ありもしない欲求を抑えるもの
夏休みの部室。僕達はそれぞれいつもの席に座り、黙々と課題に取り組んでいた。
僕は現在、数学の課題に取り組んでいる。夏休みに入る前から少し進めていた事もあり、進捗は大体六割くらい。例え同好会活動中に終わらなくとも、家に帰ってやれば終わる量である。
ふと顔を上げ、部長と正子先輩の方に目を向けてみる。先輩は兎も角部長も集中している様子だ。課題をすることにかなり拒否反応を示していたが、凄い変わりようである。前に監視されていると捗ると言っていたが、部長の傍に先輩が居て良かったと常々思う。
「……ん?」
二人の様子を見ていて、僕は問題集に向かってペンを走らせる正子先輩の姿にとある疑問を抱いた。
先輩の手には黒い手袋がはめられている。しかしこれに関してはいつものことであり、彼女曰く単なる格好付けとのことらしい。しかしこの日はそれだけではなかった。
正子先輩の格好は普段通り制服姿で、両手に黒い手袋を着けている。それだけならいつもの先輩と変わりなく違和感を感じる事もない。しかし今日の先輩は、口に細長い棒状の物を加えていた。
時折唇からその棒状の物を離して、大きく息を吸っている。
それに対して僕が抱いた印象は煙草か、その類の身体にあまり良いとは言えないものだった。見た目がまさに、漫画などに出てくるパイプ煙草にそっくりなのだ。
「あ、あのぅ、正子先輩……。」
「ん、どしたのかな優君。何か分からない問題でもあった?」
恐る恐る声を掛けると、先輩は棒状の物を手に取り、にこやかに笑ってそう返してくる。いつもと同じ、優しい先輩だ。
「それ、何なんですか……?」
僕はそう聞きつつ、先輩の右の人差し指と中指の間に挟まれた棒状の物を指差す。
「あぁ、これね……。」
先輩は呟くようにそう言ったかと思うと、ゆっくりと立ち上がる。聞いてはいけない事だったかと思い少し身構えたが、そんな僕に対して先輩の表情は優しかった。
「これは禁煙用パイプと言ってね、喫煙者が口寂しい時に加えるものなんだ。まぁ、口が寂しければキスでもすれば良いと思うんだけどね。煙草もやめられるし、幸福指数も上がって一石二鳥だろう。」
冗談めかしてそう話す先輩の顔を見上げる僕の背中に、嫌な汗が流れていた。
「先輩……。煙草を吸うんですか……?」
僕の質問がおかしかったのか、先輩は顔を抑えて笑う。髪が長く肌が白いので、笑う姿はさながら悪の科学者の様だった。
ひとしきり笑い終えた後、先輩は息を切らしつつ目元を拭う。
「ふう……。どうやら、心配させてしまったみたいだね。でも私は、後にも先にも煙草を吸うつもりは無いから安心しておくれ。これもただの格好付けだよ。見た目がパイプだからね、気持ちだけでも煙草を吸っている気分になれるんだ。」
そう言って、先輩は手に持っていた禁煙用パイプとやらを僕に差し出してくる。
「吸ってみるかい?これは甘みたっぷりのフルーツ味だよ。」
「え、良いんですか……?これって、その……。」
見た目はパイプ煙草そのままの代物を前にして、僕は少し戸惑ってしまう。
正子先輩は僕の反応に首を傾げつつ、言葉を紡ぐ。
「これは法律で禁止される類の物でもないし、この学校では菓子類の持ち込みを禁じてはいない。なにも気負うことは無いんだよ。」
「いや、そうではなく……。」
間接キスに、そう言い掛けて口を紡ぐ。部長や先輩は僕のことを後輩としか思っていないのだろうし、僕の方が一方的に意識していても仕方がないだろう。
意を決して、受け取った禁煙用パイプに口を付ける。ふわりと瑞々しい香りが口内に広がり、優しい甘みが舌の上に残る。
「あ、結構おいしいですね。もっとこう、薬みたいな味をしている物と思っていました。」
「ふふ、そうだろう。最近はこういう狭い層に向けた商品も大きく進化しているのだよ。」
自分が開発したものでもないだろうに、先輩の表情は誇らしげだ。
パイプを吸い、大きく息を吐く。まその仕草だけで。まるで自分がハードボールドな二枚目であるかのように錯覚してしまう。実際は細身の冴えない男なのだが。
いつまでも咥えている訳にもいかないので、ある程度味わってから禁煙用パイプを正子先輩に返す。
「ご馳走様でした。ありがとうございます。」
「どういたしまして。さて……。」
先輩はパイプを口に付けようとしていたが、急にその手を止めた。
何かあったのか、先輩はパイプの口を付ける場所をまじまじと見つめてフリーズしている。
「正子先輩、どうしたんですか?」
僕が顔を覗き込むと、彼女はびくりと肩を震わせる。
「え、いや……。何でも無いよ。うん、何でも無い……。」
先輩はそう言い、慌てた様子でパイプを口に咥える。
「さて、いつまでもお喋りしている訳もいかないし、勉強しようか。キミも、課題を進めないと……。」
そう言って先輩は席に戻る。
肌が白い所為か、頬が紅くなっているのがはっきりと分かる。
正子先輩も僕のことを、多少は異性として意識しているのだろうか。そう考ている内に、僕の顔も熱くなって来た。ふと部長の方を見ると、理由は分からないが鋭い視線を僕に向けている。
夏の日差しが差し込む部室の中。いつもなら心地良い沈黙が、この日は妙に気まずく感じた。




