第十五話 霧島の兄弟
霧島ミサゴの朝は、遅い。
授業のない日、ミサゴは昼近くまで自室の縁側で寝転んでいた。陽が高くなるまで起きない。起きても、しばらくは茶をすすりながら庭を眺めている。鬼燈院の教員の中でも、ここまで気だるげな男は他にいなかった。
「……いい天気だな。」
ミサゴが欠伸をする。
縁側の向こうに、鬼燈院の庭が広がっていた。手入れされているのかいないのか、よくわからない庭だった。苔むした石、伸びた草、何の木かわからない大木。そのどれもが、どこか妖しい気配を帯びている。庭の隅で、目のような模様の浮いた石が、ゆっくりと瞬きをした。
ミサゴは気にしなかった。鬼燈院では、よくあることだった。
茶を一口飲む。
「平和だ。」
そう呟いた、そのときだった。
廊下の方から、ばたばたと足音が聞こえてきた。
「ミサゴ先生!ミサゴ先生っ!」
「……平和じゃないな。」
ミサゴが小さく息を吐く。
襖が勢いよく開いた。息を切らした生徒が立っていた。丘田ハルオだった。
「先生、大変です!増えてます!」
「何が。」
「紫の、犬みたいなのが、どんどん増えてて——!」
ミサゴはしばらくハルオを見ていた。
それから、もう一口、茶を飲んだ。
「……詳しく聞かせてくれ。」
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事態は、ミサゴが思っていたより進んでいた。
東棟の廊下に出ると、それはもう、そこら中にいた。
紫色の、小さな獣。チワワに似ていた。大きな目、震える小さな体、ぴんと立った耳。一匹一匹は、確かに可愛らしかった。
問題は、その数だった。
廊下に、十匹。いや、二十匹。柱の陰に、窓際に、階段に。きょとんとした顔で、紫の獣たちがそこら中にいた。そして見ている間にも——一匹が、ぽん、と音もなく二匹になった。
「うわ、また増えた!」
生徒たちが廊下に集まって、騒いでいる。
その中心で、一人の生徒が真っ青な顔をして立っていた。常盤トワだった。
「トワ。」
ミサゴが声をかける。
トワがびくりと振り返った。
「せ、先生……。」
「これ、お前か。」
トワは俯いた。
「……はい。」
「最初から話せ。」
トワは消え入りそうな声で話し始めた。
数日前、山で見つけたのだという。一匹だけ、震えていて、寂しそうにしていた。可愛くて、放っておけなくて、こっそり連れて帰ってしまった。部屋で飼っていたら——いつの間にか、二匹になっていた。三匹になった。四匹になった。
「それで、怖くなって、廊下に出したら……。」
「廊下でも増えた、と。」
「はい……。」
ミサゴは紫の獣を一匹、つまみ上げた。
獣はきゅう、と小さく鳴いて、ミサゴの手の中で震えた。つぶらな目が、ミサゴを見上げる。
「……可愛いな。」
「先生、暢気にしてる場合じゃ——!」
「わかってる。」
ミサゴは獣をしばらく観察した。
増える瞬間を、じっと見ていた。
一匹が、ぽん、と二匹になる。その瞬間を、何度か見た。
やがて、ミサゴは気づいた。
増えるのは、決まって——獣が一匹で、ぽつんと取り残されたときだった。仲間から離れて、一匹になった獣が、寂しそうに鳴く。その直後に、ぽん、と増える。
「……なるほどな。」
ミサゴが呟いた。
「こいつ、寂しいと増えるんだ。」
「寂しいと?」
トワが顔を上げる。
「一匹になると、不安になって、自分の仲間を作る。だから増える。構ってもらえない数が多いほど、どんどん増えていく。」
ミサゴは手の中の獣を撫でた。獣が、気持ちよさそうに目を細める。すると——その獣は、増えなかった。
「ほら。構ってやると、増えない。」
トワが目を見開いた。
「じゃあ……増えたのは、わたしが、ちゃんと構ってあげてなかったから?」
「まあ、そういうことだ。一匹だけ可愛がって、増えた分は持て余して廊下に出した。残されたやつらは寂しくて、また増えた。」
トワの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……ごめん。」
獣たちに向かって、トワが言った。
「ごめんね。寂しかったよね。」
ミサゴは肩をすくめた。
「謝る相手が違う気もするが、まあいい。」
「どうすればいいんですか。」
「全部に構ってやれ。一匹も、寂しがらせるな。そうすれば増えない。そのうち落ち着く。」
「全部……こんなに、いるのに。」
廊下を埋め尽くす紫の獣たちを見て、トワが呆然とする。
「お前が連れてきたんだろ。」
ミサゴが軽く言う。
