第31話 導かれてするおねだり
(返事がないのが答え……かあ)
土曜日の昼間で乗客の少ない自動電車の座席に腰掛けた桃音は、ぼんやりとガラス窓の外を見つめながらため息をついた。
ファミレスを出たあと、謙志は将樹に「着替えを貸す」と言った。だが将樹は断り、「うちまで二駅だし、たいしたことないから」と言って断り、「謙志、何かあったらまたすぐ言えよ」と頼もしい一言を残して一足先に帰っていった。桃音は、「かばってくださってありがとうございました」としっかりとお礼を言って、改札の中へ入っていく将樹の背中を見送った。
そして、自分はどうしようかと思った。このまま謙志を一人にするのはなんだか心配だったが、「今日はこれで解散でいいか? 一人で少し……頭を落ち着けたい」と言われてしまったので、謙志に別れを告げて自分も改札を通り、自動電車に乗って帰宅することにしたのだった。
(村山さん……本当に最後まで、謙志くんのお願いを聞き入れる姿勢にはならなかったなあ)
どうしてだろう。なぜだろう。
再三にわたる謙志からの拒絶の言葉は、とうとう最後まで、華純の心に届かなかった気がする。「意地が悪い」と言われた時は図星を突かれたかのように動揺していたが、それ以外の自分に向けられたマイナスの言葉を受け止めることは、一切していなかったように思う。
(自分の悪いところを自分で認めるのは、たしかに気軽にできることじゃない……怖いことだけど……)
今日、謙志は相当頑張ったと思う。あんなにもはっきりと、臆することなく華純に「嫌いだ、近付かないでくれ」と言えたのは、すごいことだと思う。
相手を傷付ける、相手とこじれる、そして自分が悪者になる――そうなることが確定しているのにあえて相手に「嫌いだ」と伝え、「関わらないでくれ」と拒絶すること。良心がありながらもその言葉を投げかけるほうの心労は、いくばくか。もちろん、その言葉を投げられて受け止めなければならない華純のストレスも、相当なものだろう。
(誰も……幸せにならない)
華純を拒絶する謙志も、謙志に拒絶される華純も。そのいざこざに巻き込まれる形になった将樹たちも――誰一人、幸せにならない話し合いだった。
(私は……黙っていられたからよし、かな……)
今日の話し合いに同席するにあたって、桃音は自分に強く言い聞かせていた。自分が話す必要が本当にある場合でなければ、基本的には黙っていようと。
自分がしゃしゃり出れば出るほど、華純からのヘイトを容易に買ってしまう。「今カノが悪い」という言い訳を、華純にさせてしまう。案の定華純は、謙志が自分を嫌うのは今カノの桃音に唆されているからだ、というような論調をとろうとした。謙志が根気強く「そうじゃない」と言ってくれたが、華純は終始、桃音を悪者にしたいようだった。そんな華純にもしも自分がへたに反論していたら、話し合いは本筋からどんどんずれてしまい、華純の思う壺になってしまっていただろう。
今日の話し合いの本題は、謙志が華純に、二度と近付かないでくれとお願いすること。第三者が見ている場ではっきりと、華純との関わりを断ち切りたいと謙志が表明することだ。「桃音VS華純」のキャットファイトは、今日すべきことではない。だから桃音は、思うことは多々あったが、沈黙することを徹底していた。
(村山さんは……変われるかなあ)
華純はずいぶんと自己中心的だ。謙志のことで、今日はとうとう、仲良しの友達の蓮花と麻衣子にまで「おかしい」と言われてしまった。そして、二人が自分の味方にならないことに腹を立てていた。
その三人をファミレスに残してきてしまったが、喧嘩になっていないだろうか。蓮花と麻衣子は、これからも華純の友達でいてくれるだろうか。その二人がいれば、華純は自分の認知のおかしさに気付き、修正していけるだろうか。
(それとも……ずっと変わらないままなのかな……)
三つ子の魂百までという諺がある。様々な経験をし、様々な人に出会い、様々な感情を抱く中で人は多様な色に変化していくものだが、どうしても変えられない部分は、誰しも必ずあるものなのかもしれない。
それがその人自身の「良さ」ならばいいが、どう頑張っても変えられない「悪い部分」だったら厄介だ。華純はあのまま変われなければ、自分のその変えられない「悪い部分」によって自分自身を苦しめる気がする。
(私が心配することじゃないけど……)
桃音の瞳は、ふっと冷たくなる。
華純の意地悪な言葉や態度は自分にも向けられたが、それよりも彼女が謙志を苦しめたことを、桃音は許していない。この先、たとえ華純が謙志に謝ったとしても、許すつもりはない。
嫌がっている謙志に構わず何度も近付いてきて、そのせいで謙志はストレス性の嘔吐を繰り返したのだ。今はもう大丈夫だ、と謙志が言うからそれ以上何も言葉をかけないようにしているが、嘔吐するほどのストレスには相当身体がまいったはずだ。そこまで謙志を追い詰めた華純を、桃音はどうやっても憎くしか思えない。
だが、華純への憎しみに固執することには、なんの意味もない。とうとう最後まで華純からの理解は得られなかったが、さすがにこれだけ言われれば、今後はもう、謙志に近付くことはないだろう。蓮花と麻衣子も、きっと何かしら華純をフォローしてくれると思うし、今後はもう、華純は自分たちに関わりのない存在であるとして、日々を過ごしたほうが健全だ。
