第二話 のまれた3人
「空が赤くなっている? それにあいつら二人ともどこに行ったんだよ!てか――!」
「落ち着けアケル!」
自身の理解を超えた出来事に、アケルはひどく動揺していた。エチゼンがその肩を掴み、落ち着かせる。
「でもさ、先生、俺らこのままじゃ帰れ――」
アケルが口を開いた瞬間だった。
山々を見下ろすほど巨大な、化け物の顔。
それは瞬きもせず、ただこちらを無邪気に覗き込んでいた。化け物の視線の先にいる3人のうち、エチゼン以外はかかしのようにただ立ち尽くしていた。
「……!」
「ハガネの道 灰の陣っ‼︎」
エチゼンが道術を使用した瞬間、アケルたちの視界から光が消えた。
暗闇の中、エチゼンがろうそくを灯す。
「アケルっ!サツマっ!しっかりしろ!」
エチゼンの声に2人の意識が戻る。
「せんせー、ここどこ?」
「エチゼン様、ここは?」
「あぁ、あの化け物の腹の中だ。今わしたちを囲んでいるのは、さっき使った陣の結界だ。直接触れなければしばらくは安全だろう。」
ろうそくの光が照らす範囲は狭い。その外は、ただ深い暗闇が広がっていた。
「……腹の中って、普通じゃなくない?」
「ここがどこかは今はわからん。だが現世でないことは確かだ。うかつに動くな。」
エチゼンは静かにろうそくを掲げ、周囲を確認しながら歩き始めた。
「脱出口を探す。ついてこい。」
「は、はい!」
3人は暗闇の中を慎重に進んだ。足元は柔らかく、まるで苔の上を歩いているようだった。だが苔にしては妙に温かく、時折かすかに脈打っているような気がした。
「……先生、なんか動いてるじゃん、これ。」
「気にするな。歩け。」
「気にするなって言われても……。」
サツマが無言でアケルの背中を押す。アケルは渋々足を動かした。
どれほど歩いただろうか。暗闇の中に、ぼんやりとした光が見えてきた。
「……あれは?」
エチゼンが足を止める。光は揺れていた。まるでろうそくのように、だがろうそくよりずっと青白い。
近づくにつれ、光の輪郭が人の形をしていることがわかった。
座っている。こちらに背を向けて、何かを静かに眺めている。
「……人か?」
サツマが低く呟く。
エチゼンが一歩前に出た。
「そこにいる者、我々はイズルの国の者だ。道に迷っている。話を聞いてもらえるか。」
しばらくの沈黙の後、その人影がゆっくりと振り返った。
顔があった。だが目も鼻も口も、人のものとは少しだけ違う。整いすぎていて、どこか現実味がない。それでいて、その表情には確かな温もりがあった。
「……迷い人。久しぶりだねえ。」
声は穏やかだった。年齢がわからない。老人のようでもあり、子どものようでもある。
「カグーと呼びな。ここではそう呼ばれてるから。まあ、座りなよ。」
「なんか、怖くないな。」
アケルがぽつりと呟く。エチゼンが横目で睨んだが、アケルはすでにカグーの前にどかりと座っていた。
「カグー、ここどこ?」
「アケル、無礼だろう。」
「いいよいいよ。」
カグーはおかしそうに目を細めた。
「お前さんたち、腹の中にいるんだよ。」
「……腹?」
「そう。あの子の腹の中。そしてここは常世だよ。」
アケルとサツマは顔を見合わせる。エチゼンの目が静かに細くなった。
「やはりそうか。」
「この子はねえ、"迷い喰い"っていうんだよ。」
カグーは静かに、しかしどこか懐かしむように話し始めた。
「常世をさまよう迷い人を見つけると、ぱくりと飲み込んでしまう。悪意はないんだけどねえ。ただ、寂しいだけだから。」
「寂しいだけで飲み込むの?」
サツマが低く呟く。
「そうだよ。だからこの子の腹の中は、飲み込んだものでいっぱいでねえ。」
カグーがゆっくりと周囲を見渡す。その視線の先、暗闇の奥にぼんやりと浮かぶものがあった。
木だった。石だった。家のようなものもあった。飲み込まれたまま、常世の暗闇に沈んでいるものたちが、そこかしこに漂っていた。
「……ここって、迷い喰いが飲み込んだものが全部ある場所ってこと?」
エチゼンが静かに問う。
「そういうこと。時間も空間も、現世とは違う。飲み込まれたものはここでゆっくりと溶けて、迷い喰いの一部になっていく。」
「溶ける……。」
アケルが思わず自分の手を見た。
「俺たちも溶けるの?」
「怖いかい?」
カグーがアケルを見て、ふわりと微笑む。
「溶けるのはやだ!」
「まあ、時間はあるよ。すぐには溶けない。」
「すぐじゃないってことは、いつかは溶けるってことじゃん!」
