第六話 鬼燈院
朝だった。
城下の通りに、まだ人影は少ない。石畳に朝露が光り、軒先ののれんが風もないのに静かに揺れていた。
エチゼンの家の前に、3人が立っていた。
「……では、サツマ。」
エチゼンが静かに言う。
「はい。」
サツマが頭を下げた。いつもと変わらない、真っ直ぐな礼だった。
「軍の命とはいえ、急な話だった。すまなかった。」
「いいえ。エチゼン様のもとで任務ができたこと、光栄でした。」
サツマはそれだけ言って、顔を上げた。表情は変わらない。だが目が、わずかに細くなっていた。
それからサツマはアケルを見た。
「アケル。」
「……なに。」
「強くなれ。」
それだけだった。
アケルは少し黙った。
「……サツマらしいな。」
「何か問題があるか。」
「ない。」
アケルは小さく笑った。サツマも、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「達者でな。」
サツマが踵を返す。大きな背中が、朝の通りの向こうに遠ざかっていく。
アケルはその背中をしばらく見送った。
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「行くぞ、アケル。」
エチゼンが歩き始めた。アケルは慌てて後を追う。
城下を抜け、街の外れへと向かう道を2人は歩いた。
「先生、本当に一人で行くの。」
「何度も聞くな。」
「でも——」
「わしが一人で動けなくなったとでも思っているのか。」
アケルは黙った。
「……思ってないけど。」
「ならいい。」
2人はしばらく無言で歩いた。街の外れに差し掛かると、道が分かれていた。右が山へ続く道。左が鬼燈院へ続く道。
エチゼンが足を止めた。
「アケル。」
「なに。」
エチゼンはアケルを見た。いつもの、感情を読ませない目だった。だがその奥に、確かに何かがあった。
「鬼燈院で学ぶのは、術だけではない。」
「……うん。」
「人を見ろ。仲間を作れ。お前には、それができる。」
アケルは少し黙った。
「それって褒めてる?」
「さっさと行け。」
「もう一個言ってよ、せっかくだから。」
エチゼンは少し間を置いた。
「……負けんじゃねーぞ。」
アケルは思わず笑った。
「先生がそういう言い方するの初めて聞いた。」
「うるさい。」
エチゼンが踵を返す。山への道を、振り返らずに歩いていく。その背中が、朝の光の中に小さくなっていく。
アケルはしばらくその背中を見ていた。
小さくなっていく。どんどん小さくなっていく。
ユウとマキシのことを思った。あの山で2人が消えた瞬間を。報告の間で上層部に笑われた瞬間を。エチゼンが「怒っている」と言いながら、それでも静かに歩き続けていた背中を。
強くなりたい、とあの廊下で思った。今もそう思う。
だがそれは——何のためだ。
笑われたくないから、か。先生に追いつきたいから、か。ユウとマキシの分まで、か。
答えはまだわからなかった。
ただ、エチゼンの背中は、もう見えなかった。
アケルは一つ息を吐いて、左の道へと歩き始めた。
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鬼燈院は、山の中にあった。
だがそれは、アケルが想像していた「山の中の学校」とは、まるで違うものだった。
木々の間を抜けた先に、突然それは現れた。
大きかった。とにかく、大きかった。
幾重にも重なった黒瓦の屋根が、山の斜面に沿うようにして積み上がっている。朱塗りの柱、白壁、欄干。窓という窓に明かりが灯り、あちこちから煙が上がっていた。建物と建物が渡り廊下で繋がり、その廊下がまた別の建物へと続いている。全体の形が、どこからどこまでなのかよくわからない。
油屋に似ていた。あの、常世で見た迷い喰いの腹の中に漂っていた、飲み込まれた家のような——いや、それよりずっと賑やかで、ずっと生きていた。
「でか……。」
アケルが思わず立ち止まる。
よく見ると、建物だけがおかしいのではなかった。
渡り廊下の欄干に、何かが座っていた。人の形をしているが、足が四本ある。こちらを一瞥して、興味なさそうに目を逸らした。廊下の奥を、炎のような尾を引いた何かがすっと横切った。門のそばに立つ大木の幹に、目のような模様がいくつも浮かんでいた。瞬きをした。
アケルは目をこすった。
「……ここ、そういう場所なのか。」
誰に言うともなく呟く。答える者は、いなかった。
門の前には、すでに何人かの生徒が集まっていた。新入りだろう、アケルと同じように口を開けて建物を見上げている者もいた。ただ一人、木の幹の目に向かって軽く会釈している者もいた。
「おーい、アケル!」
声がした。
振り返ると、門の脇に2人が立っていた。
カヤだった。深森一族特有の、深い緑色の着物。肩のあたりで切りそろえた黒髪。表情は相変わらず、どこかつんとしている。
その隣に、長身の男が立っていた。飄々とした顔つき。口の端がわずかに上がっていて、何を考えているのかよくわからない。
「エンジ!」
「よお。久しぶりじゃん。」
エンジが軽く手を上げる。その仕草に、どこか余裕があった。
「2人も鬼燈院だったの?」
