雨に踊る
この日は朝から空は恋雲に覆われており、昼を過ぎたあたりからバケツをひっくり返したかのような豪雨になっていた。
「雨だねぇ……。」
正子先輩は窓の外を眺めながら、独り言の様に呟いた。
放課後の部室。部長は机に向かいノートにペンを走らせており、先輩はいつもの用意に読書に勤しんでいた。部長がやっているのは恐らく英語の課題だろう、英語の問題集が机の上に広げられている。
僕はというと、パソコンに向かいマウスカーソルを滑らせていた。何をしているかというと、チェスと呼ばれる卓上遊戯だ。自称高性能プログラムであるコールを相手に、駒を動かしている。
彼女が手加減してくれているのか、現状かなり良い勝負をしている様に思う。将棋と同様チェスの定石を知らず、ルールだけしか理解していない様なにわか知識である。なので、パッと見た駒の多さで有利不利を判断しているのが現状である。
それはそうと僕はパソコンから顔を上げ、正子先輩の発言に反応することにした。
「雨、降っていますか……。」
「かなり振っているね、土砂降りだよ……。」
先輩は物憂げに溜息を吐く。まるで、雨が降っていることで何か弊害が生じるかの様な態度だ。
「もしかして、傘を持って来ていないんですか?」
まず思い付いたことを口にしてみたが、正子先輩は微笑みを浮かべ首を横に振る。
「いや、傘は持って来ているんだ。」
「それじゃあ、雨が嫌いなんですか?余計なお世話かも知れませんが、何だか気落ちしている様に見えたもので……。」
「そうでもないさ。私は晴れより雨、雨より曇りが好きさ。」
「でしたら……。」
「あぁいや。大丈夫だから、そんな悲しい顔をしないでおくれ。」
正子先輩は苦笑いを浮かべ、左手をフリフリと振る。
「雨が降っているから、少し外の景色に見惚れていただけなんだ。それが気落ちしている様に見えたなら、ごめんね。私の意思表明が下手くそだったみたいだ。」
「普段気取っているから、自便の感情が分からないんでしょうね。お可哀そうなこと……。」
課題をしていた部長が、横から口を挟む。その手には未だにペンが握られているので、まだ課題の途中なのだろう。
『マスター旭は、マム正子に話し掛ける前に手元の課題を片付けることを優先するべきかと。』
薄ら笑いを浮かべていた部長は、コールの言葉でしゅんと小さくなってしまった。
小さいながら量の多い雨粒が、勢いよく窓を叩く。私事だが、僕は雨の音が好きだったりする。雨粒が窓や壁を叩く音がどうしてか僕の心を落ち着かせ、精神をフラットな状態にしてくれる。そんな気がしていた。
「雨、少し強くなって来ました?」
窓の外に目を向けつつ、正子先輩に話し掛ける。窓に当たる雨粒は数分前と比べ多くなっていた様だ。
「そうだね。少し強くなってきたのかも。酷くなり過ぎない内に、帰ってしまった方が良いかもね。」
「確かに。僕も、コールとの決着をつけたら変える準備をしようかな……。」
「えーもう帰っちゃうの?もう少し部室に居ようよ。具体的には、私の課題が終わるまでいようよ。」
「私達が帰れなくなるだろう?提出は明日って言われているんだから、家でやればいいじゃない?」
「いやよ。家だとやる気が出ないわ。」
「それなら未提出で怒られてしまえ。兎に角、私はもう少ししたら帰るから。」
手に持っていた文庫本に栞を挟んでいる所を一瞥し、僕はパソコンの画面に目を向ける。
『チェックメイト。もうアナタのキングに逃げ場はありません。』
抑揚の無い声でそう宣告された。見てみると、僕の駒はキング一体を残し全滅している。さらに、キングの四方をコールの駒に囲まれており、何処に動かしても敗北する状況だ。
少し意識を話した途端にこんな惨状になってしまうとは、感心しつつパソコンい向かって頭を下げる。
「参りました。」
『ええ、対戦ありがとうございました。』
パソコンには詰んだチェスの画面が映っており、抑揚は無いが得意気な声が聞こえていた。
コールとの対局を終え、僕と正子先輩は生徒玄関に来ていた。
「本当に部長を置いて行って良かったんですかね。」
靴箱を開きつつ、僕は先輩に声を掛けた。靴箱ひとつ隔てて、先輩の声が聞こえてくる。
「良いんじゃないかな。旭はコールが見てくれているだろうし。」
部長が現在、パソコンを前にして課題に取り組んで知る。誰かに見られていないと課題が出来ないという部長に、機械による監視を付けたワケだ。少し部長が可哀そうな気もするが、これ以上雨がひどくなる前に帰りたい。
正子先輩は玄関を出ると、傘を手に取ったまま雨空を見上げる。
「あれ、帰らないんですか?」
声を掛ける僕に、先輩は優しい笑みを浮かべる。
「勿論帰るよ。ただ……。」
傘は差さないけどね。そう言って先輩は閉じた傘を手に持ったまま雨の中へと歩み出した。
「先輩っ?濡れちゃいますよ……。」
「良いんだよ、濡れて。」
先輩は両手を広げて、全身に雨粒を浴びる。
「雨の日に、敢えて傘を差さない。そんな安っぽい自由もあるんだよ。」
「はぁ……。」
困惑する僕の目に映る先輩の姿は、雨に濡れ輝いて見えた。
「キミがどうしようとキミの自由だ。ただ私は雨の中を歩こう、傘もささずに踊ろう。安っぽい自由を噛みしめよう。」
そんな彼女の言葉は、落ちてくる雨粒よりも透き通っている様に感じた。




