第十四話 深夜の食堂
深夜の食堂は、別の場所のようだった。
昼間あれだけ賑やかだった広間が、今は静まり返っている。長い机が闇の中に並び、月明かりが窓から差し込んで、床に細長い光を落としていた。人の気配はない。声も、湯気も、匂いもない。ただ、静寂だけがそこにあった。
アケルは窓際の席に一人で座っていた。
眠れなかった。
エンジは部屋でとっくに寝息を立てていた。布団に入っても、天井を見つめているだけで、目が冴えていく一方だった。だから抜け出してきた。行く当てもなく歩いて、気づいたらこの食堂にいた。
左の手のひらが、じくじくと疼く。
布をほどいて、月明かりにかざした。太陽の形の火傷。赤く爛れた円形の痕が、青白い光の中で、やけに生々しく見えた。
これが、俺のタオ。
アケルはその痕を見つめた。
稀なタオの持ち主かもしれない。何百年に一度。記録にもほとんど残っていない——。
ミサゴの言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
すごいじゃん、とエンジは言った。よかったじゃない、とカヤは言った。
でも——なぜだろう。
ちっとも、嬉しくなかった。
それどころか、足元が崩れていくような感覚があった。うまく言葉にできない。みんなは喜んでくれた。喜ぶべきことのはずだった。なのに、胸の奥が冷たかった。
アケルは火傷の痕を、指でなぞった。
ずっと、タオなんてないと思って生きてきた。
道術が使えない。系統もわからない。先生たちみたいに術が使える人を見るたびに、自分には何もないんだと思った。だから——体を張った。誰も動かないなら、自分が動いた。役に立てば、自分にも意味があると思えた。怪異に飛び込んだのも、捕虜を止めたのも、ミサゴを守ろうとしたのも、全部そうだった。
何もない自分が、何者かであるために。
それだけが、アケルを動かしてきた。
なのに——。
「タオがあった」と言われた瞬間、その何かが、ぐらりと揺れた。
もし、このタオがあるから俺に価値があるって言うなら。
もし、みんなが見ているのが「稀なタオを持ったアケル」だって言うなら。
——じゃあ、タオがなかった頃の俺は、何だったんだ。
体を張って、必死に動いて、それでようやく自分に意味を見出してきたあの日々は、全部「タオが目覚めるまでの待ち時間」だったのか。
違う。そうじゃない。そうであってほしくない。
でも、もしこのタオがすごいものなら、みんなはきっとタオを見る。アケルじゃなくて、タオを。器を。
そう考えると、嬉しいはずの言葉が、まるで自分を否定するもののように聞こえた。
アケルは頭を抱えた。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
俺は何が嫌なんだ。タオがあって、何が不満なんだ。みんな喜んでくれてるのに。普通、喜ぶところだろ。なのに、なんでこんなに——。
「まだ起きてたのか。」
声がした。
アケルが顔を上げると、食堂の入り口にミサゴが立っていた。
「……先生。」
「眠れないのか。」
ミサゴが闇の中をゆっくりと歩いてくる。手に湯飲みを二つ持っていた。
「俺もたまに眠れなくてな。茶でも飲もうと思って。」
ミサゴはアケルの向かいの席に座った。湯飲みの一つを、アケルの前にそっと置く。
「お前の分。淹れてきた。」
「……いいんですか。」
「眠れないやつが二人いたら、茶も二つ要るだろ。」
「大丈夫か。」
「……大丈夫です。」
ミサゴはしばらくアケルを見ていた。
「そうか。」
それだけ言って、立ち上がった。
「なら、邪魔したな。ゆっくり休めよ。」
ミサゴが背を向けて、入り口へ歩いていく。
アケルはまた、火傷の痕に視線を落とした。
ぐるぐると、思考が回り始める。さっきの続きだった。出口のない問いが、何度も何度も同じところを回っていた。タオ、価値、何もない自分、みんなの目、父さん——いつの間にか、息が浅くなっていた。
