第九話 先生のこと
食堂は夜でも賑やかだった。
あちこちの机で生徒たちが飯を食い、笑い、言い合っている。天井の高い広間に声が響いて、どこかひとつの会話を聞き取ることもできない。
アケルとエンジとカヤは、窓際の席に座っていた。
「うんまいな、これ。」
アケルが味噌汁を一口飲んで言う。
「毎回同じこと言うね。」
カヤが箸を動かしながら呆れたように言う。
「だってうまいんだもん。山ん中でずっと干し肉食ってたから。」
「そういえば、入学前に任務に出てたんだっけ。」
エンジが飯を口に運びながら言う。
「うん。龍脈の調査で。」
「それがエチゼン先生と一緒に?」
「そう。」
エンジが少し考えるような顔をした。
「なあアケル。聞いていい?」
「なに。」
「おまえってまだ道術を使えないじゃん。系統もわかってないって言ってたし。それでなんでエチゼン先生の弟子になったの。普通、道術使えないと術師にもなれないじゃん。」
アケルは少し間を置いた。
カヤも箸を止めてアケルを見た。
「……7歳のときの話なんだけど。」
アケルは味噌汁を置いて、話し始めた。
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あれは城下の外れだった。
夕暮れ時、アケルはたまたま見てしまった。
怪異だった。それだけじゃない——怪異と一緒に、見慣れない格好をした人間が2人いた。城下では見たことのない、どこか異様な雰囲気の男たちだった。
心臓が跳ねた。
逃げれば良かった。でも足が動かなかった。
アケルは走って、近くにいた大人に伝えた。
「怪異がいる!変な格好の奴らも一緒に!隣の国の奴らかもしれない!」
大人たちは顔を見合わせた。
「あのガキは何言ってるんだ。」
「この国の領地内に隣国の人間が入ることはできないだろ。」
「ましてや、怪異なんていないだろ。」
誰も動かなかった。
アケルの心の中で何かが燃えた。馬鹿にされた怒りだったのか、焦りだったのか、今でもよくわからない。ただ、このままにはできなかった。
アケルは舌打ちして、一人で戻った。
怪異と2人の人間は、まだそこにいた。人気のない路地で、何かを探しているようだった。
怖かった。足が震えていた。
でも、誰も来ない。自分しかいない。
アケルは石を拾って、怪異に向かって投げた。
「おい!ここから出て行け!」
怪異がアケルを見た。2人の人間もアケルを見た。
「……子どもか。」
1人が呟いた。その声が、ひどく冷たかった。
次の瞬間、怪異がアケルに向かってきた。
アケルは走った。路地を、横道を、どこまでも走った。角を曲がり、塀を越え、どうにか怪異を引き離した。息が上がった。膝が笑っていた。
怪異はいなくなった。だが2人の人間は、まだそこにいた。
「よく逃げたな、ガキ。」
男が近づいてきた。アケルは後退した。背中が壁に当たった。
「お前、道術は使えるか。」
「……使えない。」
「使えない?」
男が笑った。嫌な笑い方、表情だった。
「じゃあ、もうおしまいだな。」
男が手を上げた。
——終わりだ、と思った。
でも目を閉じなかった。
男の手が飛んできた瞬間、アケルは横に転がった。完全には避けられなかった。肩を打ちつけて、壁に背中を叩きつけられた。
痛かった。体が動かなかった。
もう1人の男が近づいてくる。
——本当に終わりだ。
そう思ったとき。
「鋼の道——黒装。」
低い声が聞こえた。
黒い鉄の壁が男たちの前に現れた。男たちが弾き飛ばされる。
アケルが顔を上げると、一人の男が立っていた。
背が高く、髪を後ろで束ねた、厳しい顔つきの男だった。目が鋭くて、口を一文字に結んでいた。
「おい……大丈夫か。立てるか。」
「……大丈夫です。」
アケルは立ち上がった。足がふらついた。
男は男たちを無言で見た。それから、手早く2人を捕縛した。あっという間だった。まるで、最初からそうなることがわかっていたかのような動きだった。
「お前、道術は使えないのか。」
「……使えないです。」
「なのになぜ立ち向かった。」
アケルは少し考えた。
「だって、他に誰もいなかったから。」
男はしばらくアケルを見ていた。何を考えているのか、全然わからなかった。怒っているのか、呆れているのか、それとも何も感じていないのか。
それから、踵を返した。
「名は。」
「アケルです。」
「そうか。」
男はそれだけ言って、歩き始めた。
「あの!」
アケルが声を上げた。
男が足を止める。
「弟子にしてください!強くなりたいので!」
男が振り返った。その目が、初めてアケルをまじまじと見た。
「……道術が使えないものを弟子にする気はない。」
