穏やかなひと時
「あら優君。今日も授業お疲れ様。」
いつもの様に部室の扉を開くなり、部長に出迎えられた。
放課後の部室。今日は珍しく正子先輩の姿が見えず、僕と部長の二人きりだった。
「今日は正子先輩が居ないんですね。」
教室を見渡しそう言う僕に、部長はこくりと頷く。
「今日はなんだったかな、野暮用があるみたいで来れないそうよ。」
「そうですか。」
先輩がいつも座っている窓際の席には誰も座っておらず、カーテンも開けられていた。
主に自業自得な理由で部長が席を外すことは多々あったが、正子先輩が居ない状況は初めてだ。いつもとそう差異が無い光景なのに、何となく寂しさを感じてしまう。
「ん、なぁに?愛しの正子がいなくて寂しいの?」
僕の様子を察したのか、部長がニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んで来る。
「尊敬はしていますが、愛しのって訳でもないですよ。普段から少しずれた光景に、違和感を感じているだけです。」
「ふうん。まぁそう言うことにしておいてあげる。」
部長はそう言うと、普段先輩が座っている席に腰を下ろし窓を開けた。背もたれに身体を預けながら、僕の顔をじっと見つめてくる。
「ところで、優君は私がいない日も寂しさを感じたりしてくれているのかしら?」
「ううん。はい、感じてますよ。ええ、感じてますとも。」
「なにその微妙な反応?私がいなくても変わらないって言いたいの?」
僕の曖昧な返しに、
唇を尖らせる部長を見て、僕は慌てて弁明する。
「いやそう言う意味じゃなくてですね……。部長、結構部室に居兄ことがあるじゃないですか。だから少し慣れたというか……。」
「あーあ。優君の所為で傷ついちゃったなぁ。今夜はひとり寂しく枕を濡らすんだろうなぁ。」
「部長、あの……。」
「つーん。」
「あのう、部長……?」
「つんつーん。」
部長は子供っぽい事を言いながら、プイッとそっぽを向いてしまう。戸惑う僕に、部長は更に続ける。
「こうなったらもう、優君が私の事を名前で呼ぶでしか機嫌が直らないんだろうなぁ。ちらちら。」
ちらちらまで口に出さなくても良いと思うが、ともあれ解決方法が本人の口から提示された訳だ。
名前で呼ぶくらいのこと、いつも正子先輩にやっている事だ。それに遊興同好会に入って数日間は、部長のことも名前で呼んでいた。
一番初めは苗字で呼んでいたのだが、名前を呼ぶようにと矯正されてしまった。なので入部二日目からは、二人の名前に先輩を着けて呼び始める。それぞれの立場を認識してからは、部長と正子先輩と呼ぶようになった。部長は少し不満げな表情をしていたが、正子先輩は満足した表情をしていた。
今ではそれらの呼び方がすっかりと定着してしまっていたが、部長はその事に不満を抱いていたのかも知れない。尤も部長を名前を呼びするのは今回限りで、明日からは普段通りの呼び方に戻るのだろう。
何はともあれ、部長に機嫌を直してもらうために僕は口を開く。
「あ、旭先輩。」
数週間ぶりとは言え、久々に名前を呼ぶと少し気恥ずかさを感じてしまう。
「ふふ、何かしら優君。」
恥ずかしがる僕を他所に、部長を上機嫌な様子で返事をする。
何かしらと言われても、名前で呼ぶ以外に何も考えていなかった。
「いや、名前を呼んでみただけなんですが……。」
「ふふ、何だか恋人みたいなやり取りね。」
そう言って微笑みを浮かべる部長に、少しドキリとしてしまう。僕でなければ、勘違いしてしまう所だった。
この人は、他の男にも似た様な態度をとっているのだろうか。だとすれば無自覚だろうがそうでなかろうが、末恐ろしい人だ。
「それは良いとして、時に優君?」
「なんですか部長?」
「つーん。」
部長は再びそっぽを向いてしまう。これは明らかに僕が悪かった。迂闊な発言を反省しなければ。
「……旭先輩。」
「ふふ、よろしい。」
部長は再び僕に向き直り、話を再開する。
「キミの家族構成とか、全然知らなかったと思ったのよ。」
「確かに、そういうこと話した事無かったですよね。」
今更、という程出会ってから時間も経っていないが、今聞くことでもない様に思える。
しかし、彼女は曲がりなりにも同好会の部長だ。万一何かあった時の為に、部員の情報は把握しておきたいのだろう。部員としては、快く協力するべきだろう。
「家族構成と言っても、両親と僕の三人暮らしってだけですよ。祖父母は、少し離れた所に住んでいます。」
「ほうほう、他に兄弟はいないと……。因みに、ペットと掛かっていたりするのかしら?」
「いえ、飼っていないですね。憧れはあるんですけど。」
「因みに因みに、犬派?それとも猫派?」
いよいよ何の質問かも分からなくなってきたが、答えない理由は無いだろう。
「悩ましいですけど……、どちらかと言えば猫ちゃんですね。」
「オーケー、ありがとう。」
部長は礼を言うと、いそいそとメモ帳にペンを走らせ始めた。部長として、部員のちょっとした情報も把握したいということだろう。
メモ帳を閉じると、部長は顔をあげ突拍子も無い報告をする。
「そう言えば、前に行っていた梅見会。来週の土曜日にしようと思っているんだけど、予定は開いてるかしら?」
「ええ、元々予定なんて無いですよ。」
「そう、なら良いわ。」
春の風が流れる部室で、僕達二人は穏やかに談笑を続けるのだった。




