春の陽気
放課後の部室。僕は机に肘を付き、大きな欠伸をしていた。はしたない事は重々承知なのだが、耐えていても欠伸が出てきてしまう。
部長は教師から呼び出しを受けたらしく、部室には僕と正子先輩の二人きりだ。先輩はいつもの様にカーテンを閉めた窓際に椅子を置き、文庫本を開いていた。僕はというと、何をするでもなく春の陽気に誘われウトウトとしていた。
「ん、どうしたの優君。もしかして眠たい?」
「え、ええまぁ……。昨晩夜更かししたつもりは無いんですが、どうにも瞼が重くて……。」
「春だからねぇ。眠たくなっちゃうのも仕方がないさ。人間の性と言うものかな?」
先輩は文庫本から顔を上げ、遠巻きに窓の外に目を向ける。カーテンを開けば春の空模様をまじかに見られるのだろうが、正子先輩はカーテンを閉めて日差しの当たらない場所に居る。身体が弱いのだろうか。
風に流される雲を眺めつつ、正子先輩は口を開く。
「花粉症に苦しむよりかは幾分かマシだろうけどね。まぁなんだ、どうせ旭も来ないだろうし寝てしまって良いんじゃないかな?」
「ん、うぅ……そうですね。少し居眠りしようかな……。」
瞼を擦りつつ、絞り出すように言葉を発する。瞼を擦るのは目にも悪いだろうから控えないといけないのだが、無意識にやってしまう。
正子先輩は優しい声で僕に語り掛けてくる。
「帰る時間になったら起こしてあげるから。遠慮せずに目を閉じて良いよ。」
「すみません。お言葉に甘えさせていただきます……。」
先輩に礼を言い、机の上に頭を落とし瞼を閉じる。
「折角だし、眠るまで少しお話ししようか。無理して返事はしなくて良いからね。」
「は、はい。ありがとうございます……。」
「そう言えば、旭の話なんだけど。今日は英語の課題をやっていなくてね……。」
顔を見なくても、正子先輩が苦笑いをしているのが分かる。
「つい何日か前に、数学の課題をやっていましたよね……。」
「そうなんだよね。でも何が一番質が悪いのは、テストの点数が妙に良いことだね。地頭が良いんだろうけど、真面目にやっている身からすると理不尽極まりないね。」
「羨ましい限りです……。」
「大分、頭がぼやけて来たんじゃない?」
ええ、もう頭が回らないです。
「返事が無いわね。深い眠りについたところかしら。」
深い眠りについている途中ですよ。と、返事を返しているつもりだが、全くと言って良い程口が動いていない。
視界が暗い。目を閉じているから当たり前なのだが、そんな事も分からない程僕の思考は回っていなかった。
「良いよ。ゆっくりお休み……。」
先輩の優しい声に誘われるように、僕の意識は沈み始めた。
……。深い深いところまで沈んでいく感覚。意識が段々と離れて行く。幽体離脱をする時は、こんな感覚なのだろうか。
「……くん……優君……。」
遠く離れた場所から、正子先輩の声が聞こえる。静かなトーンで、落ち着いた声だ。
耳を傾けるだけで、心地良くなる声。今度先輩の声を録音して、就寝時に使わせてもらえないだろうか。どう言う風に頼めば、録音に協力してもらえるだろう。やはり土下座だろうか。
しかし、安眠の為に声を録音させてくださいなんて、人によっては怒られるだけでは済まないだろう。部長や正子先輩の様な整った顔の女性が言うのであれば、或いは喜ぶ人もいるのかも知れない。
兎も角、正子先輩の声は僕の心を落ち着かせることが判明したのはある種の収穫だろう。いつか、何かの役に立つかもしれない。無駄な知識のまま終わる可能性が高いだろうが。
「優君、もう寝ちゃっているかな?楽しい夢の中に居るのかな……?」
どちらかと言えば、夢と現の中間くらいだろうか。身体は眠ってしまっているが、脳は少しだけ働いている。
起きようと思えば起きることが出来るのだろうが、身体は動いてくれないだろう。恥ずかしい限りだが、僕の弱い意志では眠気に打ち勝つことは出来ない。
「優君、キミはどんな夢を見ているのかな。良い夢を見れているのかな?」
気のせいだろうか。先輩の声が少し近くなった気がする。脳が目覚めて来たと言うことだろうか。
「優君、キミの肌は綺麗だね。何かいい化粧水でも使っているのかな?」
先輩の声をさっきよりも近くに感じる。化粧水は、風呂上りに保湿用のものを使っているくらいで、大したことはしていない。
「ふふふ。まつ毛もながいね。本当に、可愛い顔をした後輩だ。旭には感謝しないとね。」
声がさらに近くなった。こうなると、先輩が僕に近づいて来ているのではないかと錯覚してしまう。
「優君、ごめんね……。」
いただきます。
そんな声と共に、首筋に鋭い痛みが走った。針で刺されたような、献血の時の様に血を抜かれているような、そんな痛み。
僕の意識は一瞬にして戻り、身体が無意識のまま飛び起きた。
「あれ、優君どうしたんだい?いやな夢でもみたのかな?」
正子先輩はいつもの場所に座っており、当然質がった僕のことを不思議そうな顔で見つめていた。