「そりゃそうでしょ。術師になるならここしかないじゃん。」
カヤがさらりと言う。
「エンジは?」
「まあ、いろいろあってね。」
エンジが軽く笑った。その笑いの奥に、何かが滲んでいた気がしたが、アケルは聞かなかった。
「3人一緒か、なんか安心するな。」
「そんな感じ。」
カヤが短く言う。だがその口元が、わずかに緩んでいた。
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入学の手続きは、鬼燈院の奥にある受付で行われた。
受付には、小柄な老婆が座っていた。皺だらけの顔に、鋭い目。手元には分厚い帳面が積み上がっていた。
「名前。」
「アケルです。」
「タオの系統。」
「……まだわかりません。」
老婆がアケルを見た。品定めするような目だった。
「まだわからんとな。珍しい。」
「すみません。」
「謝るな。珍しいと言っただけだ。等級は。」
「一位術師です。」
老婆は帳面に何かを書き込んだ。
「タオとは何か、知っているか。」
「……生まれ持った、術師の資質のようなものです。」
「まあ、そういうことだ。術師はタオを持って生まれる。そのタオを使い、道術を発動する。道術を使う時は『〜の道』と発することで、タオが術として形を成す。鬼燈院ではそのタオを鍛え、道術を磨く。等級はその習熟度だ。一位が最も低く、七位が最も高い。現状七位術師はこの国に3人しかおらん。」
アケルは黙って聞いた。
「お前のタオの系統が何かは、鍛錬の中でわかってくる。まずは基礎から始めろ。部屋は——」
老婆が帳面を確認する。
「東棟の四号室だ。同室はエンジという者だ。」
「知ってます。」
「そうか。ならいい。次。」
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東棟の四号室は、思ったより広かった。
畳敷きの部屋に、布団が2つ。窓の外には山が見え、夕暮れの光が差し込んでいた。
「せまっ。」
エンジがすでに荷物を広げながら言う。
「広いじゃん。」
「俺の部屋の方が広かったんだよ、実家。」
「贅沢言うな。」
アケルは自分の布団に腰を下ろした。窓の外を見る。山が見えた。あの山ではない、別の山だ。緑が深く、夕暮れに染まって橙色になっていた。
「なあエンジ。」
「ん。」
「なんで術師になろうと思ったの。」
エンジは荷物を整える手を止めなかった。
「さあな。」
「さあなって——」
「お前は?」
アケルは少し黙った。
「強くなりたかったから。」
「ふーん。」
エンジが窓の外を見た。その目が、一瞬だけ遠くなった。
「まあ、そんなとこだよ。俺も。」
それ以上は聞かなかった。
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夕飯は大広間で取った。
長い机が並び、大勢の生徒が座っている。味噌汁の匂い、焼き魚の匂い、飯の湯気。賑やかな声が天井に反響していた。
アケルはカヤとエンジと並んで座った。
「あの2人、知ってる?」
カヤが視線で示した先に、2人が座っていた。
1人は、背筋を伸ばして静かに食事をしていた。涼しい顔つき、切れ長の目。周囲の賑やかさとは無縁の、凛とした雰囲気があった。
もう1人は、その隣でどこか縮こまるように座っていた。小柄で、前髪が目にかかっている。時折周囲をうかがうような視線を向けていた。
「知らない。」
「あの涼しい顔してるのが天倉ソウジ。貴族の出だけど術師になったって話。」
「珍しいな。」
「珍しいね。あの隣の子は——なんていったっけ。ライラ、だったかな。どこから来たのかよくわからない子。」
アケルはライラを見た。前髪の隙間から、こちらをちらりと見た目が合った。ライラはすぐに視線を逸らした。
「なんか、緊張してるのかな。」
「さあ。」
カヤが箸を動かしながら言う。
「話しかけてみようか。」
「今日じゃなくていいんじゃない。」
エンジが飄々と言う。
「まあ、そうか。」
アケルは飯を口に運んだ。
温かかった。
山の中で食べ続けた干し肉とは、全然違う。当たり前の、温かい飯だった。
窓の外に、夜が来ていた。山の稜線が、暗い空に黒く浮かんでいた。
エチゼンは今頃、どのあたりを歩いているだろう。
アケルはそう思いながら、もう一口、飯を食った。
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夜、部屋に戻ると、エンジはすでに布団に入っていた。
「早いな。」
「眠いんだよ。」
アケルも布団に入った。天井を見上げる。
「なあエンジ。」
「なんだよ。」
「ソウジとライラ、どう思う。」
「さあ。まだ話してないし。」
「そうだよな。」
しばらく沈黙があった。
「でも。」
エンジが静かに言う。
「あのライラって子、なんか——」
「なんか?」
「いや、なんでもない。」
エンジが寝返りを打った。
「おやすみ。」
「……おやすみ。」
アケルは天井を見上げたまま、しばらく目を開けていた。
鬼燈院の夜は、静かだった。
山の奥から、虫の声が聞こえていた。
風が、窓をかすかに揺らした。
アケルはゆっくりと目を閉じた。