(もうすぐ天文研究会の忘年会があって、冬休みに入ったら年末年始の帰省があって……一月の終わりには試験期間がある。学費免除の資格をとるためには、レポートも試験も、一つも手を抜けない。でもそれが終わったら冬合宿があって、長い春休みで……お父さんたちの許可がもらえたら、短期で少し、いろんなアルバイトをしてみようかな……。自分が就職するのにどの業界が向いているとか、興味があるとか……実際に働いてみて感じたいし……)
やるべきこと、やりたいこと、やれること。
様々な出来事が、可能性が、困難が、まだまだこの先に数多く待っているのだ。華純に構っている時間がもったいない。
(でも……謙志くんとも一緒に過ごしたいな)
学祭前後でずいぶんとぎくしゃくしてしまったが、今日で華純の問題が解決となれば、二人の平穏をかき乱すものはない。以前のような穏やかな関係を、二人のペースで続けていけるはずだ。自分でも謙志でもない「何か」が作り出す悲しい流れにみすみす乗るような弱さは、もう持たない。
外は寒く、年末の侘しさがあちこちにただよっているように感じたが、桃音は自分の中でぽっぽとやる気に火がついているように思えた。
◆◇◆◇◆
「あのさ、急なんだけど……次の次の土日のどっちかで、二人で星を見に行かないか」
華純との話し合いを終えて、週が明ける。
謙志と一緒に昼ご飯をとることにしている月曜日、食堂で桃音と隣り合って座っている謙志はそう言って桃音を誘った。
「予定は空けられるけど……でも、あの……外泊は厳しくて」
「大丈夫、泊まりじゃない。この時期はほら、一年の中で一番日が短いだろ? だから、夕方の日没の時間から、結構星が見えるんだ。場所によるけど、昼過ぎに出発して星が見えるところに行って、日の入りと同時に空の観察をするのも……その……意外と悪くないから」
「なるほど……そういう楽しみ方もあるんだね」
「それで、えっと……夜九時とか、十時には帰れるようなスケジュールなら行けるか?」
「うん、大丈夫だと思う」
外泊や朝帰りは絶対に駄目だと、両親からも双子の兄姉からも、きつく言われている。反発する気持ちがないわけではないが、安くない学費を出してもらって学ばせてもらっている以上、家族に心配をかけないことと勉学を最優先にすることは自分の義務だと、桃音は思っていた。
「電車で行くの?」
「いや、俺が車を借りる。そのほうがたぶん、早いし楽だから」
「場所は……どこか決まってる?」
「まだだ。これから調べてみる。びっくりするほど遠くにはしないし、帰りの時間も考えて選ぶから」
「ふふっ……じゃあ、謙志くんにお任せでいいのかな?」
謙志がずいぶんと積極的に、デートプランを立てようとしてくれている。その意欲を察して、桃音は嬉しそうにはにかんだ。
「ああ。確認したいことがあったら、都度連絡する。桃音は、防寒だけは重々気を付けてくれると助かる」
「はーい。一番大事なことだね」
わざとではないがやけに簡単に寒さに負けて、そのたびに謙志に助けてもらってきたことを思い出して、桃音はくすくすとほほ笑んだ。
そしてその週の金曜日、天文研究会の忘年会が行われた。普段はあまり部室に姿を見せないメンバーも参加し、新歓コンパと同じくらいの大人数で、居酒屋の大部屋はいっぱいになった。桃音と結美は、同学年はもちろんのこと、普段あまり話したことのない先輩たちとも会話を楽しんだ。
桃音と謙志は、夏合宿から付き合い始めたことを大々的に発表してはいないが、隠してもいない。誰も彼も酔ってきた忘年会の後半、桃音を心配した謙志がずっと桃音の横に陣取るので、さすがに「お熱いね~お二人さん」とからかう者たちがいた。桃音も謙志も恥ずかしそうに苦笑してやり過ごしていたが、そうしたお酒と恋の空気が混じり合う独特の時間が、やけにくすぐったかった。
この忘年会をもって、四年生は全員退会となる。そして同時に、次の天文研究会会長が発表される。会長の正式な交代は来年の四月、学年が切り替わるタイミングだが、年明けから新年度までの間、冬合宿なども通して全体の引継ぎをしていくのだ。それはつまり、サークルの中心メンバーが今の三年生から二年生に変わるということだ。
一日一日があっという間に過ぎていくようで、時々とても濃い。大学生として過ごす時間は人生の中でもかなり異色なのだろうなと、桃音はなんだか妙に感慨深く思った。
◆◇◆◇◆
「んっ……」
謙志の部屋に小さく落ちたのは、どちらの吐息だろうか。
久しぶりの深いキスの合間に、それは漏れ出てしまう。
「すごく……久しぶりだよね」
「そうだな……ラブホに行った時以来か」
「えっちどころじゃ……なかったもんね」
桃音は苦笑した。
天文研究会の忘年会から幾日が過ぎて、三時限終わりに謙志と共に過ごせる木曜日。今までは謙志と一緒に図書館で課題に取り組むなどして過ごしていたが、今日はどちらからともなく謙志の家に行く流れになった。
桃音は、ベッドを背にしてラグの上に座っている謙志の太ももに乗り上げると、彼の首に両腕を回して物欲しそうなキスから始めた。
思えば、謙志とラブホテルで濃厚なえっちをして以来、謙志とはしていなかった。華純のことでやけに落ち着かなかったり、学祭があったりして、時間的にも気分的にもそれどころではなかったのだ。
「久しぶりだから……今日はどうしようかな」
桃音はゆっくりとしたスピードで、謙志の頬や首筋を手のひらでなでる。謙志はそんな桃音にされるがままの構えなのか、不必要に動くことなく、桃音の手の動きを感じることに集中した。




