市場と、お買い物と、耳まで赤いニャン
朝、ニャリエナが目を覚ますと、ボッチルフが机に突っ伏していた。
目の下に濃いクマが浮かび、眼鏡が曲がっている。ローブがよれよれだ。
「……二度と発情期には近づかないでございます……ふごっ……」
何かをぶつぶつとつぶやいている。
ニャリエナは首を傾げた。昨夜、何かあっただろうか。よく思い出せない。
ぼんやりとした記憶を探る。そういえば、勇者様の耳を噛んだ気がする。
顔が、少し熱くなった。
「勇者様、おなかすいたニャン」
ごまかすように言った。
「……食料が切れているでございます……ふごっ……本日は市場で買い出しでございます……」
ボッチルフがよろよろと立ち上がった。曲がった眼鏡を直して、買い物リストを取り出す。いつも通りだった。
ニャリエナはその背中を見ながら、昨夜の記憶をもう一度探った。
耳を噛んだ。それは確かだ。
それから、何か言った気がする。一生懸命思い出す。
(そういえば……交尾するニャン、って……言ったニャン?)
顔が真っ赤に染まり、尻尾がぶわっと膨らんだ。
市場は朝から賑わっていた。
肉の焼ける匂い、野菜の青い匂い、香辛料の刺激的な匂い。色とりどりの屋台が並び、人々が行き交っている。
いつもなら真っ先に屋台に突進する所だ。
でも今日は、なんとなく足が重かった。
隣でボッチルフが歩いている。
いつもと同じ距離のはずなのに、妙に近く感じた。
(変ニャン……)
ボッチルフは気づいていない。手元の買い物リストを見ながら、ぶつぶつと独り言を言っている。
「……まず食材でございますな……芋は日持ちするでございます……干し肉は割高でございますが保存性が……ふごっ……」
ニャリエナはその横顔をちらりと見た。
いつもと同じ顔だ。メガネが少し曲がったままだ。前髪が目にかかっている。
なのに、なんだか落ち着かない。
(何か変ニャン。いつもよりドキドキするニャン)
横目でボッチルフをちらちらと見る。
ボッチルフは買い物リストに没頭している。
(勇者様はなんで平気ニャン……あんなこと言ったのに……)
肉屋の前に来た。
ボッチルフが値段表を確認しながらぶつぶつ言っている。
「……こちらの部位は筋が多いでございますが、煮込めば柔らかくなるでございます……コスパが……ふごっ……」
店主がにこやかに顔を出した。
「いらっしゃい。兄ちゃん、彼女さんかわいいな! 二人は恋人かい?」
「ち、違うでございます!! 主人と奴隷でございます!!」
「がっはっは、わかってるさ。お前さんにはもったいもんなあ」
店主が豪快に笑う。
ニャリエナは耳をぴんと立てた。
恋人。
その言葉が、頭の中でゆっくりと広がった。
昨夜のことが、また蘇ってきた。耳を噛んだこと。「交尾するニャン」と言ったこと。
顔が熱くなった。
「ニャリエナ氏? 顔が赤いでございますが……まだ……後遺症が……?」
「ち、違うニャン!! なんでもないニャン!!」
ボッチルフは首を傾げながら、店主に向き直った。
「こちらの肉は割高でございますな……隣の店の方が……ふごっ……」
ボッチルフは平常運転だった。
ニャリエナはその背中を見た。
(勇者様は、本当になんとも思ってないニャン……)
なぜか、それが少し悔しかった。
人混みの中を歩きながら、ニャリエナはまた、昨夜のことを考えていた。
記憶は断片的だが、確かにある。勇者様の耳を噛んだこと。あんなことを言ったこと。
足が止まり、人波にそのまま飲み込まれた。
「ニャリエナ氏!?」
ボッチルフの手が、自然にニャリエナの手を掴んだ。
「危ないでございます」
ニャリエナが停止した。
手を掴まれている。ボッチルフの手だ。大きくはない。でも温かい。
顔が熱くなった。耳がぺたりと伏せられ、尻尾がぶわっと膨らんだ。
「ど、どうしたでございますか?」
ボッチルフが覗き込んできた。顔が近い。
ニャリエナはその手を振り払おうとしたが、できなかった。
(……温かいニャン)
手は繋いだまま。
「顔が赤いでございますな……やはり後遺症が……」
「違うニャン!! 後遺症じゃないニャン!!」
「では何でございますか?」
「……なんでもないニャン!!」
ボッチルフは首を傾げながら、また買い物リストに目を戻した。
手は繋いだままだった。本人は気づいていないらしい。
ニャリエナは繋がれた手をじっと見た。
(……なんで平気ニャン、この人……)
平常運転のボッチルフを少し羨ましく思った。
服屋の前を通った時、ボッチルフが立ち止まった。
「そろそろ防寒具が必要でございます……ふごっ……こちらの方が丈夫で安いでございますな……」
棚を眺めながらぶつぶつ言っている。値段を比較して、素材を確認して、また値段を見る。
店員がニャリエナに話しかけてきた。
「ご主人、しっかりしてるねえ」
「そうニャン。頼りになるニャン。大好きニャン」
「お、二人は付き合ってるのかい?」
店員がニコニコしながら身を乗り出した。
「付き合うって何ニャン?」
「恋人かって事だよ」
恋人。
さっき聞いた言葉だ。
ニャリエナの耳が、じわじわと赤くなっていった。
(恋人……勇者様が……)
昨夜のことがまた蘇ってきた。何度目だろうか。
「ニャリエナ氏、顔が――」
「なんでもないニャン!!! ふー!」
威嚇の声を上げる。
ボッチルフが目を丸くした。
「は、はいでございます……ふごっ……」
ニャリエナはそっぽを向いた。耳まで赤かった。
夕方、荷物を抱えて帰り道を歩いた。
ボッチルフは満足そうだった。
「本日は安く買えて満足でございます……ふごっ……芋と干し肉と根菜があれば一週間は……」
ニャリエナはずっとボッチルフを見ていた。横顔、歩き方、そして荷物を持つ手。
今日一日、何度も昨夜のことを思い出した。そのたびに顔が熱くなった
少しだけ、ボッチルフの袖を掴んだ。
ボッチルフが立ち止まった。
「……?」
夕暮れで、空が赤く染まる中、ニャリエナはボッチルフを見下ろした。
「勇者様……今日も離れて寝るニャン?」
「当然でございます!!」
少し間があった。
「……ちょっと残念ニャン。たまには一緒がいいニャン」
「ふごっ!?」
ボッチルフは鼻を押さえながら、早足で歩き出した。
ニャリエナはその後ろを、袖を掴んだまま、ついていった。
耳はまだ、少し赤かった。




