第三話 境を歩む者たち
3人は無言で山道を進んでいた。
エチゼンが先頭に立ち、切れ端を見つけた方角へと歩を進める。アケルとサツマがその後に続く。
風はない。鳥も鳴かない。
ただ、3人の足音だけが山に響いていた。
「……先生。」
しばらく歩いたところで、アケルが口を開く。
「なに。」
「あいつら、生きてるよな。」
エチゼンは答えなかった。ただ前を向いたまま、静かに歩き続ける。
「……生きてる。そう思って進め。」
アケルは小さく頷いた。
道はどんどん細くなっていった。木々が密になり、足元の石が増え、山道とも言えないような獣道になっていく。それでもエチゼンの足は止まらない。
「あった。」
サツマが低く声を上げた。
道の脇、岩の割れ目に、布切れが挟まっていた。さっきのものと同じ色だった。その先の地面には、かすかに草が踏み荒らされた跡がある。
「こっちに進んだんだ。」
アケルがしゃがみ込んで跡を確かめる。
「引きずられた跡じゃない。自分で歩いてる。」
「生きている証拠だ。」
エチゼンが静かに言った。
3人は踏み荒らされた跡を辿りながら、さらに奥へと進んだ。
しばらくして、開けた場所に出た。
岩場だった。大きな岩がいくつも転がり、その隙間に苔が生えている。中央には、枯れた大木が一本、空に向かって突き立っていた。
「……ここで休んだのか。」
サツマが岩の一つを指さす。岩の表面に、人が座ったような跡があった。その近くには、食べかけの干し肉が落ちていた。
「最近だ。まだ乾いていない。」
エチゼンが干し肉を拾い上げ、確認する。
「近くにいる。」
アケルが立ち上がり、周囲を見渡した。
その時だった。
風がない山の中で、かすかに——何かが揺れた気がした。木の葉でも、草でもない。もっと遠く、もっと奥の方から。
「……今、なんか感じなかった?」
「あぁ。」
エチゼンが静かに目を細める。
「気配だ。」
サツマが無言で体勢を低くする。エチゼンが手で制した。
「敵ではない。……おそらく。」
アケルはじっと奥を見つめた。何も見えない。だが確かに、何かがいる。そんな感覚が、じわりと肌に滲んでいた。
エチゼンがゆっくりと岩場の端に腰を下ろした。
「少し休め。無闇に動いても意味がない。」
「……いいの?」
「あちらから来るのを待つ。」
アケルとサツマも岩に腰を下ろす。
しばらくの沈黙の後、アケルの脳裏に腹の中で出会った光の人影がよぎった。
「なあ先生。カグーって何者なんだろ。」
「さあな。」
「でも、ああいう存在って常世にはたくさんいるの?」
エチゼンはしばらく黙っていた。それから静かに口を開く。
「常世とは、現世の裏側だ。我々が生きる世界の、影のような場所だと思え。そこには我々の理では測れないものが住んでいる。カグーもその一つ、いや一人だろう。」
「じゃあ龍脈って、その常世と現世の境目にあるってこと?」
エチゼンがアケルを見た。珍しいものを見るような目だった。
「……よく気がついた。」
「え、当たり?」
「龍脈とは力そのものではない。現世と常世を分かつ境界線が、この世界に走っている。その境界線が最も濃く集まる場所——それが龍脈だ。」
アケルは黙って空を見上げた。
「じゃあ俺たちが今いるこの山も、龍脈に近いってこと?」
「そうだ。だからこそ境を越えてしまった。」
「……それって、かなりやばくない?」
「やばい。」
エチゼンが静かに頷く。
アケルは乾いた笑いを漏らした。
「先生がやばいって言うの初めて聞いた。」
「それだけ特異な場所だということだ。」
サツマが静かに周囲を見渡しながら言った。
「だからこそ、消えた2人が心配です。この山に飲み込まれたなら——。」
「生きている。」
エチゼンが静かに遮った。
「根拠は?」
「……カグーが言っていた。迷い喰いは寂しいだけだと。この山は常世に近い。迷い喰いと同じ“性質”を帯びている。」
アケルはその言葉を噛み締めるように、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと呟く。
「カグー、また会えるかな。」
誰も答えなかった。
山の奥で、またあの気配が揺れた。
今度は、少し——近かった。
「……行くか。」
エチゼンが静かに立ち上がった。
「気配を追う。」
「やっぱりそうなるよな。」
アケルも腰を上げる。サツマはすでに立っていた。
3人は岩場を抜け、気配のした方角へと歩き始めた。
道はない。草を掻き分け、岩を越え、どんどん奥へと進んでいく。
「……山、変わってきてない?」
アケルが周囲を見渡しながら呟く。
確かに、変わっていた。
さっきまでの山道とは明らかに違う。木々の形がおかしい。幹が螺旋状に捻れているものがある。根が地面ではなく空中に向かって伸びているものがある。葉の色も、緑ではなくどこか青みがかっている。
「また常世に近づいている。」
エチゼンが静かに言った。
「また境を越えるの?」
「まだだ。だがそれだけここは特異な場所だということだ。気を抜くな。」
3人は慎重に歩を進めた。
しばらくして、サツマが足を止めた。
「……エチゼン様。」
低い声だった。
エチゼンも足を止める。アケルも倣った。
サツマの視線の先、木々の隙間に——何かがあった。
白かった。
岩でも木でもない。人の形をした、白いものが、遠くの木陰にぼんやりと立っていた。
動いていない。ただそこに、立っている。
「……あれ、人?」
アケルが息を潜めながら呟く。
「動くな。」
エチゼンが静かに制した。
3人はじっとそれを見つめた。白いものも、動かない。ただ、こちらを向いているような気がした。
風のない山の中で、静寂だけが広がっていた。
やがてエチゼンが、ゆっくりと一歩踏み出した。
その瞬間——白いものが、すっと木々の奥へ消えた。
「待って!」
アケルが思わず声を上げ、駆け出そうとする。
「アケル!」
サツマがその腕を掴んだ。
「焦るな。」
エチゼンが静かに言う。
「でも、今の——!」
「わかっている。」
エチゼンは消えた方角を静かに見つめたまま、口を開いた。
「……あれは、この山に飲み込まれたものだ。まだ溶けきっていない。」
「溶けきっていない?」
「常世に取り込まれながら、まだ現世に引っかかっているものが、ああして姿を現すことがある。」
アケルは消えた木々の奥を見つめた。
「じゃあ、あれが——。」
「まだわからん。」
エチゼンが遮った。だがその目は、確かに奥を見ていた。
「だが、手がかりにはなる。」
3人は再び歩き始めた。白いものが消えた方角へ、静かに、慎重に。
山はどこまでも深く、静かだった。




