第十二話 みずうみの主
湖の中央で、何かが動いていた。
最初は、水面の揺れだけだった。
だがそれはすぐに、違うものになった。
水面の中央が、陥没した。水が内側へ吸い込まれ、すり鉢状の渦が生まれる。次の瞬間、その渦が爆ぜた。
水柱が天を突いた。
何十メートルもの水の壁が空へ向かって噴き上がり、陽光を受けて砕け、無数の飛沫が霧となって湖岸まで降り注いだ。生徒たちの顔に冷たい水滴が当たる。
そして、その水柱を割って——それは現れた。
巨大だった。
水の中からせり上がってきたそれは、蛇に似ていた。だが蛇ではなかった。青黒い鱗が陽光を弾き、一枚一枚が鎧のように胴を覆っている。胴体が湖面を割りながら、空へ、空へと伸び上がっていく。どこまで続くのかわからない。対岸の霞をも見下ろすほどの高さまで、それは立ち上がった。
頭部が、ゆっくりとこちらを向いた。
裂けた口から覗く牙。顎から垂れた無数の髭が、ぬめりと濡れて蠢いている。そして眼が——金色だった。鈍く、深く光る金色の双眸が、湖岸の一行を見下ろしていた。
水滴が、主の鱗を伝って湖へと滴り落ちる。その一滴が水面を打つ音さえ、はっきりと聞こえた。
それほどの、静寂だった。
カガミのうみの主だった。
「全員下がれ!」
ミサゴの声が飛ぶ。今まで聞いたことのない、鋭い声だった。
生徒たちが後退する。足がもつれる者、悲鳴を上げる者、立ち尽くす者。
アケルは動けなかった。
怖かった。全身が竦んだ。あの山で怪異と対峙したときとは違う——もっと根本的な、本能的な怖さだった。格が違う。命の大きさそのものが、違った。
それでも、目が離せなかった。
主の金色の眼が、湖岸を舐めるように動いた。
その視線が——アケルで、止まった。
「アケル、下がれ!」
エンジの声がした。
アケルは動かなかった。
主の眼が、アケルを見ていた。ただ見ているだけだった。攻撃する様子はない。だが、その視線に射抜かれた瞬間、アケルは息ができなくなった。見られているだけで、内臓を掴まれたような感覚がした。
「アケル!」
カヤの声。
アケルはようやく足を動かした。一歩、後退する。
その瞬間、主が動いた。
巨大な頭部が鞭のようにしなり、湖面を真横に薙いだ。湖の水が壁となって湖岸へ押し寄せる。
「水の道——水壁っ!」
ミサゴの詠唱が響いた。
湖岸と主の間に、せり上がる水の壁が生まれた。主が起こした波濤と、ミサゴの水壁が正面からぶつかる。轟音。水同士が砕け合い、衝撃が大気を震わせた。水飛沫が四方に炸裂し、湖岸の地面を抉る。
「教員2人は生徒を後方へ!俺が対処する!」
ミサゴが前に出た。いつもの緩い帯が、風に揺れていた。眠そうな目が——今は、まるで別人のように冷えていた。
「水の道——流刃っ!」
ミサゴが腕を払う。湖面から水が跳ね上がり、無数の刃へと変わって主に殺到した。
刃が主の胴を打つ。だが——鱗が、それを弾いた。青黒い鱗の表面で水刃が砕け、傷一つつかない。
主が咆哮した。
空気がびりびりと震えた。生徒の何人かが、その声だけで尻もちをついた。
主の頭部が、再び降ってくる。今度はミサゴめがけて、まっすぐに。
「風の道——旋っ!」
ミサゴの足元に風が渦巻き、その体が真横へ跳んだ。常人ではありえない速度だった。主の頭部が、ミサゴのいた地面を陥没させる。地が割れ、土砂が舞った。
着地と同時に、ミサゴは次の詠唱に入っていた。
「水の道——螺旋っ!」
渦を巻いた水の槍が、主の眼を狙って奔る。主が首をひねってかわす。槍が髭の一本を裂いた。主の動きが、わずかに乱れる。
「——眼は効くか。」
ミサゴが低く呟いた。だが息が上がっていた。
主は怯まなかった。傷を負っても、攻撃を受けても、それでも前へ出てくる。その圧倒的な質量の前では、ミサゴの的確な一撃も、削るというにはあまりに小さかった。
生徒たちが後退していく。
アケルは後退しながら、主とミサゴを見ていた。
ミサゴは一人で主と対峙していた。水と風の道術を次々と繰り出し、主の動きを抑えている。だが——主の巨体は、抑えきれるものではなかった。一手ごとに、ミサゴの呼吸が荒くなっていく。
まずい。
アケルは見ていた。主の動きを。
主は、ミサゴしか見ていなかった。標的を一つに絞っている。ミサゴが攻撃を組み立てる余裕がないのは、主の注意がずっと自分に向いているからだ。
——注意を、逸らせばいい。
一瞬で、そう判断した。
自分が囮になれば、ミサゴは体勢を立て直せる。道術は使えない。でも、的になることはできる。逃げ足には自信があった。あの山でも、怪異から逃げ切った。
アケルは走った。後退する生徒たちに逆らって、前へ。
「アケル!」
エンジが叫ぶ。
「何をしている!下がれ!」
ミサゴが叫ぶ。
「こいつの気はオレが引く!その隙に立て直してくれ!」
アケルは湖岸を駆けながら、足元の石を拾った。一番大きいやつを選ぶ余裕はなかった。握れる大きさのものを、走りながら掴む。
主の頭部は、まだミサゴを追っていた。
アケルは思い切り振りかぶり、主の眼に向かって石を投げた。
石は弧を描き、主の金色の眼の、すぐ脇の鱗に当たって弾かれた。
