失われた威厳
七月の半ば。放課後の部室。
僕が机の上に課題を広げていると、部長がその上に木製のボードを勢いよく置いた。
「優君、私とこれで勝負しましょう。」
彼女はそう言うと、僕と向かい合う様に席に着いた。
「将棋、ですか……。」
目の前に置かれたボードを見て、僕は呟くように口を開く。
僕の言葉に対し、部長は可愛らしい胸を張って少し低い声で言う。
「そう、将棋よ。もしかしたら貴方はそんな気分じゃないかもしれないけれど、部長の命令で付き合ってもらうわよ。これこそ権力が支配する場所よね。」
「いえ、別にイヤじゃないので普通に付き合いますけど……。」
そう言葉を返しつつ、手に持っていたペンを仕舞う。
普段であれば、前以って声を掛けて了承を得てから勝負と言う流れなのだが、今回は妙に強引だ。権力が支配などと、物騒な事も言っている。いったいどういう心境の変化なのだろうか。
「最近、思うことがあるのよ……。」
聞いてもいないが、部長はひとりで話し始める。正子先輩は、いつもの様に窓際の席で読書に耽っていた。
「私ってさ、部長なのよ。この遊興同好会のリーダーなの。でもね、ここ最近の私には足りないと思わないかしら。ねぇ優君はどう思う?」
「足りていないって、何がですか……?」
課題はちゃんと提出したらしいし、毎日の様に同好会にも参加している。足りていないとすれば……。
無意識に部長の胸部に視線を向けようとして。慌てて顔を逸らす。失礼なことを考えていた自分を恥じて、心の内で反省する。
「優君、何か失礼なことを考えていないかしら……?」
「いえ、決してそのような事は……。」
心の内を好かされたようで、僕は慌てて嘘を吐いた。当然ながらいい気分ではないが、決して悪い気分ではなかった。
話を戻して、部長に疑問を投げかける。
「それで、部長に最近足りていないものって何ですか?」
「ふふん、それはねぇ……。」
部長は勿体つけて、その場で身体を一回転させる。ふわりと制服が浮き、その様子はまるで映画のワンシーンのように見えた。
再び身体を僕に向けて、部長は高らかに宣言した。
「威厳よ。い、げ、ん。最近の私には、威厳やカリスマが足りていないと思うのよ。」
威厳とは、予想外の言葉に言葉を失ってしまう。
威厳の様なものは、僕が同好会に入部したころから無いに等しかったのだが。
「少なくとも、カリスマはあるんじゃないですか?少なくとも僕は、部長のこと素敵だと思っていますよ。」
そんな具合に曖昧なフォローをしてみるが、部長の表情は暗く沈んでしまった。
「でもでも、最近私のことぞんざいに扱っているし……。」
「もしかして、先週のことをまだ根に持っています?」
「持っているよ。」
「……、そうですか。」
ハッキリと答えられて、口籠ってしまう。
先週の週末。僕と正子先輩はひとつの賭けをした。
内容は、部長が同好会に遅れて来た事についてである。その週の土曜日に商店街で祭りがあり、部長はクラスの男子にデートのお誘いを受けていた。僕達はその結果を賭けてたわけである。
結果としては僕の勝利だったわけだが、その後部室に来た部長を置き去りにして購買横の自販機に向かってしまった。その事を、気にしているのだろう。
「その節は、どうもすみませんでした……。」
言い訳のしようもないので、素直に謝ることにした。
「良いのよ。もう過ぎたことだし……。」
頭を下げる僕に、部長は素っ気無く答える。
口もききたくない程に怒っている訳ではないのだろうが、暫くは素っ気無い態度を取られてしまうかも知れない。ふと正子先輩の方に目を向けると、手に持っていた文庫本を閉じて窓の外に目を向けていた。
心なしか、遠い目をしている様に見えるのは気のせいだろう。
「まぁ兎も角、私は貴方を相手に将棋で完勝して威厳を取り戻そうというワケ。理解してくれたかしら?」
「将棋で威厳を取り戻せるから分かりませんが、やるからには手加減しませんよ。」
「ふふ、良い度胸ね。かかってきなさいな。」
こうして僕達は、将棋盤を挟んで真剣な眼差しで向かい合った。
部長は飛車を前に出し、僕は王の周りを他の駒で囲む。それぞれ駒を動かしつつ、僕達は言葉を交わす。
「そう言えば、そろそろテスト成績表が配られたんじゃないかしら?」
「あぁはい。僕は学年で十六位でしたね。先輩に勉強を教えてもらったお陰で、想定よりも良い結果でした。」
「私は学年で五位だったわ。前回は七位だったから、課題を真面目にやった成果が出たわね。」
「真面目に……。いや、何でもないです。」
気が付けば、僕の角は部長の持ち駒の方に行ってしまっていた。竜王に成った部長の飛車が僕の陣営を蹂躙しつつ、部長は先輩の方に目を向ける。
「因みに、正子は今回二位だったわよ。あの子ったら、どう言う訳か学年一位を取れないのよね。あるいは、取らないだけなのかも知れないけれど……。はい、王手。」
そうこう言っている内に、僕の王は盤面の隅に追いやられ、部長の駒に囲まれていた。
「……、参りました。」
打つ手が見つからず、深々と頭を下げる。
「どうもありがとうございました。」
部長も丁寧に頭を下げ、ポツリと呟く。
「これで、私の威厳も少しは取り戻せたかしら。」
彼女の言葉に、僕は黙って頷いた。