アケルが身を乗り出す。カグーはおかしそうに目を細めた。
「なあカグー、」
「なんだい。」
「この迷い喰いって、外から叩いたら痛いの?」
場の空気が止まった。
エチゼンがアケルを見る。サツマがアケルを見る。カグーがアケルを見る。
「……なんでそんなこと聞くんだい。」
「いや、でかかったじゃん。あんなにでかかったら、腹の中もめちゃくちゃ広いわけで。だったら外から叩いても気づかないのかなって。逆に内側から叩いたら気づくのかなって。」
カグーはしばらくアケルを眺めてから、ゆっくりと答えた。
「この子はねえ、外の刺激にはほとんど気づかない。でも内側は敏感でねえ。ちょっと触れただけで、びくりとするよ。」
その瞬間、エチゼンの目が光った。
「……アケル。」
「え、なに先生。」
「よくやった。」
アケルはきょとんとした顔をする。
「え?俺なんかした?」
エチゼンはすでにカグーの方を向いていた。
「カグー。内側から強い刺激を与えれば、この化け物は反射的に口を開けるか?」
カグーはしばらく考えるように目を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
「……開けるだろうねえ。びっくりしたら、なんでも口を開けるものだよ。」
エチゼンは立ち上がり、静かに道術の印を結び始めた。
「カグー、一つ聞く。」
「なんだい。」
「お前はなぜここにいる。飲み込まれたのか。」
カグーはしばらく黙っていた。それから、ふわりと笑った。
「ここが居心地いいんだよ。静かだからねえ。」
それ以上は聞かなかった。エチゼンには、それで十分だった。
「アケル、サツマ、私の後ろにつけ。口が開いた瞬間、迷わず走れ。」
「道術で内側を刺激するんだ。」
サツマが素早く体勢を整える。アケルも慌てて立ち上がった。
「カグーは?」
アケルがカグーを振り返る。
「私はここにいるよ。」
「でも、ここにいたら——。」
「大丈夫だよ。」
カグーは穏やかに首を振った。青白い光がゆらりと揺れる。
「またおいで。迷い人。」
アケルは何か言いかけて、口を閉じた。
「……絶対また来る。」
「楽しみにしてるよ。」
エチゼンが大きく息を吸う。
「ハガネの道——鉄轟っ‼︎」
轟音が腹の中に響き渡った。音と共に巨大な黒鉄の刃が突如隆起し、天井に突き刺さった。
足元が揺れる。壁が収縮する。暗闇の奥から、地鳴りのような唸り声が押し寄せてきた。
「走れっ!」
3人は暗闇の中を全力で駆けた。足元が波打ち、天井が迫ってくる。アケルの足がもつれる。
「アケル!」
サツマの太い腕がアケルの腕を掴み、そのまま引きずるように走った。
前方に光が見えた。
眩しい、真紅の光だった。
「あそこだ!」
光に向かって3人が飛び込んだ瞬間——
ぱっと、視界が開けた。
真紅の空の下、山道に3人は叩きつけられるように転がり出た。
「……出た。」
アケルは仰向けに倒れたまま、荒い息をついた。
「出ましたね、エチゼン様。」
サツマも膝をついたまま、静かに息を整える。
エチゼンだけが、すでに立ち上がっていた。遠ざかっていく巨大な化け物の背中を、静かに見送りながら。
「……礼を言うべきか、あの者に。」
アケルは空を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「カグー、大丈夫かな。」
誰も答えなかった。
「……よし、戻るぞ。」
エチゼンが踵を返す。
「あの消えた2人はどうすんの。」
アケルが立ち上がりながら問う。
「今は戻ることが先決だ。生きていれば必ず——」
エチゼンが言葉を止めた。
「……先生?」
サツマも足を止める。
エチゼンの視線の先、山道に何かが落ちていた。
近づく。それは、布きれだった。いや——
「これは……。」
サツマが低く呟く。
見覚えのある色だった。見覚えのある柄だった。
消えた仲間の一人が身につけていた、上着の切れ端だった。
「……ここに来たのか。それとも、引きずられたのか。」
エチゼンが切れ端を拾い上げ、その先を見る。山道は続いていた。だがその先の空気が、どこかおかしい。
風がない。鳥も鳴かない。虫の声すらしない。
アケルの首筋がざわりと粟立った。
「先生。」
アケルの声が、わずかに震えていた。
「この山、まだ俺たちを離す気ないよな。」
エチゼンは答えなかった。
ただ静かに切れ端を懐にしまい、山道の奥へと歩き始めた。
その背中を、アケルとサツマが無言で追う。
真紅の空は、まだ晴れそうになかった。




