第十一話 カガミのうみ
「来週、カガミのうみに行く。」
ミサゴが教壇に腰を預けながら、いつもの眠そうな顔で言った。
教室がざわめいた。
「カガミのうみって——あの、イヅルの国と隣国の境にある?」
丘田ハルオが手を上げる。
「そう。」
「いわくつきの場所じゃないですか。」
「いわくつきだから行く。」
ミサゴが軽く言う。
「目的は2つ。一つは現地学習——イヅルの国の歴史と龍脈の関係を肌で感じてもらう。もう一つは実地調査——かつて龍脈だったとされる場所が今どんな状態にあるかを各自で観察してもらう。」
「先生、危なくないんですか。」
常盤トワが聞く。
「危ない。だから俺たちが引率する。」
ミサゴが腕を組んだ。
「ただ、危ないからこそ行く意味がある。教室で本を読んでるだけじゃわからないことがある。カガミのうみはその一つだ。」
教室が静まり返った。
アケルは窓の外を見た。
カガミのうみ。聞いたことはあった。海と呼ばれているが本当は大きな湖で、その水面が鏡のように静かなことからそう呼ばれていると。だがその静けさは、人を引き込む静けさだとも聞いていた。
「質問は?」
誰も手を上げなかった。
「じゃあ来週。覚悟しといて。」
ミサゴが扉へ向かいながら、軽く手を振った。
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カガミのうみへの道は、半日かかった。
鬼燈院を出て、山道を下り、イヅルの国の城下を抜け、さらに西へ向かう街道を進む。生徒20人と、ミサゴを含む教員3人の一行だった。
道中、エンジが欠伸をした。
「遠いな。」
「遠いね。」
アケルが同意する。
「でも楽しみじゃない?カガミのうみ、実物見たことないし。」
「俺は別に。」
「カヤは?」
「……まあ、興味はある。」
カヤが前を向いたまま言う。それだけで十分だった。
街道を進むにつれ、景色が変わっていった。
木々が増え、空気が湿っていく。道の両脇に生える草の色が、どこか深くなっていく。鳥の声が減り、代わりに風の音が増えていく。
「なんか、山と違う空気だな。」
アケルが呟く。
「水の気配だ。」
ソウジが前を向いたまま、静かに言った。アケルの隣を歩いていた。いつの間に近くにいたのか、気づかなかった。
「水の気配?」
「湖が近い。空気の湿度が変わっている。」
「……詳しいな。」
「当然だ。」
ソウジはそれだけ言って、また黙った。
アケルはエンジを見た。エンジは肩を揺らしていた。笑っていた。
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カガミのうみが見えたのは、丘を越えたときだった。
誰かが息を呑んだ。
広かった。海と呼ばれる理由がわかった。対岸が霞んで見えないほど、広かった。水面は鏡のように静かで、空の色をそのまま映していた。青と白が、水の中に広がっている。
だが——美しいだけではなかった。
その静けさが、どこか不自然だった。風があるのに、水面が揺れない。波がない。まるで、湖そのものが息を潜めているようだった。
「……綺麗だけど、怖い。」
常盤トワが小声で言う。誰も否定しなかった。
一行は湖岸に降りた。
ミサゴが振り返る。
「ここがカガミのうみだ。海と呼ばれているが、実際は湖だ。対岸はイヅルの国と隣国の境界線になっている。」
生徒たちが湖を眺める。
「かつてここは、龍脈の一部だったとされている。今は龍脈の力は失われているが、その名残がこの湖に残っている。」
「なんで龍脈の力が失われたんですか。」
アケルが聞いた。
ミサゴが少し間を置いた。
「——先の大戦だ。」
教員の一人が口を開いた。ミサゴより年嵩の、白髪交じりの男だった。
「隣国がこの地の龍脈を軍事利用した。龍脈から力を引き出し、術師の道術を増幅させる技術を開発した。だがその代償として、龍脈そのものが枯渇した。力を使い果たした龍脈は、やがて消えていく。」
