第十九話 霧島の意地
シリウスは、水壁を眺めた。
それから、右手を軽く振った。
水壁が、音もなく霧散した。
ミサゴの目が、鋭くなった。
「……道術を使わずに消した。」
「道術など使う必要がない。」
シリウスが静かに言う。
「龍脈がある。それで十分だ。」
その瞬間、シリウスの体に変化が起きた。
首筋から、黒い線が走った。
一本、二本——赤黒い呪印が、皮膚の下から浮かび上がってくる。まるで、体の内側から何かが滲み出るように。じわじわと、首から肩へ、肩から腕へと広がっていく。
空気が、変わった。
重くなった。圧迫されるような感覚。周囲の木々が、根元からざわめいた。地面が微かに揺れた。足元の草が、枯れていく。龍脈の力が吸い取られているのだと、ミサゴには直感的にわかった。
「——龍脈の力か。」
ミサゴが低く呟く。
「そうだ。」
シリウスが一歩踏み出した。
「さて——五位術師がどこまでやれるか、試させてもらおう。」
「水の道——流刃っ!」
ミサゴが腕を一閃した。
空気が震えた。周囲の水分が引き寄せられ、鋭い刃の形を成す。一枚、二枚、三枚——幾重にも重なった水の刃が、鈍い光を放ちながらシリウスに向かって飛ぶ。速かった。音よりも早く、視線よりも鋭く。
シリウスは動かなかった。
刃が、シリウスの体に当たった。
当たった——のに。
刃が、弾かれた。呪印が浮かぶ皮膚の表面で、水の刃が砕け散った。傷一つ、残らなかった。
「……っ!」
ミサゴの目が、驚きで見開かれた。
シリウスが笑った。
「悪くない。だが——」
「水の道——渦潮っ!」
ミサゴは即座に次の手を打った。渦を巻いた水の槍が、シリウスの眼を狙って奔る。
シリウスが首をひねった。槍が頬を掠める。
「——っ。」
シリウスの目が、わずかに細くなった。頬に、細い傷が走った。
「眼を狙うか。賢い。」
「褒め言葉として受け取っておく。」
ミサゴが静かに言う。
「風の道——疾風っ!」
ミサゴの足元で風が爆ぜた。旋風がミサゴの体を包み、弾丸のように横へ吹き飛ばす。シリウスの拳が、ミサゴのいた場所を抉った。地面が陥没した。石畳が砕け、土が舞い上がった。
ミサゴは着地と同時に、地面を蹴った。
「水の道——水閃っ!」
着地の衝撃を踏み台にして、体が回転する。その遠心力に乗せて、鋭い水の刃を生み出した。シリウスの背後の空気が裂け、刃が無防備な背中めがけて音もなく滑り込む。
シリウスが振り返りもせずに右腕を振った。水の刃が、砕け散った。
「後ろか。」
「どこを狙おうが俺の自由だ。」
ミサゴが言う。息が上がり始めていた。
攻撃は通じない。呪印が纏う皮膚は、通常の道術では傷がつかない。眼のような、呪印のない部分を狙うしかない。だが——そこを狙えば、当然相手も警戒する。
——ならば、動き続けるしかない。
「水の道——水槍乱舞っ!」
四方八方から、無数の水の槍がシリウスに降り注いだ。一本一本は細いが、その数が圧倒的だった。密度を上げた攻撃が、シリウスを包囲する。
シリウスが腕を広げた。
呪印が輝いた。
水の槍が、すべて弾き飛ばされた。
シリウスの動きが、変わった。
追うのをやめた。
その場に立ち、ミサゴを眺めた。
「……なるほど。」
シリウスが、静かに呟いた。
「消耗させるつもりか。俺に攻撃を通すのは難しいと判断して、動かし続けることで時間を稼ぐ。誰かに助けを求めに行かせたな。」
「水と風を使い分けて、距離を保ちながら弱点を狙う。クレバーな戦い方だ。——五位の中でも、上澄みだな。」
ミサゴは答えなかった。
「賢い選択だ。だが——時間は与えない。」
シリウスが、ゆっくりと深く息を吸った。
地面が、揺れた。今度は、さっきより大きく。
足元の地面に、亀裂が走った。亀裂の中から、黒い光が滲み出てくる。龍脈の力が、さらに流れ込んでいく。呪印が、胸まで広がった。腹へ。背へ。
シリウスの目が、変わった。
静かだった目に、初めて——熱が宿った。戦闘狂の熱が、その奥から滲み出てくる。
「本気を出す必要があるとは思わなかった。」
「霧島ミサゴ。」
シリウスが、静かに言った。
「死ぬな。」
「水の道——」