「責任は、取れ。」
トワはしばらく獣たちを見ていた。
それから、ぐっと顔を上げた。
「……やります。全部、わたしが面倒見ます。」
「よし。」
ミサゴが薄く笑った。
「他の生徒にも手伝ってもらえ。一人で抱え込むな。寂しがり屋の世話は、賑やかな方がいい。」
トワが頷いた。
その日から、鬼燈院の東棟は、やたらと賑やかになった。生徒たちが紫の獣を構い、撫で、名前をつけ始めた。獣たちは満足そうに目を細め、もう増えなかった。
ミサゴはその様子を遠くから眺めて、また欠伸をした。
「……平和だ。」
今度こそ、そう呟いた。
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弟が訪ねてきたのは、その日の夕方だった。
ミサゴが自室で茶を飲んでいると、教員の一人が来客を告げた。
「霧島先生。お客人です。弟君だと。」
ミサゴの手が、一瞬止まった。
「……通してくれ。」
しばらくして、襖が開いた。
立っていたのは、若い男だった。ミサゴより五つほど下。仕立てのいい着物を着て、髪をきっちりと整えている。ミサゴの緩んだ着こなしとは、まるで対照的だった。
「兄上。」
霧島ヒバリだった。
「よお、ヒバリ。久しぶりだな。」
ミサゴが軽く手を上げる。
ヒバリは部屋を見渡した。散らかった文机、脱ぎ捨てられた着物、飲みかけの茶。眉がわずかに寄った。
「……相変わらずですね。」
「まあな。座れよ。」
ヒバリはミサゴの向かいに、きちんと正座した。ミサゴは胡座のままだった。
しばらく、沈黙があった。
「茶でも飲むか。」
「結構です。」
ヒバリが言う。それから、まっすぐにミサゴを見た。
「兄上。いつ、家に戻ってこられるのですか。」
ミサゴは茶をすすった。
「戻らないって、何度も言ってるだろ。」
「父上も母上も、待っておられます。」
「待たなくていいって伝えてくれ。」
ヒバリの拳が、膝の上で固まった。
「……なぜですか。」
声に、抑えた感情が滲んでいた。
「霧島の家は、兄上が継ぐべきです。私は——兄上の代わりにはなれない。みんな、兄上を待っているんです。なのになぜ、こんな山の中で、術師の真似事なんか——。」
「真似事じゃない。」
ミサゴの声が、少しだけ変わった。
ヒバリが口をつぐむ。
ミサゴは茶を置いた。それから、縁側の方を見た。陽が傾いて、庭が橙色に染まり始めていた。
「ヒバリ。お前、カシマって人を知ってるか。」
「……カシマ?」
「風早カシマ。六位術師だった人だ。」
ヒバリは首を振った。
「いや、知りません。」
「だろうな。お前はまだ子どもだったし、貴族の世界にいたら、術師のことなんて知らないだろう。」
ミサゴは庭を見たまま、ゆっくりと話し始めた。
「俺がまだ家にいた頃な。一度、戦に巻き込まれたことがあった。貴族の屋敷も安全じゃなかった。怪異が攻めてきてな。俺は逃げ遅れて、もう駄目かと思った。」
ヒバリが息を呑む。
「そのとき、助けてくれたのが、カシマって術師だった。風みたいな人だった。ふらっと現れて、怪異を片付けて、ふらっと去っていった。礼を言う暇もなかった。」
ミサゴが薄く笑った。
「俺はそのとき思ったんだ。ああ、ああいうふうに生きたいって。誰にも縛られず、自分の足で、自分の信じる場所に立って。貴族の屋敷の高い塀の中じゃなくて、もっと広いところで。」
「……それで、家を出たんですか。」
「そういうことだ。」
ヒバリは黙っていた。
「くだらないと思うか。」
ミサゴが聞く。
ヒバリは、しばらく答えなかった。それから、絞り出すように言った。
「……わかりません。私には、わからない。兄上が、たった一人の術師に憧れて、家も、家族も捨てたなんて。」
「捨てちゃいない。」
ミサゴが静かに言う。
「お前のことは、ちゃんと弟だと思ってる。」
ヒバリの肩が、わずかに震えた。
「……そのカシマという人に、会わせてください。兄上がそこまで言う人に、会ってみたい。」
ミサゴは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「会えない。」
「なぜ。」
「死んだ。病でな。少し前に。」
部屋に、沈黙が落ちた。
ヒバリが、何か言おうとして、言葉を見つけられずにいた。
「俺が家を出る決め手をくれた人は、もういない。」
ミサゴが庭を見つめる。橙色の光が、ゆっくりと薄れていく。
「でもな、ヒバリ。あの人がくれたものは、消えてない。俺がこうして術師をやってること、生徒に道術を教えてること、この生き方——全部、あの人がいなけりゃなかった。だから俺は、ここにいる。」