「じゃあ、龍脈って消えるんですか。」
「消える。人間が使えば使うほど、早く消える。」
湖岸に沈黙が落ちた。
「でも——昔の人間は龍脈を使っていなかったんですか。」
アケルが続けて聞く。
白髪の教員が、アケルを見た。
「よく気がついた。昔の人間は龍脈を使っていたが、やり方が違った。」
男がゆっくりと湖に向き直る。
「かつてこの国には、鯉登一族という者たちがいた。龍脈の力を管理する一族だ。彼らは龍脈に対して儀式を行い、その力を少しずつ借りて他の一族に分け与えていた。龍脈を崇拝し、信仰し、共存していた。力を搾り取るのではなく、いただく——そういう関係だった。」
「鯉登一族……今はどこに?」
「いない。」
男の声が、静かに低くなった。
「先の大戦で龍脈が枯渇したとき、鯉登一族は姿を消した。龍脈と一体化していた彼らは、龍脈とともに——常世へ渡ったとされている。」
誰も声を出さなかった。
湖面が、鏡のように静かだった。
「龍脈が失われると何が起きるんですか。」
ソウジが静かに問う。
「現世と常世の境界が薄くなる。」
ミサゴが答えた。
「龍脈には現世と常世の境界を保つ力だけでなく、怪異を退ける力もある。龍脈が失われれば境界が薄くなり、怪異を退ける力も弱まる。最近イヅルの国各地で怪異の目撃が増えているのはそのためだ。」
「だからイヅルの国は龍脈を探しているんですか。」
「そうだ。残っている龍脈を守るために。失われた龍脈をこれ以上増やさないために。」
アケルは湖を見つめた。
鏡のような水面が、空を映している。
先生が探しているのは、これと同じものか。あの山で、俺たちが越えた境界と同じものか。
「龍脈の近くにいる人間は、タオが活性化しやすい。」
白髪の教員が続ける。
「龍脈の力が、人間のタオを刺激するからだ。術師の多くが龍脈に近い地域の出身なのはそのためだ。逆に言えば、龍脈が失われた地域では術師が生まれにくくなる。この湖にはまだ龍脈の名残がある。何かを感じる者がいるかもしれない。」
アケルは自分の手を見た。
タオが活性化する。
「今から、各自で湖岸を観察してもらう。感じたこと、気づいたこと、何でも記録しておけ。」
ミサゴが言う。
生徒たちが散った。
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アケルは湖岸を歩いた。
水面は相変わらず静かだった。足元の石が濡れていて、滑りそうだった。
しばらく歩いたところで、アケルは立ち止まった。
何かを、感じた。
うまく言えない。体の奥から、何かが動いた気がした。熱でもなく、痺れでもなく——ただ、何かが動いた。
アケルは手を開いた。
何も起きなかった。
もう一度、集中した。
やはり、何も起きなかった。
でも——確かに、何かがあった。火でも氷でも水でもない、それでも確かに存在する何かが、アケルの体の奥で、ごくわずかに、揺れた。
鯉登一族のことが頭をよぎった。
龍脈と一体化して常世へ渡った者たち。龍脈を守るために存在した者たち。
俺のタオは——何なんだ。
「……なんだ、これ。」
アケルは手を握った。
その瞬間だった。
湖面が、揺れた。
風もないのに。波もないのに。
鏡のように静かだったカガミのうみの水面が、中央からゆっくりと、同心円状に広がっていく。
「……おい。」
エンジの声がした。
振り返ると、湖岸に散っていた生徒たちが、みな湖の方を見ていた。
水面の揺れは、止まらなかった。
むしろ、大きくなっていた。
ミサゴが静かに立ち上がった。その目が、いつもと違った。
「……全員、湖岸から離れろ。」
低い声だった。
誰も動かなかった。
「離れろ。」
今度は、はっきりと言った。
生徒たちがざわめきながら後退し始めた。
水面の揺れが、さらに大きくなる。
湖の中央で、何かが——動いていた。