シリウスが動いた。さっきまでとは、比べ物にならない速度だった。
ミサゴが「疾風っ!」と詠唱しかけた。
間に合わなかった。
シリウスの拳が、ミサゴの腹に入った。
「——がっ……!」
ミサゴが吹き飛んだ。地面を転がり、木に叩きつけられた。
「……っ、」
立ち上がろうとする。足が震えた。腹の奥から、じんわりと痛みが広がってくる。
「一撃で終わらせないのは——お前が強かったからだ。」
シリウスが歩いてくる。ゆっくりと。焦りのない足取りで。
呪印が全身に広がり、その体が、わずかに——異形になり始めていた。背が伸びた気がした。腕が、少し太くなった。目の色が、静かな黒から、赤黒く染まり始めていた。
ミサゴは木に手をついて、立ち上がった。
「……まだ、立つか。」
シリウスが、初めて驚いたような声を出した。
「当然だ。」
ミサゴが印を結ぶ。手が震えていた。それでも、結んだ。
「俺の後ろには——生徒がいる。」
「……。」
「倒れるわけには、いかない。」
ミサゴは息を整えた。体が重い。腹の痛みが、呼吸のたびに響く。だが——頭は冷えていた。
呪印が通常の道術を弾く。眼は今、警戒されている。
——ならば。
ミサゴの目が、細くなった。
「水の道——水霧陣っ!」
ミサゴが両腕を広げた。
空気中の水分が一気に凝縮し、細かい霧が周囲に広がっていく。視界が、白く霞んでいく。霧はシリウスを包み、ミサゴを包み、あたり一面を覆った。
「霧で視界を塞ぐか。」
シリウスの声が、霧の中から聞こえる。
「だが——」
「風の道——疾風っ!」
ミサゴが霧の中を跳んだ。音もなく、影のように動く。風を纏い、霧の中を縫うように移動しながら——
「水の道——渦潮っ!」
霧の中から、水の槍が奔った。シリウスの眼を狙って、真っ直ぐに。
シリウスが頭を傾けた。だが——完全にはかわしきれなかった。槍がシリウスの耳元を掠め、髪を数本、切り飛ばした。
「——っ。」
シリウスが足を止めた。
「霧の中から渦潮か。」
その声に、初めて——驚きが混じっていた。
「面白い。」
シリウスが深く息を吸った。足元の地面が震えた。龍脈の力が、さらに流れ込んでくる。呪印が輝く。霧が、シリウスを中心に吹き飛んだ。龍脈の力が放出され、周囲の空気が爆ぜた。
視界が、戻った。
ミサゴは霧の外に出ていた。息が上がっていた。体の限界が、近づいていた。
だが——シリウスの耳元に、細い傷が走っていた。
ミサゴはそれを見た。
「……やれるもんだな。」
独り言のように、呟いた。
「死に際まで、賢いな。」
シリウスが構えた。
呪印が、さらに広がる。異形化が、進む。
「では——終わりにしよう。」
シリウスが踏み込んだ。
その瞬間——。
「待て。」
声がした。
低く、静かな声。だが、その声には確かな重みがあった。
シリウスの動きが、止まった。
ゆっくりと振り返る。
道の向こうから、人影が来ていた。
夕暮れの光の中、金色の髪が輝いていた。品のある顔立ち。足取りは静かで、急いでいる様子もない。だが——その目は、真っ直ぐにシリウスだけを見ていた。
右腕には、金属の義手。その表面に、雷と鉄の紋様が走っていた。
シリウスの目が、細くなった。
「……ツェペリ。」
ツェペリは立ち止まった。シリウスを見た。
その目に、怒りはなかった。憎しみもなかった。
ただ——静かな、決意があった。
「シリウス。」
ツェペリの義手が、低く唸った。雷の紋様が、青白く光り始めた。鉄の紋様が、金色に輝く。
「今度は——逃がさない。」
2人の間に、重い沈黙が落ちた。
シリウスは、ツェペリを見た。
それから——笑った。
「いい顔をしている。」
シリウスの呪印が、また広がった。
「その義手、俺が奪った腕の代わりか。」
「そうだ。」
「悪くない。」
シリウスが構えた。
「では——続きをしよう。」
ミサゴは、2人を見ていた。
ツェペリが来た。アケルたちが、連れてきた。
ミサゴは、木に背をもたせたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……よくやった。」
誰にともなく、呟いた。
夕暮れの道に、2つの気配が満ちた。