ミサゴが、ようやくヒバリの方を見た。
「家には戻らない。でも、お前のことを忘れたわけじゃない。たまには顔を見せに行く。それじゃ駄目か。」
ヒバリは、うつむいていた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。
「……駄目です。」
ミサゴが、わずかに眉を上げた。
「私には、無理なんです。」
ヒバリの声が、震えていた。
「霧島の家を、私一人で背負うなんて。父上も母上も、口では私に期待していると言う。でも、本当は——みんな、兄上を待っている。私では、兄上の代わりにはなれない。それは、私が一番よくわかっているんです。」
顔を上げたヒバリの目は、赤かった。
「兄上は、優秀だ。昔から、何でもできた。剣も、学問も、人の心を掴むのも。私はずっと、兄上の背中を見て育った。だから——兄上がいない家なんて、考えられないんです。」
ミサゴは黙って聞いていた。
「カシマという人の話は、わかりました。兄上がそういう生き方を選んだことも。今日のところは、引きます。」
ヒバリが、まっすぐにミサゴを見た。
「でも、諦めません。私は、いつか必ず兄上を連れ戻します。何年かかっても。」
部屋に、沈黙が落ちた。
ミサゴは、しばらくヒバリを見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「……強情なところは、変わらないな。」
「兄上に似たんです。」
ミサゴが、声を出して笑った。
「言うようになったじゃないか。」
ヒバリは笑わなかった。ただ、まっすぐにミサゴを見ていた。その目には、慕情と、劣等感と、譲れない意志が、ないまぜになっていた。
「父上たちには、なんと伝えれば。」
ミサゴは少し考えた。
「兄貴は元気だって伝えてくれ。相変わらずだらしないけど、元気だって。」
ヒバリは、しばらく黙っていた。
「……わかりました。」
それだけ言って、ヒバリは立ち上がった。
「兄上。次に来るときは、迎えに来ます。今日のように、手ぶらでは帰りません。」
ミサゴは少し驚いた顔をした。
それから、ふっと笑った。
「ああ。気が向いたらな。」
ヒバリが深く頭を下げて、部屋を出ていった。
その背中を、ミサゴは見送った。
「……連れ戻す、か。」
ミサゴが小さく呟く。どこか、困ったような、それでいて嬉しそうな顔だった。
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廊下を歩くヒバリは、一人の生徒とすれ違った。
天倉ソウジだった。
すれ違いざま、ソウジの足が、わずかに止まった。
ヒバリの着物。仕立て、所作、髪の整え方。ソウジには、ひと目でわかった。貴族だ。それも、相応の家格の。
ヒバリはソウジに軽く会釈をして、そのまま去っていった。
なぜ貴族が、こんな山の中の鬼燈院に——ソウジがそう思ったとき。
去っていくヒバリが、振り返らずに口にした。
「……兄上は、相変わらずだ。」
独り言のような、小さな声だった。だが、ソウジの耳には届いた。
ソウジは振り返って、ヒバリが出てきた部屋を見た。霧島ミサゴの自室だった。
兄上。
その言葉と、ミサゴの部屋が、ソウジの中で繋がった。
「……え。」
思わず、声が漏れた。
「ミサゴ先生って、貴族出身なのか。」
ソウジは、しばらくその場に立っていた。
あの、気だるげで、緩んだ着こなしで、何を考えているのかわからない男が——自分と同じ、貴族の出身。そして、貴族の身でありながら術師になり、家を出て、こんな山の中で生徒に道術を教えている。
ソウジの胸の奥で、何かがかすかに動いた。
うまく言葉にできない感覚だった。だが、それは——どこか、近いもののように思えた。
ソウジは、ミサゴの部屋の方を、もう一度だけ見た。
それから、何も言わず、廊下を歩いていった。
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しばらくして、ミサゴはまた縁側に寝転んだ。
庭は、もう暗くなり始めていた。目のような模様の石が、闇の中で一つ、瞬きをした。
ミサゴは空を見上げた。
星が、出始めていた。
「……見てるか、カシマさん。」
誰にともなく、ミサゴは呟いた。
「あんたの真似、まだ続けてるよ。」
返事は、なかった。
ただ、夜風が、庭の草を静かに揺らしていた。