——あれ。
足音が、止まった。
アケルが顔を上げると、入り口の手前でミサゴが立ち止まっていた。
振り返る。
眠そうな目が、まっすぐにアケルを見ていた。
「やっぱり、大丈夫じゃないな。」
「……え。」
「お前、さっきから一回も俺の方見てない。手のひらばっか見てる。」
アケルは、自分が火傷の痕を握りしめていたことに気づいた。
ミサゴが戻ってきた。向かいの席に、また腰を下ろす。
「何を抱え込んでる。」
アケルは黙った。
うまく言えなかった。言葉にしようとすると、全部ばらばらになった。
「……うまく、言えないんですけど。」
「いいよ。ばらばらで。」
ミサゴが湯飲みを置いた。
アケルは、ぽつりぽつりと話し始めた。
タオがあると言われて、嬉しいはずなのに嬉しくないこと。ずっと何もないと思って、体を張って生きてきたこと。このタオがあるから価値があると言われたら、今までの自分が否定される気がすること。みんながタオばかり見て、アケル自身を見なくなる気がすること。
話しながら、自分でもおかしいと思った。せっかくタオがあったのに、何を不安がっているんだと。
でもミサゴは、笑わなかった。
最後まで黙って聞いて、それから静かに口を開いた。
「なるほどな。」
ミサゴは湯飲みを手に取り、一口飲んだ。
「答えは、俺にもわからん。」
アケルが顔を上げた。
「お前のタオが本当に価値あるものなのか、お前自身に価値があるのか、それは別の話なのか同じ話なのか——そんなのは、俺にもわからない。」
「……。」
「でもな、アケル。」
ミサゴがアケルを見た。
「お前が今、それを悩んでるってこと。それが答えだ。」
「……どういう意味ですか。」
「タオがあったって聞いて、ただ喜ぶやつもいる。すげえ力だ、これで強くなれるって。それはそれでいい。でもお前は、喜ばなかった。喜べなかった。なんでだろうって、こうして一人で深夜に頭抱えてる。」
ミサゴが薄く笑った。
「それはな、お前が——『タオを持ったアケル』じゃなくて、『アケルって人間』のことを、ちゃんと考えてる証拠だ。お前は、自分が何者かを、自分で決めようとしてる。タオに決めさせてない。」
アケルは黙ってミサゴを見ていた。
「悩んでるってことは、流されてないってことだ。お前は今、ちゃんと自分と向き合ってる。それは——悪いことじゃない。むしろ、いいことだ。」
「……でも、答えは出ません。」
「出なくていい。」
ミサゴがあっさり言った。
「今すぐ出る答えなんて、大した答えじゃない。お前みたいな問いは、何年もかけて、少しずつ自分なりの答えにしていくもんだ。焦るな。悩んだまま進め。」
ミサゴが立ち上がった。
「タオは、お前の一部だ。全部じゃない。お前が何者かは、これからお前が何をするかで決まる。タオがあろうがなかろうが、それは変わらない。」
ミサゴは湯飲みを持って、入り口へ歩いていく。
「……先生。」
ミサゴが足を止める。
「ありがとうございます。」
ミサゴは振り返らなかった。ただ、軽く手を上げた。
「その茶、飲んじまえ。冷めてるけどな。」
そう言って、ミサゴは食堂を出ていった。
アケルは、机に置かれた湯飲みを見た。
手に取ると、まだほんのり温かかった。
冷めてる、と言ったくせに。
アケルは少し笑った。
一口飲んだ。茶は、確かにぬるかった。でも、体の奥にじんわりと染みた。
問いは、まだ消えていなかった。答えも出ていなかった。
でも——悩んだまま進め、というミサゴの言葉が、なぜか少しだけ、胸を軽くした。
アケルは窓の外を見た。
月が、雲の間から顔を出していた。
火傷の痕を、もう一度見た。
太陽の形。
——これが何なのかは、まだわからない。でも、これも俺の一部だ。全部じゃない。
アケルはそう思いながら、ぬるい茶を、もう一口飲んだ。
深夜の食堂は、静かだった。
でも、さっきまでの静けさとは、少しだけ違って感じられた。