傷一つつかない。わかっていた。狙いは傷じゃない。眼の近くだ。鬱陶しいと思わせればいい。
「おい、こっち見ろ!でかいだけのミミズが!」
アケルが叫んだ。声が裏返った。喉が、恐怖で震えていた。
それでも、足は止めなかった。立ち止まれば、的にならない。主の視界の中で、動き続けなければ意味がない。
主の頭が、止まった。
金色の眼が、ぐるりと回って——アケルを捉えた。
背筋が凍った。
捉えられた、と本能が叫んだ。さっき視線を向けられただけで息ができなくなった、あの眼。それが今、完全に自分だけを見ていた。
主が動いた。巨大な頭部が、地響きを上げてアケルに向かって降ってくる。
速い。
逃げ足には自信があった。でも、それは人間や怪異が相手のときの話だ。この質量、この速度——避けられる気がしない。
それでも、アケルは横へ跳んだ。
間に合わない——そう思った瞬間、横から風が吹き込んだ。
「風の道——疾風っ!」
ミサゴだった。風を纏い、ありえない速度でアケルと主の間に割り込んでくる。ミサゴの腕がアケルの襟を掴み、そのまま横へ投げ飛ばした。
直後、主の頭部が地面を叩いた。
轟音。地面が陥没し、衝撃波が湖岸を走る。アケルは投げ飛ばされたまま地面を転がり、岩に背中を打ちつけた。
「がっ……。」
痛かった。息が詰まる。体を起こそうとして、手が震えた。
視界の先で、ミサゴが主と対峙していた。至近距離だった。主の金色の眼が、ミサゴを見下ろしている。
「……やっかいだな。」
ミサゴが小さく呟いた。
主が口を開いた。
水の塊が、ミサゴに向かって放たれた。
「——っ!」
ミサゴが跳ぶ。だが完全には避けられなかった。水の塊がミサゴの肩を掠め、ミサゴが膝をついた。
「先生!」
アケルが叫んだ。
立ち上がろうとした。足が動かなかった。
主の眼が、また動いた。
膝をついたミサゴを、見下ろしている。
駄目だ——。
その瞬間だった。
アケルの体の奥で、何かが弾けた。
さっき湖岸で感じた、あのかすかな揺れではなかった。もっと激しく、もっと熱く、堰を切ったように何かが噴き上がってきた。
熱だった。
体の芯から、灼けるような熱が広がっていく。だが火の熱とは違う。もっと遠く、もっと高いところから降り注ぐような——夜明けに空が白んでいくような、世界の隅々まで届く、巨大な熱。
その熱が、腕を駆け抜け、手のひらに集まっていく。
「——熱い、熱いっ……!」
手のひらが、灼けるように熱かった。
アケルは思わず手を突き出した。
その瞬間、光が溢れた。
アケルの手のひらから、眩い光が放たれた。太陽だった。小さな、しかし紛れもない太陽の光が、アケルの手から湖岸を照らした。生徒たちが目を覆う。湖面が、その光を反射して白く輝いた。
昼間の陽光すら、その光の前では翳んで見えた。
主が——硬直した。
巨大な胴体が、ぴたりと止まる。金色の眼が、大きく見開かれた。
威圧でも、興味でもない。それは——畏れだった。
主は、その光を知っているようだった。
光は、数瞬で消えた。
アケルはその場に崩れ落ちた。全身の力が抜けていた。汗が噴き出していた。
手のひらが、まだ熱を持っていた。
見ると——左の手のひらに、痕が残っていた。
円形の、放射状に光が伸びる形。
太陽の形をした、火傷だった。
赤く爛れたその痕から、まだじんわりと熱が滲んでいる。
「……なん、だ。これ。」
アケルは自分の手を見つめた。震えていた。痛みよりも、得体の知れなさが勝った。
主がゆっくりと後退した。巨大な胴体が湖面に戻っていく。水飛沫を上げながら、静かに、湖の中へ沈んでいった。
水面が揺れ、やがてまた鏡のように静かになった。
しばらく、誰も動かなかった。
「……行ったか。」
ミサゴが立ち上がった。肩を押さえながら、湖を見ていた。
それからゆっくりと、アケルを振り返った。
眠そうな目ではなかった。
真剣な目だった。
「アケル。」
「……はい。」
「今、何をした。」
アケルは手を見た。太陽の形の火傷が、赤く残っていた。
「……わかりません。」
ミサゴが歩み寄り、アケルの手を取った。火傷の痕を、じっと見つめる。
その目が、わずかに揺れた。何かに気づいたように。あるいは、信じられないものを見たように。
「……これは。」
ミサゴは何か言いかけて、口を閉じた。
それから、視線を湖に戻した。
何かを考えるように、口を一文字に結んでいた。
「……手当てするぞ。歩けるか。」
それだけ言って、ミサゴはアケルの手を離した。だがその横顔は、いつもの気だるさとは程遠かった。
アケルは手を握った。
さっきの熱は、もう引いていた。
でも——左の手のひらには、太陽の形の火傷が、はっきりと残っていた。
「アケル。」
エンジが駆け寄ってきた。カヤも来た。
「大丈夫か。」
「……大丈夫。」
「何があったんだよ、今。その手——。」
エンジがアケルの手の火傷に気づいて、息を呑んだ。
アケルは答えなかった。ただ、その痕を見つめていた。
カガミのうみは、また静かになっていた。鏡のような水面が、空を映している。
何も起きなかったように、静かだった。
でも——アケルの手のひらには、確かに、太陽が刻まれていた。




