第30話 拒絶して無視する言葉(下)
昨日まではたしかに、自分が誰よりもいい女で、自分が世界の中心にいたはずなのに。すべてが自分の思いどおりに動いていたはずなのに。急に公転軌道が変わって、すべての惑星が太陽系から離れていく。そんな不可思議な感覚だった。
「これだけ言ってもまだ、俺に付きまとうようなら……学生課か警察に、お前をストーカーで訴える」
「けっ、警察……!?」
「ちょっと待って松浦、それは……」
意気消沈はしたが、いまだにはっきりとした理解の態度を示してくれない華純に、謙志は強硬に言った。警察という単語にうろたえた蓮花と麻衣子が、難色を示す。
「今後の村山次第だ。すでに証拠の動画はいくつか撮ってる。俺が何度も近付かないでくれって言ってるのに、それをお前が無視して近寄ってくる動画だ」
「そんな……」
「なんで? ひどいわ、謙志……なんであたしを、そんな犯罪者みたいに扱うの? その子と付き合っていても、謙志はあたしを忘れられなかったんでしょう? だって……だから連絡先を消していないんでしょう?」
激変した世界に頭の中を混乱させながらも、華純は再び被害者ぶることにした。
一年半前に謙志とは別れたが、それからずっと、謙志は華純の連絡先を消していない。それは自分に未練があることの証左――謙志が自分を忘れられていないということの証明にほかならない。だから、謙志はまだ自分に気があるのだ。今カノと別れさえすれば、きっと謙志とはヨリを戻せるはずなのだ。
「たしかに、村山の連絡先は、今もアプリの中に残ってる。でも、それも今日までだ。みんな、画面を見ててくれないか」
謙志はそう言うと、自分のスマートフォンをテーブルの中央に置いた。そして指先でタップして、画面を操作する。その動作を、華純以外の全員が見守った。
「あっ……」
謙志が連絡アプリの中にあった華純の連絡先を「削除」した瞬間、蓮花は小声で驚いた。
「別れたあとも村山の連絡先を消さなかったのは、〝別れたカノジョ〟という存在の連絡先は残すものなのか消すものなのか、正しい対応がわからなかったからだ。それと、削除とかブロックとかしたら、なんとなく自分が悪者になる気がして……それが嫌だったんだ。でも、俺はもう、悪者でいい。村山とは二度と関わりたくない。だからいま、村山の連絡先は消した。村山、これで納得するか? 俺はお前に未練なんかない」
「なんで……嘘よ……じゃあ、じゃあなんであたしと付き合ったの? あたしのこと、好きだったから付き合ったんでしょ?」
そうだ、今は別れてしまったとはいえ、一年と半年前、自分と謙志はたしかに付き合っていた。謙志は自分のことを好きだったはずだ。ほかの男と同じように、謙志もあたしの魅力の虜になっていたはずなのに――!
「正直に言うと、別にお前のことが好きだったわけじゃない。付き合っている間に、好きだと思ったこともない。お前から告白されて……大学生なら好きでなくても誰かと付き合うものかと……そう思ったから付き合っただけだ」
「嘘……っ!」
「嘘じゃない。あの時の俺のその態度はとても不誠実だったと、今ならはっきりとわかる。だから、その点についてだけは悪いと思う。でも、全部もう終わったことだ。俺に別れようと言い出したのは村山だろ? 村山も、たいして俺のことなんて好きじゃなかったんだろ。それに、お前は今も俺のことが好きだと言うけど、それこそ嘘だろ。桃音を好きになって……桃音と両思いになれたからこそ、今ならわかる。お前は、俺のことを好いてなんかいない」
華純のことがストレスで何度か嘔吐してしまったが、それを知るたびに、桃音はとても心配してくれた。親友の将樹も、何度でも心から心配してくれた。相手のことが好きで相手を大事に思う気持ちがあるのなら、そうした思いやりを必ず持つものだ。
しかし華純から、自分への思いやりを感じたことはない。華純は常にうわべを着飾ることばかり考えていて、謙志の体調をろくに心配したことなどない。華純は常に、自分が相手から注がれることしか気にしていない。自分が他者に優しさを向けようとは、決して考えていない。そんな相手から「好きだ」と言われたところで、信じられるはずがないだろう。
「以前付き合っていた時のことは、全部終わったことだ。いま、俺はお前の連絡先を消した。今後二度と、どんな形でもお前と関わるつもりはない。だからお前も、俺に近付かないでくれ」
謙志は再三にわたってお願いをした。
これで華純が頷いても、大学にいればどこかで華純の気配を感じてしまうことはあるだろう。これまでにも、主にチアリーディング部や、チアリーディング部のカノジョを持つ体育会の者たちから、「華純のカレシなんでしょ?」という扱いを受けることがあった。謙志は、「村山とは付き合っていない」と言ってできる限り訂正したが、華純が明確に否定してくれないので、勘違いをしている者たちが何人かいるのだ。
そんなふうにひっそりと埋められた外堀がたいそう不愉快だったが、今後はもっと強く、自分がはっきりと否定していけばいい。華純に都合のいい状況には、二度とさせない。
「意味……わかんない……」
華純は俯き、誰とも視線を合わせないままぽつりと呟いた。
謙志が自分にまったく気がないことも、蓮花と麻衣子が謙志の味方をしていることも、何もかも、意味がわからない。意味がわからない。意味がわからない。意味がわからない。意味がわからない。
ここはきっと、昨日までいたはずの世界とは別の世界だ。自分がこんな扱いを受けるはずがない。美人で、勉強も運動もできて、モデルにだってスカウトされたこともあって、海外の男とも火遊びができるような魅力的で価値のある女の自分が、こんなふうに拒絶されるはずがない。自分が男に「選ばれる側」で、そして「選ばれない」なんて結果が生じるはずがない。そんなわけがない。意味がわからない。
