第十八話 凶星のシリウス
砂埃が、晴れていく。
その姿が、はっきりと見えた。
大きかった。背が高く、がっしりとした体格。拘束に使われていた鎖の切れ端が、手首にわずかに残っている。黒い外套を纏い、髪は無造作に後ろへ流れている。目が——静かだった。怒りでも、狂気でもない。ただ、深く、静かな目。
男は、ゆっくりと周囲を見渡した。
空を見た。木々を見た。遠くの山を見た。
それから、小さく笑った。
「……久しぶりだな。外の空気は。」
低い声が、静かに言った。
その瞬間だった。
「……シリウスだ。」
兵の一人が、震える声で呟いた。
その名前が、空気を変えた。
一人が後退した。足がもつれた。別の一人が武器を取り落とした。顔が青ざめていた。隊列が、音もなく乱れていく。
「シリウス……本当にシリウスか。」
「凶星だ……凶星のシリウスが出たぞ。」
「イヅルの五位術師を複数……小国を単独で……。」
「隣国の英雄の腕を……。」
兵たちの間に、波紋のように恐怖が広がっていく。歴戦の兵士たちが、その名前だけで動けなくなっていた。
アケルは、その名前を知らなかった。
だが——周囲の大人たちの反応が、何よりも雄弁に語っていた。
「……先生、あいつって。」
アケルが小声で言う。
ミサゴは答えなかった。
ただ、静かに前へ一歩踏み出した。
「全員下がれ。」
低い声だった。いつもの気だるさが、完全に消えていた。
「先生——。」
「下がれ、と言った。」
ミサゴは振り返らなかった。その背中が、アケルたちとシリウスの間に立ちはだかる。
シリウスがミサゴを見た。
「術師か。」
「そうだ。」
「名は。」
「霧島ミサゴ。五位術師だ。」
シリウスの目が、わずかに細くなった。
「五位。……なるほど。」
シリウスが、ゆっくりと首を回した。関節が鳴る音がした。それから、鎖の切れ端を手首から引き千切った。金属が地面に落ちる音が、やけに大きく響いた。
「久しぶりに、いい相手がいる。」
シリウスが、口の端を上げた。
「水の道——水壁っ!」
ミサゴが詠唱した。
シリウスとアケルたちの間に、巨大な水の壁が立ち上がる。
「アケル、ソウジ、ライラ——走れ。」
ミサゴが叫ぶ。
「でも先生——!」
「境界線まで走れ。隣国の兵に助けを求めろ。シリウスの名前を出せ。それだけでいい。」
「先生一人じゃ——!」
「走れっ!」
ミサゴの声が、初めて怒声になった。
アケルは、一瞬だけミサゴの背中を見た。
それから——走った。
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走った。
ひたすら、走った。
山道を、草を掻き分けて、足元の石を踏みながら。
後ろで、轟音がした。
一度ではなかった。二度、三度——間隔を置かずに、連続して響いてくる。地面が揺れた。足元が不安定になった。木々がざわめき、鳥が一斉に飛び立った。
「止まるな!」
ソウジが叫ぶ。
「わかってる!」
アケルが答える。
また、轟音がした。今度は大きかった。衝撃波が背中を叩いた。アケルの体が、一瞬だけ前に押し出された。
振り返りたかった。
でも——走った。
「先生、大丈夫かな。」
走りながら、アケルが言う。
「今は考えるな。」
ソウジが息を切らしながら言う。
「でも——」
そのとき、後ろで閃光が走った。
山の木々の間から、青白い光が弾けた。次の瞬間、爆音が耳を叩く。地面が大きく揺れ、アケルの足がもつれた。
「っ——!」
「アケル、立て!」
ソウジの手が、アケルの腕を引いた。
2人は走り続けた。
「先生は俺たちを走らせた。ならば走ることが、今の俺たちにできる唯一のことだ。」
アケルは黙った。
また轟音。また閃光。今度は光が赤黒かった。龍脈の力だ、とアケルには直感的にわかった。山全体が、揺れていた。
木が、一本、倒れる音がした。
ミサゴの詠唱が、かすかに聞こえた気がした。遠く、遠く——それでも確かに、まだ聞こえた。
まだ戦ってる。
アケルは歯を食いしばった。
ライラは、2人の少し後ろを走っていた。無言だった。息は上がっていない。足取りが、2人より安定していた。走り慣れているのだと、アケルは漠然と思った。
また、後ろで何かが爆ぜた。
今度は、何も聞こえなかった。
詠唱も、音も——何も。
「……先生。」
アケルの声が、震えた。
「走れ。」
ソウジが、強く言った。
「走れ、アケル。」
アケルは走った。
山道を抜けると、視界が開けた。
遠くに、境界線が見えた。石造りの検問所と、その両脇に立つ兵士の影。隣国の旗が、夕暮れの風に揺れていた。
「あそこだ!」
アケルが叫んだ。
3人は坂を駆け下りた。
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「止まれ!」
境界線の手前で、隣国の兵士が槍を構えた。
「イヅルの者か。ここから先は——」
「シリウスが出た!」
アケルが叫んだ。
兵士の動きが、止まった。
「……なんだと。」
「シリウスだ!後ろで今、俺たちの先生と戦ってる!助けを呼びに来た!」
兵士が、アケルを見た。それから、後ろの山道を見た。遠くで、何かが爆ぜる音がした。煙が上がっていた。
兵士の顔が、青ざめた。
「シリウス……本当にシリウスか。」
「本当だ!早く——!」
「待て。」
別の兵士が前に出た。年嵩の、落ち着いた兵士だった。
「お前たち、何者だ。イヅルの術師か。」
「鬼燈院の生徒です。引率の先生がシリウスと戦ってます。このままじゃ——」
「生徒だと?」
兵士の目が細くなった。
「子どもをシリウスの護衛任務に使ったのか。イヅルの軍は——」
「そんなことより早く!先生が死んじゃう!」
アケルの声が、震えていた。
兵士はしばらくアケルを見ていた。
それから、後ろを振り返った。
「ツェペリ様を呼べ。」
低い声で言った。
「シリウスだ。ツェペリ様に知らせろ。」
周囲の兵士たちが、一斉に動いた。
アケルは息を整えながら、後ろの山道を見た。
煙が、上がっていた。
「先生……。」
ソウジが、アケルの隣に立った。
「来る。必ず来る。」
静かな声だった。
アケルは頷いた。
ライラは——2人から少し離れて、境界線の向こうを見ていた。
その目が、何かを考えるように細くなっていた。
誰も、それに気づかなかった。