「でも——」
「帰れ。」
男は行ってしまった。
アケルはその背中を見送った。
諦める気には、なれなかった。
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「それがエチゼン先生。」
アケルが言う。
エンジは箸を止めていた。カヤも、いつの間にか手が止まっていた。
「で、そこで諦めたの?」
エンジが聞く。
「諦めるわけないじゃん。次の日も行ったよ。」
「毎日?」
「毎日。でも毎回断られた。『道術が使えないものは弟子にしない』って。そればっか。」
「それでも行き続けたの。」
カヤが静かに言う。断定でも疑問でもない、確かめるような口調だった。
「通い続けたよ。だってあんな術師に弟子にしてもらえたら絶対強くなれると思って。でも、2ヶ月くらい断られ続けてさ。」
アケルが少し笑った。
「そしたら、事件が起きた。」
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あれは弟子入りを頼み始めて、2ヶ月くらい経った頃だった。
エチゼンの家の前でいつものように待っていたアケルは、騒ぎを聞いて走った。
捕虜が牢を破って逃げ出した。しかも人質を取っている、という話だった。
現場に着くと、捕虜が一人の町人を盾にして路地の奥に立っていた。周囲に術師が何人かいたが、人質がいるため手が出せない。
捕虜は雷系の術師だった。手に雷を纏わせて、誰も近づけないようにしていた。
アケルは周囲を見渡した。
水桶があった。木の棒があった。乾いた布があった。
頭の中で、何かが繋がった。
雷は水を通す。でも乾いた布は通さない。
アケルは布を拾い上げ、手にきつく巻いた。それから、水桶を思い切り蹴倒した。
水が路地に広がった。
「おい!」
驚いた捕虜がアケルを見た。周囲の術師たちもアケルを見た。
「ガキ、お前何をして——」
アケルは走った。
布を巻いた手で、雷を纏った捕虜の手を掴んだ。
雷が布に阻まれた。痺れは来た。歯を食いしばって耐えた。
そのまま体重をかけて捕虜を押し倒した。捕虜が路地の水溜りに倒れた。
雷が水を伝わって、捕虜自身に走った。
捕虜が動かなくなった。
人質が解放された。
アケルは立ち上がった。手が震えていた。膝も震えていた。今度は怖さではなく、力を使い果たした震えだった。
「……何をやっている。」
振り返ると、エチゼンが立っていた。
いつからいたのか、わからなかった。
「つかまってた人を助けたくて。そしたら、こうなってた。」
エチゼンはしばらく黙っていた。
その目が、何かを見るように細くなった。
それから、長く息を吐いた。
「……ついてこい。」
「え。」
「弟子にしてやる。ただし、死ぬほど鍛える。それでもいいか。」
アケルは即座に頷いた。
「はい!」
エチゼンはまた少し黙った。それから、ぽつりと言った。
「……向こう見ずなやつだ。」
怒っているのか、呆れているのか。でもその声は、さっきより少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかかった気がした。
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「それで弟子になったの。」
カヤが静かに言った。
「そう。」
「7歳で。」
「7歳で。」
しばらく誰も何も言わなかった。
エンジが天井を見上げた。
「……そりゃ先生も折れるわ。」
「でしょ。」
「でも向こう見ずすぎる。死んでたかもしれないじゃん。」
カヤが言う。呆れた口調だったが、その目は少し違った。
「まあ、そうなんだけど。でも、そのときはそれしか思いつかなかった。」
「今も大して変わってないけどね。まだ、道術も使えないしねー。」
エンジが笑いながら言う。
「うるさい。」
アケルも笑った。
「エチゼン先生って、今どこにいるの。」
カヤが聞いた。
「再調査で山に行ってる。一人で。」
「一人で?」
「うん。」
カヤとエンジが顔を見合わせた。
「……心配じゃないの。」
「心配だよ。めちゃくちゃ。でも先生だから。」
アケルは窓の外を見た。夜の山が、暗い空に黒く浮かんでいた。
「絶対帰ってくるから。」
誰に言うでもなく、呟いた。
しばらく沈黙があった。
「まあ。」
エンジが箸を置いた。
「強くなって、先生が帰ってきたとき驚かせようぜ。いい加減、道術使えなきゃだろ。」
「ふふ、それいいね。」
カヤが珍しく、少し笑った。
アケルも笑った。
食堂の喧騒が、また3人を包んだ。
窓の外、夜の山は静かだった。