ここはどこ? いったいどこなの? 正しい世界はどこに消えてしまったの? 男があたしの思いどおりにならないなんて、そんなはずがない。恋愛強者のあたしが男に愛されないなんて――振られるなんて、そんなことが起きるはずがない。意味がわからない。意味がわからない。意味がわからない。
「もういい……あんたたち、全員消えてよ……あたしの視界から……」
「華純……」
「蓮花も麻衣子も消えてよ。消えて。ねえ、早く消えて? もう要らない。あんたたちなんか、友達じゃない……あたしの味方じゃないんでしょ」
「華純、違うよ……ウチらは華純の味方だよ」
「そうだよ。華純の友達だから……だから私たち、華純に普通に戻ってほしいんだよ。自分が松浦にしてることが異常だって、自覚してほしくてここに来たんだよ」
「嘘よ……あたしを異常者扱いしてる……本当の友達なら、そんなことするはずがない! あたしは異常なんかじゃない……そうよ……あたしはおかしくなんかない……!」
華純の両目がカッと開く。そして華純は、まだ半分ほど残っているホットティーの入ったカップを持つと、ギロッと桃音を睨んだ。
「あんたが……っ!」
「やべぇっ……!」
華純が桃音に向かってカップを投げつける。その動作にいち早く気付いた将樹が桃音の身体を通路側に押して、ソファからのけさせる。そして華純に背中を向けて、飛んできたカップを桃音の代わりに背中で受けた。残っていたホットティーは将樹の背中にかかり、はじき飛ばされたカップが床に落ちて、ガッシャーンと派手な音を立てる。
「村山!」
「あ、えっと……私、店員さん呼んでくる……!」
謙志は宙に浮いていた華純の手首を掴み、彼女の動きを止める。華純側のソファの通路側に座っていた麻衣子が狼狽しながらも立ち上がり、女性店員を呼んで謝りながらカップの片付けを頼んだ。
将樹は「ごめん、舟形ちゃん。大丈夫?」と言って桃音を心配するが、「野中先輩こそ大丈夫ですか!?」と、逆に桃音に心配されながら、ひとまず着ていたトップスを脱ぐ。紅茶はある程度冷めていたし、厚手の生地のトップスだったことで、特に火傷は負っていないようだ。「大丈夫だよ」と言って苦笑いしながら、将樹は桃音と共に座り直した。
「やめろ、村山。他人に危害を加えるな」
「だって……だって、全部その子が悪いからじゃない! あたしは何も悪くないわ! その子がいなければ……!」
桃音がいなければ――桃音が謙志と付き合っていなければ。そうすれば、海外留学を終えて帰国した自分の魅力に、謙志は虜になってくれたはずだ。もう一度、付き合ってくれたはずだ。そして、卒業後に結婚するという未来を描けたはずだ。少し面白みに欠けていて、顔も地味というマイナス要素もあるが、真面目で律義な謙志は、結婚相手としては悪くない。桃音さえいなければ、全部自分の願うとおりに叶ったはずなのに。
「村山、何度でも言う。桃音がいなかったとしても、俺がお前を好きになることはない。俺は……他人は、お前の願いを叶えるために存在してるんじゃない。なんでもかんでも、全部が自分の思いどおりになると思うのはいい加減やめてくれ」
「意味、わかんない……わかんない……何、言ってんの……?」
そんなこと、認めない。認めたくない。世界が自分の思いどおりにならないなんて――そんなこと、あるはずがない。
だって、これまで全部、自分の願ったとおりになった。努力して頑張れば必ず結果が出て報われて、誰だってあたしの魅力に夢中で、どんな男の視線もあたしに注がれてきた。あたしは価値のある女。魅力的な女。あたしが男を選ぶ立場。それがあるべき世界の姿。正しい世界。
「こんなの……間違ってる……違う……間違ってる……」
華純はふらふらと身体の力を抜いた。
「松浦、ごめん……一応しばらく、華純のことは注意して見ておくけど……」
「うん……ウチらにも限界かもしれない……」
カップを片付けてくれた店員に平謝りしていた麻衣子が戻ってきて、沈んだ声で謙志に声をかける。だがその表情は暗く、隣の蓮花も憔悴したような顔だった。
予想以上に華純は頑なで、誰の言葉も、華純の心にはまっすぐに届かない。華純がすべて屈折させて、自分の心に刺さらないようにしてしまうのだ。
ただの拒否や拒絶とも違う華純のその受け止め方には、友人であるはずの蓮花も麻衣子も困り果てていた。
「最悪の場合は、さっき言ったとおりの対応をするだけだから」
「うん……」
「悪いな、二人とも……来てくれて助かった。ありがとう」
謙志はひとまず、蓮花と麻衣子に礼を言った。そしてちらっと最後に華純を見たが、華純は俯いてとても小さな声で何かを呟いているだけで、決して謙志を見ようとはしなかった。
「将樹、桃音、行こう」
「いいのか?」
「ああ。結局最後まで『わかった』って返事はなかったけど……それが村山の答えなんだろ。村山には、誰のどんな言葉も通じないんだ。そうやって好きなだけ、自分に都合のいい世界にいればいい」
もしかしたら華純は、すべてが自分に都合のいい、お花畑のような世界でしか、生きられないのかもしれない。まだまだ長い人生がこの先にあるというのに、すっかり柔軟性を失って変化変容のできない華純を、謙志は哀れに思った。しかしその哀れみは、ファミレスを出る頃にはあっという間に消えていた。
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