第五話 帰還
イズルの国は、山を下りた先にあった。
城下に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
石畳の大通りに沿って、黒瓦の屋根が幾重にも重なって連なっている。軒先には朱塗りの格子、白壁に墨で書かれた屋号、風に揺れるのれん。路地の奥には石燈籠が並び、その根元に苔が青く張っていた。空に向かって伸びる城の天守が、夕暮れの光を受けて橙色に染まっている。
音が戻ってきた。
売り声、足音、遠くで響く鐘の音。どこかの店から、煮物の匂いが漂ってきた。
アケルは立ち止まりそうになった。
当たり前の匂いだった。当たり前の音だった。あの山の静寂から戻ってきたのだと、体がようやく理解し始めていた。
「歩け。」
エチゼンが振り返りもせずに言う。
「……わかってる。」
3人は人の波をかき分け、石畳の道を進んだ。
城に近づくにつれ、通りの空気が変わっていく。商人や職人の顔が減り、代わりに紋付きの羽織を着た男たちが増えていく。腰に帯刀した者も目立ち始め、行き交う人の足取りも、どこか引き締まっていた。
「……帰ってきたんだな。」
アケルがぼそりと呟く。
誰も答えなかった。
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報告の間は、城の奥にあった。
広い部屋だった。天井が高く、柱が太く、床は磨き抜かれた黒い石でできている。正面には段が設けられ、そこにイズルの国、軍上層部の3人が座っていた。
中央に座る男が、エチゼンを見た。年嵩で、目が細く、表情をほとんど動かさない男だった。
「エチゼン。戻ったか。」
「はい。ただいま帰還いたしました。」
エチゼンが静かに頭を下げる。アケルとサツマもそれに倣った。
「報告を聞こう。その前に——」
男が一枚の書状を取り出した。
「トマリ様よりの言葉をお伝えする。」
部屋の空気が、わずかに変わった。
「エチゼンを信頼し、この任を託した。その判断を後悔はしていない。だが——2名を失い、龍脈も持ち帰れなかったことは、深く残念に思う。以上だ。」
男が書状を伏せた。
エチゼンは静かに頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
「……肝に銘じます。」
低い声だった。いつもより、わずかに低かった。
「では、報告を聞こう。」
エチゼンは淡々と語り始めた。
山の異変。常世への越境。迷い喰いとの遭遇。脱出。そして——ユウとマキシのことを。
「2名は常世に取り込まれました。現世への帰還は不可能と判断しています。」
部屋が静まり返った。
中央の男がゆっくりと口を開く。
「龍脈の特定は。」
「該当山域が龍脈の核心に近いことは確認しました。ただし、正確な位置の特定には至っておりません。」
「つまり。」
男の声が、わずかに低くなった。
「2名を失い、龍脈も見つけられなかった。そういうことか。」
「結果としては、そうなります。」
エチゼンは表情を変えなかった。
右側に座る男が口を開いた。こちらは若く、いかにも軍人らしい顔つきをしていた。
「エチゼン殿。軍から派遣した2名を失ったことについて、どう説明されるおつもりか。ユウとマキシは優秀な術師だった。その損失は——」
「申し訳ありませんでした。」
エチゼンが静かに遮った。
「だが、あの山で起きたことは報告書に記した通りです。2人は自らの足で動いていた。最後まで。」
「それが何の言い訳になる。」
アケルの拳が、わずかに固まった。
「言い訳ではありません。事実です。」
エチゼンの声は変わらなかった。低く、静かで、揺れない。
若い男がさらに何か言おうとした。
「——言い訳にならねえのはわかってる。」
声が出ていた。
アケルだった。
部屋の視線が一斉に集まった。エチゼンが横目でアケルを見た。止めなかった。
「でも、ユウさんとマキシさんは——あの山で、ちゃんと戦ってた。消えるまで、ちゃんと生きてた。それを損失とか失ったとか、そういう言い方だけで片付けてほしくない。」
沈黙が落ちた。
中央の男がアケルを見た。
「お前が、エチゼンの弟子か。」
「……はい。」
「等級は。」
「一です。」
男は少しだけ目を細めた。それから、左右の男に視線を向けた。右の男が小さく鼻を鳴らす。左の男は口の端をわずかに持ち上げた。
笑っていた。声には出さない、しかし確かな笑いだった。
「等級一が、軍の報告の場で口を開くか。」
中央の男が静かに言った。馬鹿にしているのか、呆れているのか、その両方なのか——表情からは読めなかった。
「……。」
アケルは黙って前を向いた。拳が、また固まった。
男はエチゼンに視線を戻した。
「続きは文書で受け取る。下がれ。」
「失礼いたします。」
エチゼンが頭を下げた。アケルとサツマも倣う。
3人は部屋を出た。
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廊下に出た瞬間、アケルは長く息を吐いた。
「……怒られると思った。」
「怒られなかったのは、わしが止めなかったからだ。」
エチゼンが静かに言う。
「止めなかったの?」
「言いたいことを言わせた方がいい場合もある。」
アケルは少し黙った。
「先生は、怒ってないの。あの人たちに。」
エチゼンはしばらく答えなかった。石畳の廊下を、静かに歩き続ける。
「怒っている。」
「……じゃあなんで。」
「怒りをぶつけても、ユウとマキシは戻らない。」
アケルは黙った。
廊下の窓から、城下の景色が見えた。夕暮れに染まった瓦屋根が連なり、その向こうに山が見えた。あの山だった。真紅の空はもうなかった。ただ青く、何事もなかったように晴れていた。
「……先生。」
「なに。」
「俺、強くなりたい。」
エチゼンは足を止めなかった。
「等級一だから笑われたんじゃない。」
アケルは少し黙った。
「……わかってる。でも。」
「でも、何だ。」
「笑われたままじゃいたくない。」
エチゼンはしばらく黙って歩いた。それから静かに言う。
「なれる。」
「なれる?」
「お前はさっき、あの場で言うべきことを言った。等級一の術師が上層部に向かって。」
アケルは少し黙った。
「それ、褒めてる?」
「怒られなかっただろう。」
サツマが静かに口を開いた。
「エチゼン様なりの褒め方です。」
「サツマ、余計なことを言うな。」
「失礼しました。」
アケルは思わず笑った。
山を下りてから、初めて笑った気がした。
3人は廊下を歩き続けた。城下の喧騒が、窓の外から静かに聞こえていた。




