体調不良と、追いかけっこと、朝まで全力
目が覚めた時、妙な重さがあった。
ボッチルフは目を開けた。天井が見えた。その直後、真横に息遣いを感じた。
顔を横にむけると、ニャリエナの顔があった。めちゃくちゃ近い。
ニャリエナの腕と足が、ボッチルフへ絡みつくように巻きついていた。尻尾まで腹の上に乗っている。
「ちょ、ニャリエナ氏!? 離れて寝ると決めたはずでは――ふごっ!?」
慌てて距離を取ろうとして、気づいた。
ニャリエナの顔が赤く、息が熱い。ぼんやりした目で、じっとボッチルフを見ている。尻尾がぱたぱたと揺れている。
明らかにいつもと様子が違った。
「ど、どうしたでございますか……ニャリエナ氏……?」
「身体が……熱いニャン……」
ニャリエナがボッチルフの方へ寄ってきた。
慌てて身を引いて、ベッドから転げ落ちた。床へ背中を強打して、ボッチルフは頭を押さえながら身を起こす。
ニャリエナの額へ恐る恐る手を当てた。
「ね、熱があるでございます!?」
跳び起きた。
ボッチルフの背筋が伸び、メガネの奥の目が細くなった。
眼鏡を押し上げ、ニャリエナの額にもう一度手を当てる。確かに熱がある。
「ふむ。発熱確認。症状からして、風邪だな」
指先に魔力を集めて、ニャリエナの額へ手をかざした。
「解熱術式――」
淡い光がニャリエナを包む。しかし熱は下がらない。
「おかしいな……では状態異常回復――」
効かない。ニャリエナの顔色は変わらない。
「まさか複合型の呪いでは……魔力循環調整――」
効かない。
ボッチルフの肩が縮こまった。
「お、おかしいでございます……なぜ効かないのでございますか……ふごっ……」
ボッチルフは焦ったように呪文を唱え続ける。その横で、ニャリエナはぼんやりした顔でボッチルフを見上げていた。
「勇者様、いいにおいニャン……」
「そ、それどころではないでございます!!」
ボッチルフは頭を抱えた。高度な術式を連発しているのに、何一つ効いていない。
それどころか、ニャリエナはじわじわとボッチルフに近づいてきている。
「もしや……前回の呪いの後遺症では……!?」
ボッチルフはニャリエナを背負うと、慌てて外へ飛び出した。
獣人専門の女医の診察室に駆け込んだ。ボッチルフは肩で息をしていた。
「す、すみません……その……連れの者が体調を崩していて……解熱術式も状態異常回復も効かなくて……ふごっ……前回、呪いに遭遇したので、その後遺症の可能性も……」
女医はボッチルフの言葉を最後まで聞かずに、ニャリエナを一瞥した。それだけで、すぐに言った。
「あー……発情期ですね」
「……へ?」
「発情期です。獣人の」
「…………ふごっ!?」
改めて、診察してもらう。
ボッチルフは椅子に座ったまま固まり、しばらく動けなかった。
ニャリエナは診察台の上で首を傾げていた。
「発情期ってなんニャン?」
女医が淡々と説明した。
「好きな相手にくっつきたくなる時期よ。獣人には定期的にあるの。初めてだったのね。すぐに落ち着くから、安静にしてれば大丈夫」
ニャリエナは少し考えた。
「好きな相手……勇者様ニャン」
「やめるでございます!!」
女医がちらりとボッチルフを見た。何も言わなかったが、目が微妙な色をしていた。
宿に戻ると、ニャリエナを寝かしつけた。
「と、とにかく落ち着くまで安静にするでございます……ふごっ……安静、安静でございます……」
そう言って、椅子を布団から最大限遠ざけて座った。椅子は窓際まで下がった。
ぶつぶつと何かをつぶやきながら、魔道具の研究書を開いた。手が少し震えている。
ニャリエナはすやすやと寝息を立て始めた。
ホッとして研究書に、没頭した。
どのくらい時間がたったろうか。
不意に、布団からニャリエナの声がした。
「勇者さまぁ……」
声の質が、いつもと違った。妙に甘い。
「な、なんでございますか……」
ボッチルフは椅子から立ち上がらずに答えた。
「近くにいてほしいニャン……」
