第二十話 ゼニス
2人の間に、空気が張り詰めた。
ツェペリが一歩踏み出した。
「ツキの国の術師、ツェペリだ。」
静かな声だった。シリウスに向けた言葉だったが、その場にいる全員に届いた。
「シリウス——お前とは、まだ決着がついていない。」
義手の紋様が、青白く輝いている。雷の光が、指先から肩まで走っていた。鉄の紋様が、金色に変わっていく。右腕全体が、道術を纏った武器と化していた。義手がわずかに唸る。その音だけで、空気が震えた。
「雷の道——」
シリウスが構えた。
呪印が輝く。地面に亀裂が走る。龍脈の力が、再び流れ込んでくる。
2人の間に、見えない何かが満ちていた。
アケルは、その場で立っていた。
動けなかった。
——俺には、何もできない。
2人の間に割り込む力もない。道術も使えない。武器もない。体術で入れる隙もない。ただ、立っているだけだった。
ミサゴが木に背をもたせて、息を整えていた。傷だらけだった。腹を押さえ、膝が笑っていた。それでも立っていた。
その姿を見るたびに、アケルの胸の奥で何かが燃えた。
——俺が、先生を守れなかった。
走ることしかできなかった。石を投げることしかできなかった。道術も使えない、力もない。先生が死にかけていた間、自分は走っていただけだった。
悔しかった。
これほど悔しいと思ったのは、初めてだった。
「待ちなよ、シリウス。」
声がした。
空から、だった。
全員が空を見上げた。
空が、暗くなっていた。
雲ではなかった。何かが、上空に広がっていた。巨大な影。羽のようなものが見えた。だが羽ではなかった。もっと歪な、現世の生き物とは違う形をした、黒い何かが羽ばたいていた。
翼が広がるたびに、空気が揺れた。地面が震えた。鳥たちが一斉に逃げ飛んだ。木々がざわめき、葉が舞い散った。
迷い喰いに似ていた。
だが——迷い喰いとは、まるで違った。
迷い喰いには、寂しさがあった。あの山で感じた、飲み込みながらも温かい気配。悪意のない、ただ孤独な存在。
これは違う。
悪意があった。意志があった。ただ禍々しかった。見ているだけで、胃の底が冷えていく。存在してはいけないものが、そこにいる。本能が、そう叫んでいた。
「……なんだ、あれ。」
アケルが思わず呟く。
ライラが、その化け物を見ていた。
その目が、わずかに細くなった。
——知っている。
ライラの胸の奥で、何かが冷えた。あの化け物を、ライラは見たことがあった。ゼニスが使う、常世から呼び出した使役獣。イヅルの国では見ることのない存在。
ツキの国でも、それは恐れられていた。
化け物が降下してくる。その背に、人が乗っていた。
一人だった。
着地した化け物の背から、男がゆっくりと降りた。
長身だった。黒を基調とした外套を纏い、銀色の髪が肩まで流れていた。顔は整っていた。だが——その目が、冷たかった。感情がない、というより、感情そのものに興味がないような目だった。まるで、目の前のものすべてを、価値のある情報とそうでないものに仕分けしているような。
男は周囲を一瞥した。
倒れた兵士たちを見た。亀裂の入った地面を見た。ミサゴを見た。ツェペリを見た。アケルたちを見た。
そして——シリウスを見た。
「迎えに来た。」
「リゲル。」
シリウスが、低く言った。
「タイミングが悪い。」
「そうか。」
リゲルは、表情を変えなかった。
「だが、今日はここまでだ。組織の判断だ。」
「……。」
シリウスは、しばらくツェペリを見ていた。
ツェペリは動かなかった。義手の光が、静かに揺れている。その目は、真っ直ぐにシリウスを見ていた。揺るがない目だった。片腕を奪われ、それでも立っている男の目だった。
「ツェペリ。」
シリウスが、静かに言った。
「その腕、まだ痛むか。」
「……関係ない。」
「そうか。」
シリウスは、ツェペリの義手を眺めた。
「雷と鉄か。俺が奪った腕より、いいものになったじゃないか。」
「お前のおかげだ。」
ツェペリが、静かに言う。
「俺に腕を奪われたことが、か。」
「ああ。あの日からずっと、お前を追ってきた。その時間が、俺を強くした。」
