない。


 それでも、目を閉じると、十七時四十五分の尾道の風を思い出せた。


 凪が母へ電話した声。

 母が電話の向こうで泣いた気配。

 僕が祖母のことを、少しだけ近く感じた瞬間。


 僕は最後の一文を書いた。


尾道駅から三分。

嘘は、今も海を渡る。

でも、その嘘が誰かを生かしたのなら、次に渡る人は、本当の道として歩いてほしい。


 ペンを置いた。


 ページをしばらく見つめる。


 祖母のノートには、僕の字が加わった。


 これで祖母の旅が終わったのかどうかは分からない。


 たぶん、終わらないのだと思う。


 誰かが読み、誰かが辿り、誰かがまた別の意味を見つける。旅というのは、そういうものなのかもしれない。


 僕はノートを閉じた。


 青い表紙に手を置く。


 もう、海の匂いはしなかった。


 けれど、次に開く時は、きっとまた尾道の海が始まる。

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