森と、大ピンチと、いいにおいの勇者様
足が痛い。
ニャリエナは木の根を踏み越えながら、それだけを考えていた。走り続けて、どれくらい経ったのかわからない。
耳がぴんと立つ。後ろの気配を拾う。四つ。いや、五つ。じわじわと包囲を狭めてくる。
人間だ。
においでわかる。汗と、鉄と、それから——獣を捕まえるときに使う、あの薬の匂い。
嗅いだことがある。族の仲間が攫われた夜と、同じ匂い。
とても嫌なにおいだ。
木々の間から光が差している。あそこは開けている。
だが、出れば見つかる。
ニャリエナは迷わず暗い方へ曲がった。
だめだった。
前に二人、立っていた。大きな網を持って、にやにやしながらこちらを見ている。
「逃げ場はないよ、子猫ちゃん」
振り返れば後ろにも三人。じりじりと距離を詰めてくる。
ニャリエナは低く身構えた。尻尾が膨らむ。戦えないことはない。でも五人は多い。囲まれたら終わりだ。
その時、少し離れた茂みから、枯れ葉を踏む音がした。
全員が動きを止めた。ニャリエナも止まった。
木々の隙間から、人間の男が一人歩いてきた。
男は小さかった。人攫いたちより頭一つ分は低い。横幅はその分ある。
丸っこい体に、あちこち擦り切れたローブ。
前髪が目にかかるほど伸びていて、その奥に分厚いレンズのメガネが鈍く光っている。
肌は陽に当たった様子がなく、白を通り越して少し青い。
指先にはインクの染みと魔法薬の焦げ跡。くたびれた革靴の片方だけ、紐がほどけていた。
男は歩きながら、ぶつぶつと独り言を言っていた。
「……いや待って、あの剣筋はそもそも脇が甘いんだよな、だから吾輩が去年編み出した横薙ぎの変形を使えば——あ、でもそれだと魔力の消費が——」
男は顔を上げた。そして、人攫いたちを見て、ようやく口を閉じた。
沈黙があった。
人攫いたちの笑い声が上がった。
「なんだこいつ」
「気持ち悪い面しやがって。ひとりでぶつぶつ言いながら歩いてんのか」
「見ろよあのメガネ。しかもデブじゃねえか。剣なんか持ってどうすんだ、そんな体で」
「迷子か?帰れ帰れ、ママのとこ帰れよ」
げらげらと笑い声が重なった。
ニャリエナには、その反応の意味がわからなかった。この人間の何がそんなにおかしいのか、さっぱりだ。
男は誰とも目を合わせないまま、ぼそぼそと言った。
「あ、えっと、その……通りたい、というか……吾輩が通過しても問題なければ、でござるが……ふごっ……」
「失せろ。関係ないだろ」
「あ、すみませんすみません……いや本当に、その、吾輩の存在が邪魔で……デュフフ……」
男はもごもごと謝って、一歩引いた。
逃げるのかとニャリエナが思った瞬間、男は小さくため息をついた。
「で……でも、まあ」
ローブの下から剣が抜かれた。
動きが、変わった。
縮こまっていた気配が、すうっと消えた。メガネの奥の目が細くなって、五人全員を静かに見渡す。
重心が落ちて、足の運びが変わる。さっきまでと同じ体のはずなのに、まるで別の生き物のように見えた。
「行かせて……もらいます」
最初の一人があっという間だった。剣の柄で首筋を打って、崩れ落ちる前に次へ動く。
二人目が魔法を構えるより早く懐に入って、三人目が網を投げるより早く足を払う。
男はぶつぶつと独り言を言いながら戦っていた。
「この角度からだと右に抜けるのが定石で、でも右は根があるから左足に体重を——あ、この人左利きだ、なるほど、だから構えが——」
誰に言っているのかわからない。でも手は止まらない。
五人が地面に転がるまで、ほんの少しの時間だった。
森が静かになった。
男はメガネを押し上げた。乱れた息を整えながら、困ったように後頭部を掻く。
ローブの裾がほつれていて、靴紐はまだほどけたままだった。
ニャリエナは、鼻を動かした。
男からは酸っぱい汗のにおいがした。皮脂のにおいも混じっている。染みつくような、濃いにおいだった。
ニャリエナは一歩、近づいた。
「いい匂い。かっこいい」
男の肩がびくっと揺れた。
「えっ……ぐふっ……いや、その……違くて……いい匂いでは、絶対なくて……」
男は目を泳がせたまま、指先でもぞもぞとローブの裾をいじった。
「昨日その……風呂に入ってなくて……ふごっ……すみません……」
「……名前は、なんニャン」
男はまたびくっとした。
「ボッチルフ、と申します……デュフ……いや名乗るほどでもないんですが、吾輩など……あの……はい……」
ニャリエナは頷いた。
「ボッチルフ」
繰り返したら、男がまたびくっとした。
「名前で呼ぶのは恥ずかしいから、勇者様って呼ぶニャン」
ニャリエナは尻尾をゆっくりと揺らした。もう一度男のにおいを嗅ぐ。
「で、ですよね……ボッチルフなんて……その……ふごっ……恥ずかしい名前で……」
男は誰にも聞こえないくらい小さい声でブツブツ言っている。
ニャリエナは気にせずに口を開いた。
「勇者様はどこに行くニャン?」
「え……吾輩ですか? い、いや、宛はなくて……放浪してるので……はい」
「ついていくニャン」
「え、あの、なんで……ふごっ……」
「助けてくれたから。かっこよかったニャン。あたしはニャリエナ、よろしくニャン」
ボッチルフは、しばらく口をぱくぱくさせていた。それからメガネを押し上げて、ぼそぼそと言った。
「……別に、たまたま通りかかっただけで、お礼とかいいですし、その……むしろ迷惑じゃないですか、吾輩なんかについてきても……」
ニャリエナはすでに歩き出していた。
ボッチルフの二歩前を、当然のように。
後ろでまたぼそぼそと独り言が聞こえたけれど、ニャリエナは振り返らなかった。足音が、おそるおそるついてきた。