「あ、安静が大事でございますので、ここから見守るでございます……ふごっ……」
「近くニャン」
「み、見守っているでございます……」
沈黙があった。
それからニャリエナが上目遣いでボッチルフを見た。
「……勇者さま」
「な、なんでございますか……」
「近くニャン」
ボッチルフは観念して、布団の横まで近づいた。床に座った。
「こ、ここでございますか……」
「もっと近くニャン」
「こ、これ以上は……ふごっ……」
腕を掴まれた。顔を引き寄せられた。
かぷっ。
耳を噛まれた。柔らかく、でも確実に。
「ぶほっ!? な、なにをするでございますか!?」
耳元で、囁かれた。
「勇者様、交尾するニャン」
「な、な、なにを言ってるのでございますかあああ!?」
ニャリエナが布団からがばっと起き上がった。
目が据わっていた。いつものツリ目が、全く別の光を帯びている。獲物を狙う獣の目だ。
「交尾するニャン」
ボッチルフは一歩後退した。二歩後退した。背中が壁についた。
「や、やばいでございます……本気でやばいでございます……喰われるでございます……!」
ニャリエナがゆっくりと立ち上がった。
ボッチルフは部屋から飛び出した。
ボッチルフの全力疾走。その後ろ姿をニャリエナが狙う。
廊下を走りながら、ボッチルフは術式を展開した。
「眠りの術式――!」
魔力が収束し、淡い光がニャリエナに向かって流れた。
ニャリエナはぐらりとして、目が閉じかけた。
しかし一瞬で復活した。
「勇者様ぁ……交尾ニャン」
ボッチルフは走りながら分析した。
「なるほど……睡眠欲より性欲が上まわるのか……これは理論上も興味深い現象で――いや分析している場合ではないでございます!!」
階段を駆け下りた。
ボッチルフは次の魔法を準備した。
「幻影魔法・多重残像――!」
廊下にボッチルフが十体出現した。全員が同じ動きをしている。完璧な幻影のはずだ。
「これで時間を稼ぐでございます――」
ニャリエナはためらわなかった。
「勇者様はそこニャン!」
本物を指さした。
「なぜ即バレでございますか!? に、においでございますか!?」
「そうニャン。交尾するニャン!」
「嗅覚が恨めしいでございます――!」
宿の外へ飛び出した。
「短距離転移――!」
空間が歪み、ボッチルフの姿が消えた。
出現したのは屋根の上だった。夜風が優しく吹いている。
「これで距離を――」
「勇者様ぁー!!」
ニャリエナが屋根をよじ登ってきた。
「なぜ追ってこられるのでございますか!! 追跡能力が高すぎるでございます!!」
屋根の上を走り、瓦が落ちた。
宿の主人が窓から顔を出した。怪訝な表情を浮かべると、何も言わずに窓を閉めた。
決死の逃走劇は宿の中に戻った。
ボッチルフは廊下の突き当たりまで追い詰められてしまった。
「対軍用防壁術式――!」
ボッチルフが両手を広げた。廊下一面に光の壁が展開された。魔王の手下すら止める最強の術式だった。
ニャリエナが突撃した。
バリン。
「ふごっ!?」
ガラスが砕けるような音がして、結界が消えた。
「勇者様ぁー、覚悟するニャン!」
「ふごーっ!!」
廊下の向こうで、宿泊客が顔を出した。
「なにしてんだあいつら……」
そのまま部屋に戻っていった。
夜が明けた。
宿の一室で、ボッチルフが机に突っ伏していた。
目の下に濃いクマが浮かび、眼鏡が曲がっている。ローブがあちこち汚れ、魔力もほとんど残っていない。
ニャリエナが大きく伸びをしながら起き上がった。
顔色がすっきりしている。いつもの目に戻り、尻尾がふりふりと機嫌よく揺れていた。
「よく寝たニャン!」
ボッチルフは死んだ目のまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……朝まで逃げ切ったでございます……ふごっ……」
ニャリエナが首を傾げた。
「なんで逃げてたニャン?」
ボッチルフは無言で鼻血を出した。




