第十七話 一波乱
道は、山を抜けていた。
荷車がゆっくりと進む。石畳が途切れ、踏み固められた土道になり、両脇に木々が迫ってくる。空は高く、雲は少なかった。穏やかな、何でもない道だった。
荷車の後ろを、アケルとソウジとライラが歩いていた。その前後を、数名の兵が固めている。先頭では、案内役の男が荷車を引いていた。
静かだった。
足音と、荷車の軋む音と、木々を揺らす風の音だけが続いていた。
アケルはちらりと箱を見た。
封印された箱。縄と札で固められた、頑丈な木箱。揺れるたびに、荷台の上でわずかに動く。
何が入っているんだろう。
そう思いながら、アケルは前を向いた。
「……退屈だな。」
アケルが小声で呟く。
隣を歩くソウジが、ちらりとアケルを見た。
「任務中だ。私語は慎め。」
「声小さくしてるじゃん。」
「……。」
ソウジは前を向いた。
しばらく沈黙が続いた。
「なあ、ソウジ。」
「なんだ。」
「まだ怒ってる?俺のこと。」
ソウジの足が、わずかに止まりかけた。でも止まらなかった。
「怒っていない。」
「本当に?」
「……怒っていない。ただ。」
ソウジが少し間を置いた。
「お前の言ったことは、正しかった。」
アケルが目を丸くした。
「え。」
「俺は挑発に乗った。貴族だということを突かれて、冷静さを失った。それは事実だ。」
ソウジは前を向いたまま、淡々と続ける。
「貴族であることを、俺はどこかで——引け目に感じていた。術師になる貴族は少ない。異端だと思われている。だから、それを突かれると、必要以上に反応してしまう。」
「……そんなこと、思ってたのか。」
「思っていた。今も、完全には消えていない。」
アケルはしばらく黙っていた。
「俺も、言いすぎた。あの場で言うことじゃなかった。」
「いや。」
ソウジが静かに言う。
「言いたいことを言える人間の方が、俺は信用できる。建前だけで動く人間よりも。」
アケルは少し面食らった。
「……それって、褒めてる?」
「褒めている。」
今度は即答だった。アケルは思わず笑った。
「素直だな、急に。」
「俺はいつも素直だ。」
「全然そう見えないけど。」
ソウジが、ほんの少しだけ——口の端を上げた。
アケルはそれを見て、また笑った。
「なんか、ソウジって。」
「なんだ。」
「思ってたより、普通だな。」
「お前の『普通』の基準が知れないが——まあ、そうかもしれない。」
それきり、2人は黙った。でも、さっきまでとは違う沈黙だった。
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道の途中で、一度休憩が入った。
木陰に荷車を止め、兵たちが水を飲んだり、装備を確認したりしている。
アケルは木にもたれて、空を見上げた。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
案内役の男だった。
荷車から少し離れた茂みの脇で、男は何かを手に持っていた。小さな、紙のようなもの。それをじっと見て、素早く懐にしまった。
一瞬だった。
アケルは、それを見た。
でも、すぐに「気のせいかもしれない」と思った。旅の途中でメモや地図を確認することくらい、普通にあることだ。
アケルは視線を空に戻した。
その様子を、ライラが見ていた。
ライラの目が、案内役の男を静かに追った。
スパイとして培われた感覚が、何かを告げていた。
——あれは、ただのメモじゃない。
でも、ライラは何も言わなかった。
言えば、自分が怪しまれる。隣国出身のスパイが、仲間の内通者を庇っていると思われる。それだけは、避けなければならなかった。
ライラは視線を落とした。
「休憩終わり。行くぞ。」
ミサゴの声がした。
一行は再び歩き始めた。
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目的地が、もう遠くなかった。
山道を抜けると、視界が開けた。遠くに、街の輪郭が見え始めていた。その先に、イヅルの国と隣国を分かつ軍事境界線がある。
「あと少しだな。」
アケルが言う。
「そうだな。あそこまで届けてしまえば、任務完了だ。」
ソウジが答える。
2人の間の空気は、朝よりずっと軽くなっていた。
そのときだった。
「——っ!」
先頭の兵が、声を上げた。
全員が足を止める。
荷車の横にいた兵が、崩れ落ちた。意識を失っていた。
「なっ——。」
誰かが駆け寄ろうとした。
その瞬間、箱から音がした。
低い、重い音だった。
一度。
全員の動きが止まった。
二度。
三度。
音が、規則的に続く。叩いているのではない。もっと意図的な、計算された音だった。まるで、内側から何かを確かめるように。
「封印が——!」
兵の一人が叫んだ。
見ると、箱の表面の札が、一枚、ぱらりと剥がれ落ちた。
紙がひらひらと舞い、地面に落ちる。
次の瞬間、空気が変わった。
重かった。何かが、圧のように広がってくる。動物的な本能が、危険を告げていた。
「——なんだ、これ。」
アケルが思わず呟く。
また一枚、札が剥がれた。
今度は自然に落ちたのではなかった。内側から押し出されるように、ぐっと浮き上がって、落ちた。
鎖が、ぴんと張った。
木箱の表面に、細かいひびが入り始めた。一本、二本、三本。ひびは広がり、木材がぎしぎしと悲鳴を上げる。
「全員、構えろ!」
ミサゴの声が飛んだ。いつもの眠そうな声ではなかった。
アケルは反射的に構えた。ソウジも、道術の印を結び始めた。
ライラは——箱から目が離せなかった。
その目が、一瞬だけ鋭くなった。
また一枚、札が剥がれる。
もう一枚。
残りの札が、次々と剥がれ落ちていく。まるで何者かが、一枚一枚、丁寧に引き剥がしているように。
鎖が、軋んだ。
ぎり、ぎり、と、鎖が軋んでいく音がした。
「散れ!箱から離れろ!」
ミサゴが叫ぶ。
アケルは跳んだ。ソウジも後退する。
一瞬の静寂があった。
——破裂するような音がした。
箱が、内側から弾け飛んだ。
木片が四方に散る。鎖が空を舞う。札の残骸が風に飛ぶ。
砂埃が、視界を覆った。
咳き込みながら、アケルは目を凝らした。
砂埃の中に、影があった。
人の形をした、大きな影。
ゆっくりと、立ち上がっていた。
「……久しぶりだな。外の空気は。」
低い声が、静かに言った。
砂埃が晴れていく。
その姿が、はっきりと見えた。
大きかった。背が高く、がっしりとした体格。拘束に使われていたであろう鎖の切れ端が、手首にわずかに残っている。目が——静かだった。怒りでも、狂気でもない。ただ、深く、静かな目。
男は、ゆっくりと周囲を見渡した。
兵たちが、じりじりと包囲しようとする。
男は、それを見て——笑った。
「随分と、物々しいな。」
「動くな。」
ミサゴが前に出た。道術の印を、静かに結んでいる。
男はミサゴを見た。
「術師か。」
「そうだ。」
「いい目をしている。」
男がゆっくりと一歩、踏み出した。
「だが——俺を止められるかな。」
その瞬間、男が動いた。




