第四話 境の果て
白いものは、消えなかった。
木々の奥に入ったはずなのに、いつの間にかまた別の木陰に立っている。近づこうとすれば消え、立ち止まれば現れる。まるでこちらの動きに合わせているようだった。
「……誘ってる?」
アケルが小声で呟く。
「そうも見える。」
エチゼンが静かに応じた。
「ならついていくしかないな。」
サツマが前を向いたまま言う。
3人は白いものの動きに合わせ、慎重に歩を進めた。木々はさらに密になり、足元の地面が柔らかくなっていく。踏みしめるたびに、わずかに沈む。
「……ここ、山じゃなくなってきてない?」
アケルの言葉に、誰も答えなかった。
答えられなかった。
木が木でなくなっていた。幹は光を通すように薄く透け、葉は風もないのにゆっくりと揺れている。足元の地面には、草でも苔でもない、青白い何かが低く広がっていた。
「気を抜くな。まだ越えていない。」
エチゼンが静かに言う。だが声に、わずかな緊張が混じっていた。
白いものがまた動いた。
今度は止まらなかった。ゆっくりと、しかし確かに、奥へと歩いていく。
3人はその後を追った。
しばらくして、開けた。
場所とは言えないような場所だった。地面がない。空もない。ただ、灰色の光がどこからともなく差し込んでいて、その中に白いものが立っていた。
向き合っていた。
「……来てくれたね。」
声ではなかった。音でもなかった。だが確かに、何かが3人の胸の中に落ちてきた。
「お前は——何だ。」
エチゼンが静かに問う。
白いものはしばらく動かなかった。それから、ゆっくりと首を傾けた。傾けるたびに、輪郭がわずかにぶれる。顔があるようで、ない。目があるようで、ない。それでも確かに、こちらを見ていた。
「……名前は、ない。」
また、音でない何かが落ちてくる。
「ここに長くいる。境の側に。」
「境——龍脈の、か。」
「そう呼ぶなら、そう。」
エチゼンの目が細くなった。
「お前が我々を誘ったのか。」
「見てほしいものがあった。」
白いものがゆっくりと片腕を上げた。
その指の先に——2つの光があった。
小さかった。遠かった。だが確かに、そこにあった。
アケルの息が止まった。
「……あれ。」
「そうだ。」
「ユウとマキシか。」
「そう呼んでいいなら、そう。」
アケルは一歩踏み出した。
足が、戻った。
気づいたときには、一歩手前に立っていた。踏み出した感覚はあった。だが体は動いていなかった。
「……?」
もう一度、踏み出す。
また、戻っていた。
「アケル。」
エチゼンが静かに言う。
「なんで——」
「龍脈だ。」
アケルは足を止めた。エチゼンの声が、いつもより低かった。
「現世の人間は、常世の深くには入れない。踏み込もうとするたびに、弾き返される。龍脈がそうさせている。」
「じゃああいつらは——」
「もう、こちら側には来られない。」
沈黙が落ちた。
アケルはもう一度、足を踏み出した。
また、戻った。
「……っ!」
今度は走った。全力で、光に向かって。
気づいたときには、また一歩手前に立っていた。息が上がっていた。足が痛かった。だが場所は、変わっていなかった。
「アケル。」
サツマの声だった。
「……わかってる。」
アケルは荒い息のまま、光を見つめた。
小さな2つの光は、揺れていた。風もないのに、揺れていた。
「……俺のこと、わかってるか。」
誰かに言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。
光は揺れ続けていた。
「見てほしかったのは、それだけか。」
エチゼンが白いものに向き直り、静かに問う。
白いものはしばらく動かなかった。
それから、また首を傾けた。
「……悲しいか。」
「悲しい。」
エチゼンは即座に答えた。
「だが、これが境というものだ。」
「そう思っている。だから見せた。」
「……見せた?」
「知らずに帰るより、知って帰る方がいい。そう思った。」
アケルが白いものを見た。
怖くないとは言えなかった。輪郭がぶれるたびに、背筋が粟立った。だが——
「お前、優しいな。」
白いものは答えなかった。
ただ、揺れた。
輪郭が、一瞬だけはっきりした。目のような形が、確かにそこにあった。
「……帰れ。」
音でない何かが、静かに落ちてくる。
「ここは長くいられる場所ではない。」
「お前は。」
アケルが聞く。
「俺たちが帰ったら、またここで一人か。」
しばらく、沈黙があった。
「慣れている。」
「慣れてるって言うなよ。」
アケルがぼそりと言う。
「……また来るかもしれない。俺たち、龍脈を探してるから。」
「知っている。」
「じゃあそのときまた会えるか。」
白いものは答えなかった。
ただ、また揺れた。
エチゼンが静かに踵を返した。
「行くぞ。」
「……うん。」
アケルは光をもう一度だけ見た。2つの小さな光は、まだ揺れていた。
「またな。」
声に出したのか、出さなかったのか、自分でもわからなかった。
3人は来た道を戻り始めた。
歩くほどに、木々が戻っていく。透き通っていた幹が濁り、青白かった地面が土に戻り、足元の感触が固くなっていく。
真紅の空が、少しだけ——ほんの少しだけ、薄くなっていた。
「先生。」
しばらく歩いたところで、アケルが口を開く。
「なに。」
「あいつら、あそこで生きてるのか。」
「わからん。」
「わからんって——」
「わしは何度か常世に足を踏み入れたことがある。だがそこで"生きている"ものを見たことはない。常世にあるのは、現世から流れ込んだものか、もとからそこにいるものか——どちらも、我々の知る生とは違う。」
エチゼンは前を向いたまま、静かに続ける。
「だから、あの2人があの場所でどうあるのか、わしには判断できない。だが光は揺れていた。それだけは確かだ。」
アケルはしばらく黙っていた。
「……そっか。」
気づいたのは、においだった。
土の、草の、湿った岩の匂い。常世の中にはなかったものが、ふっと鼻をついた。
次に、光が変わった。
青白く均一だった光が、方向を持ち始めた。どこかから差し込んでくる。木々の隙間から、斜めに、確かな角度で。
「……空だ。」
アケルが顔を上げた。
真紅の空は、まだそこにあった。だが先ほどとは違う。色の奥に、かすかに別の色が滲んでいた。夜明け前の空のように、どこか白みがかっていた。
山道があった。踏み固められた土があった。見覚えのある岩が、見覚えのある角度で転がっていた。
「戻ってきた。」
サツマが静かに言う。
「……このまま山を下りる。」
エチゼンが静かに言った。
「いいの?龍脈は。」
「この山が龍脈の核心に近いことはわかった。それで十分だ。今は持ち帰ることが先決だ。」
「そうですね。」
サツマが頷く。
アケルは空を見上げたまま、動かなかった。
「……アケル。」
「わかってるよ。」
アケルはゆっくりと前を向いた。
「帰ろう。」
3人は山道を下り始めた。
風はまだなかった。鳥も鳴かなかった。
それでも、足元の土はしっかりと固く、3人の重さを確かに受け止めていた。
山の奥で、何かが揺れた気がした。
振り返らなかった。
でも——アケルだけが、わずかに首をすくめた。
それで十分だった。