シリウスは、しばらくツェペリを見ていた。
「……面白い男だ。」
シリウスがリゲルの方へ歩き始めた。
ツェペリが、一歩踏み込んだ。
「逃げるな。」
シリウスが足を止めた。
「今日は引く。組織の判断だ。」
「俺は、今日決着をつけるつもりで来た。」
ツェペリの義手が、低く唸った。雷の紋様が、また青白く光り始める。
「ツェペリ。」
リゲルが、静かに言った。
「今日ではない。」
ツェペリは、リゲルを見た。それからシリウスを見た。
2対1。しかもシリウスはまだ余力がある。ミサゴは傷ついている。アケルたちは術師としての力がない。
状況は、明らかだった。
ツェペリの義手の光が、ゆっくりと消えていった。
「……次は逃がさない。」
低く、静かな声だった。
「ああ。」
シリウスが振り返らずに言った。
「次を楽しみにしている。」
それから——ミサゴを見た。
木に背をもたせたまま、ミサゴは立っていた。息が上がっていた。体中に、戦闘の痕が残っていた。腹を押さえ、膝が震えていた。だが——目だけは、まだ鋭かった。
「霧島ミサゴ。」
シリウスが言った。
「覚えた。」
ミサゴは答えなかった。
「五位術師があそこまでやるとは思わなかった。霧陣の中から渦潮——あれは効いた。」
シリウスが、耳元の傷に触れた。
「次に会うときが楽しみだ。」
「……次はない。」
ミサゴが静かに言う。
シリウスが笑った。
「そうか。ならば——その言葉が嘘にならないよう、強くなっていてくれ。」
シリウスがリゲルの方へ歩いていく。その足取りは、まだ余裕があった。だが——耳元の傷が、夕暮れの光の中でかすかに光っていた。ミサゴがつけた、唯一の傷。
リゲルはシリウスを一瞥して、それからアケルを見た。
アケルは、その目と合った。
何も感じなかった。
いや——何も感じさせない目だった。値踏みするでも、脅すでもない。ただ、情報として見て、処理して、終わった。そういう目だった。品定めされたというより——存在を確認されて、すぐに価値なしと判断された、そういう感覚。
それが、また悔しかった。
リゲルはすぐに視線を外した。
ライラを見た。
一瞬だった。
だがライラの体が、わずかに硬直した。
リゲルの目が、ライラの上で止まった。
止まった——と思った次の瞬間、もう外れていた。
ライラは、息を止めていた。
——気づかれたか。
わからなかった。あの目は、何を考えているのかわからない。見られたのか、見られていないのか。判断がつかなかった。
ライラは、表情を変えなかった。
化け物が、低く唸った。リゲルが背に乗る。シリウスもそれに続いた。
乗り込む前に、シリウスがもう一度だけ振り返った。
戦場を見渡すように。
「いい夜だった。」
そう言って——笑った。
化け物が、空へ舞い上がった。
翼が広がるたびに、空気が震えた。地面が揺れた。黒い影が、夕暮れの空に溶けていく。羽ばたく音が、遠ざかっていく。やがて——何も、見えなくなった。
静寂が、戻った。
誰も、しばらく動かなかった。
アケルは、空を見ていた。
もうそこには何もなかった。
先生が傷だらけになった。ツェペリが来てくれた。シリウスは去った。全部終わった。
なのに——胸の中の何かが、消えなかった。
俺は、何をした。
走った。石を投げた。ツキの国の兵士に頭を下げた。それだけだった。
先生が死にかけている間、自分は走っていただけだった。道術も使えない。力もない。タオが目覚めたと言われても、あの場では何の役にも立たなかった。
「……っ、」
アケルは、拳を握った。
手のひらの火傷が、じくりと痛んだ。
太陽の形の痕。稀なタオの証。
——これがあっても、俺は何もできなかった。
「アケル。」
ミサゴの声がした。
顔を上げると、ミサゴが近づいてきた。
傷だらけだった。それでも、歩いてきた。
「先生——!」
「うるさい。大声を出すな。」
ミサゴがアケルの前に立った。
それから、アケルの頭に手を置いた。
乱暴に、ぐしゃりと。
「お前たちのおかげで、俺は死ななかった。それだけだ。」
