奴隷と、相部屋と、お風呂
街が見えてきた頃、ボッチルフが足を止めた。
門の手前に、検問所がある。衛兵が二人、往来を確認している。
「あの……ニャリエナ氏」
ぼそぼそと、声が出た。ニャリエナは隣で耳をぴくぴくさせながら門を眺めている。
「その、言いにくいというか……吾輩の口からはなかなか……ふごっ……その……」
ボッチルフは眼鏡を押し上げた。押し上げた。もう一度押し上げた。
「……獣人の方が人間の街に入るには……その……法律上……吾輩などが言うのも大変おこがましいのでござるが……」
「なんニャン」
「…………奴隷、契約が……必要で……ござる……デュフフ……」
最後の方はほとんど聞こえなかった。
「吾輩などのせいでそんな思いをさせるくらいなら……その……縁を切って元いた場所に帰った方が……ニャリエナ氏のためで……」
「奴隷にしてほしいニャン」
間髪入れずだった。
「ふごっ!?」
「奴隷にしてほしいニャン。早くするニャン」
「い、いや待って、その……わかってて言ってるでござるか? 奴隷というのは……その……」
「勇者様のそばにいられるニャン?」
「……いられるでござるが」
「望むところニャン」
ボッチルフは口をぱくぱくさせた。メガネが少し曇った。
「そういう話では……その……吾輩などの奴隷になっても、何もいいことは……ふごっ……」
「早くするニャン」
ニャリエナはすでに検問所の方へ歩き出していた。ボッチルフは慌てて後を追いながら、ぼそぼそと独り言を言い続けた。
「吾輩などのせいで……その……本当に申し訳ないでござる……ふごっ……」
登録所は街の門を入ってすぐの小屋だった。
受付の男は書類を広げながら、ボッチルフを一瞥し、ニャリエナを一瞥し、それからまたボッチルフを見た。
「所有者の名前は」
「ボッチルフ、と申します……」
「職業は」
「……旅人、でござる」
受付の男は何も言わなかった。ただ淡々と書類に書き込んでいく。ニャリエナは受付台に顎を乗せて、興味深そうに男のペンの動きを眺めていた。
「これに印を」
書類が差し出された。ボッチルフはしばらく見つめた。
獣人奴隷契約登録。所有者の責任において管理すること。逃亡した場合の責任は所有者が負うこと。
「……ふごっ」
「どうかしましたか」
「いえ……なんでも……」
ボッチルフは印を押した。受付の男は引き出しから細い腕輪を取り出して、カウンター越しにニャリエナの手首にはめた。銀色の、地味な輪だった。
「逃亡防止の魔法錠でございます。所有者の許可なく一定距離を超えると作動します」
「作動すると?」
「相当の苦痛を伴います」
ボッチルフはその腕輪をしばらく見つめた。
「……ふごっ……」
「どうかしましたか」
「なんでも……ないでござる……」
ニャリエナは腕輪を眺めた。くるくると回して、耳をぴくぴくさせた。それからボッチルフを見上げた。
「わたしは勇者様のものニャン?」
「あの……その……本当に申し訳n——」
「嬉しいニャン」
尻尾が大きく揺れた。
ボッチルフは何も言えなかった。ただメガネを押し上げて、小さくため息をついた。
「人間の街、初めてニャン。いろんなにおいがするニャン」
ニャリエナがしっぽを振りながら先を歩く。
ボッチルフはその後ろをトボトボとついていく。
宿に着いたのは日が傾いた頃だった。
宿の主人は帳簿を確認しながら、首を振った。
「あいにく空き部屋が一つしかなくてね」
「……一つ、でござるか」
「ベッドも一つだ。それでよければ」
ボッチルフはニャリエナを見た。ニャリエナはボッチルフを見た。
「いいニャン」
「よ、よくないでござる。その……吾輩は床で寝るので……いや、それとも別の宿を……」
「この街に宿はここだけだよ」と主人が言った。
「……ふごっ」
「決まりニャン」
ニャリエナはすたすたと階段を上がっていった。ボッチルフはその場に残されたまま、ぼそぼそと独り言を言っていた。
「吾輩などと同じ部屋では……その……ニャリエナ氏に申し訳なくて……デュフフ……いや吾輩が気にしすぎなのかもしれないでござるが……」
「お客さん、早く上がってくれないと困るんだけど」
「あ、すみませんすみません……」
部屋に荷物を置いて少し経った頃、ニャリエナが口を開いた。
「お風呂、あるニャン?」
「……あるでござるが」
「一緒に入るニャン」
ボッチルフの動きが止まった。
「……え」
「一緒に入るニャン」
「い、いや……その……男女が一緒に……というのは……人間の習慣として……ふごっ……」
ニャリエナは首を傾げた。
「習慣?」
「その……恥ずかしい、というか……吾輩などと一緒では……ニャリエナ氏が……その……」
ニャリエナは迷いなく服に手をかけた。
「勇者様のにおいがするお風呂、いいニャン」
「ぐほっ」
ボッチルフは口元を手で押さえた。メガネが盛大に曇った。
「においは……その……吾輩の場合いい匂いでは断じてなくて……昨日も風呂に入れてなかったでござるし……ふごっ……むしろ申し訳なくて……」
「早くするニャン」
ニャリエナはすでに立ち上がっていた。着ているものを躊躇なく脱ぎ始めた。
「ちょ……ニャリエナ氏……! ここは部屋の中で……その……」
「勇者様もはやく来るニャン」
ボッチルフは前かがみになった。
そのまましばらく動けなかった。
「……吾輩の人生……その……どうなってしまうのでござるか……ふごっ……」