「でも俺、何もできなかった。走っただけで——道術も使えなくて——先生が死にかけてるのに——」
「走ったんだろ。」
ミサゴが静かに言う。
「……。」
「走って、ツキの国まで行って、ツェペリを連れてきた。それで俺は死ななかった。何もできなかった、じゃない。」
「でも——」
「アケル。」
ミサゴの手が、アケルの頭をもう一度、ぐしゃりと押さえた。
「悔しいか。」
「……悔しい。」
「なら、それでいい。」
「よくない。先生が——」
「悔しいと思えるやつが、強くなる。今日の悔しさを忘れるな。それが、お前の燃料になる。」
アケルは、ミサゴを見た。
傷だらけの顔。それでも、口の端が上がっていた。
「……先生は、悔しくないんですか。」
「悔しいに決まってるだろ。シリウスに傷一つしかつけられなかった。」
「じゃあ先生も——」
「俺も燃料にする。」
ミサゴが、静かに言った。
「お前も俺も、まだ途中だ。それでいい。」
アケルは、しばらく黙っていた。
喉の奥が、熱かった。
「……泣くな。」
「泣いてない。」
「目が赤い。」
「目にゴミが入った。」
ミサゴが、声を出して笑った。
ソウジが、静かに言った。
「……先生。ありがとうございました。」
ミサゴは、ソウジを見た。
「天倉が礼を言うのは珍しいな。」
「状況が状況ですので。」
「そうだな。」
ライラは、2人から少し離れて立っていた。
空を見ていた。シリウスとリゲルが消えていった方角を。
リゲルの目が、頭から離れなかった。
あの一瞬。視線が止まった、あの瞬間。
——報告しなければならない。
ゼニスがここに現れた。シリウスが捕虜だった。リゲルが迎えに来た。稀なタオを持つ生徒がいる。
全部、報告しなければならない情報だった。
でも——。
ライラは、アケルを見た。
傷だらけのミサゴと、目を赤くしているアケルと、珍しく礼を言うソウジ。
胸の奥で、何かがざわついた。
——考えるな。
ライラは目を伏せた。
ツェペリが、ゆっくりとミサゴに近づいた。
「よく持ちこたえた。」
「お世辞はいい。」
「お世辞じゃない。五位術師がシリウスを単独であそこまで抑えた。お世辞で言える話じゃない。」
ミサゴはしばらく黙っていた。
「……あんたも、よく来てくれた。」
「アケルたちが来なければ、来られなかった。」
ツェペリが、アケルを見た。
金色の髪。品のある顔。義手の紋様は、もう光っていない。
「お前が来てくれなければ、間に合わなかった。」
アケルは、ツェペリを見た。
「……俺は、走っただけです。」
「それで十分だ。」
ツェペリが、小さく笑った。
「また会えますか。」
アケルが聞く。
ツェペリは少し考えた。
「ゼニスがいる限り——また会うことになるだろう。」
「それって、いいことですか。」
「どうだろうな。」
ツェペリが空を見上げた。
「少なくとも——お前たちとまた戦うことになるなら、悪くない。」
「……はい。」
ミサゴが、踵を返した。
「帰るぞ。」
「ツェペリ。世話になった。」
「また会おう。」
ツェペリが静かに言う。
一行は歩き始めた。
アケルは歩きながら、左の手のひらを見た。
太陽の形の火傷。
まだ、じんわりと熱を持っていた。
今日、自分は走っただけだった。道術も使えなかった。先生が死にかけていた。何もできなかった。
でも——先生は死ななかった。
それは、自分が走ったからだ。
走ることしかできなかった。でも、走ったから先生は生きている。
——それで、いいのか。
よくない、と思う自分がいた。
それでいい、と思う自分もいた。
両方、本当のことだった。
アケルは、ミサゴの背中を見た。
傷だらけで、それでも歩いていた。
「……強くなる。」
アケルが呟く。
さっきとは違った。
誰かのために、とか、悔しいから、とか、そういうことじゃなかった。
ただ——強くなりたかった。
走るだけじゃなく、戦えるようになりたかった。先生の隣に、立てるようになりたかった。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
アケルは前を向いた。
夕暮れの道を、一行は歩いていった。




