第29話 泣いてぶつける本音(中)
今まで、謙志は言葉にすることをためらっていた。
どんな異性ともあまり関わらないようにしてきた謙志にとって、「女の子」とはとても傷付きやすいもので、だから男の自分が不用意に強い言葉をぶつけていい相手ではないと思っていた。だが華純にだけは、もう二度とその優しさを向けてはいけない。華純のことだけは、はっきりと思う。「大嫌いだ」と。
「きっと……仕方のない理由があるはずだ、って……謙志くんは心変わりしたわけじゃないって……思ってた。でもあの日……村山さんと腕を組んでる謙志くんを見たの……すごく悲しくて、悔しくて……悪いのは村山さんだって……それはわかっていても……謙志くんを許せないって……思ったの」
「ああ……当然だよな。ごめん、本当に……」
桃音は優しくていい子だから、寛容な心を持とうとしてくれたのだろう。だが、それが桃音にとって、自分を殺さないとできない行為なら、そんなことはしなくていい。
「桃音、いいよ……俺を許さなくて……。俺にいくらでも怒っていい……この先、何度でも蒸し返して……俺を責めていい……でも……でも……っ」
止まったはずの謙志の涙が、再び溢れる。
「わ、別れる……とは……言わな、いで……くれ……っ」
謙志は息を喉に詰まらせながら懇願した。
華純の要求を呑んで彼女に従ってしまったのも、その後桃音に対してうまく立ち回れなかったのも、結局のところ、謙志の本音はすべてそこにあった。「桃音と別れたくない」――謙志の最大の願いはそれだった。
桃音に嫌われて、別れを切り出されるかもしれないこと。自分の許されざる行いゆえに、桃音と別れなければならないかもしれないこと。そのすべてが怖かった。到底受け入れられる未来ではなかった。こうしてようやく桃音と話ができている今も、謙志はただひたすらに、桃音と別れる未来を恐れていた。
「俺、をっ……捨てないで……くれ……」
ああ、情けない。なんて情けない。
謙志は自分の不甲斐なさをいたく恥ずかしく思ったが、惨めでも不格好でも構わなかった。だって、もう桃音なしの日々は考えられない。桃音と別れて一人で生きていくことなど、できる気がしない。この先、桃音以外の異性に恋ができるとも思えない。
自分にはもう、桃音しかいない。桃音だけがいい。桃音だけが、誰よりも特別な女の子で、ずっと一緒にいたい相手で、大事にしたい存在で、そしてそんな桃音から自分も愛されたいのだ。この先もずっと、ずっと――。
「捨て、ないよ……」
謙志と同じように、桃音も再び泣きだした。
「私、だって……謙志くんと別れたく……ないよ……っ!」
ひっく、うああ――桃音は言葉にならない嗚咽を繰り返した。
「もう、もうっ……謙志くんと、だめなのかなって……別れ、なきゃ……いけないのかな、って……そう考えちゃって、怖くて……怖くて……仕方なかった……!」
別れたいわけではない。けれど、「何か」が二人を「別れ」という悲しいゴールに導いている気がしてならなかった。自分はその道を選んで歩いていかなければならないのだと、その「何か」に手を引っ張られているような気がしていた。そしてそう感じていたのは桃音だけでなく、謙志も同じだった。
「むっ、村山さんと……一緒にいたのは……許せない、って……思ったけど……でも、それは……その行動のこと、で……」
謙志の言うとおり、もしかしたらこの先一生、学祭一日目のことを思い出すと、「許せない」という気持ちは何度でも同じ温度でよみがえるかもしれない。あの時感じた怒りの熱は、おそらくそう簡単には冷めないだろう。
だが、だからといって謙志と別れたいとか、ましてや謙志を捨てるとか、そんなことは少しも考えていない。あの日の謙志の行動はたしかに許せないのだが、だからといって謙志のことすべてを憎く思ったわけではないのだ。
「忘れ、ないでっ、ねって……言ったのに……私っ、が……謙志くんを……好きなこと……」
言葉が、声が、息が、何度も喉奥でつっかえる。それでも桃音は、泣きながら続けた。
「好き、なのに……そんな……捨てる、なんて……言わなっ……」
そんな考えてもいないことを、あたかも考えているように思ってほしくない。自分がそんなことを言うという前提になんか、立ってほしくない。
謙志は謙志で、二人の別れという道が見えて怖かったのだろうが、恐れないで信じてほしかった。
「ごめっ……桃音……ごめん……っ」
謙志も追加の涙を流しながら、声をつっかえさせた。
華純を振りきれなかったこと、キスをされてしまったこと、判断を間違えて彼女と一緒にいたこと、桃音に連絡できないでいたこと、桃音が自分を捨てるかもしれないと疑って恐れたこと、こうして桃音を泣かせてしまい、ひどく傷付けたこと。
自分の一連の言動が、何もかもよくなかった。躊躇、恐怖、不信、判断ミス――自分の立ち回りすべてがひどかった。何度謝っても足りないくらいだ。
「俺も……桃音が好きなんだ……」
謙志はごしごしと、自分の頬や唇の端に伝う涙を拭う。今さら取り繕ったところで自分の格好悪さが無かったことにはならないが、せめてもう少し、凛々しい姿を桃音に見せたい。
「こんな……俺、格好悪くて……全然、大人の対応ができなくて……弱くて……まだガキだけど……でも……桃音と一緒にいたい。桃音に……傍にいてほしい」
「うん……ひっく」
桃音はティッシュ箱からティッシュを取り、目元の涙を拭いて鼻をかむ。止まらない嗚咽がまだ、しゃっくりのように続いていた。
「わ、たしも……同じ……気持ちだよ」
自分たちはまだ、大学生だ。社会経験なんてアルバイトしかしていなくて、交友関係だって高校生の延長線ぐらいにしか広がっていなくて、成功も失敗も小さなものばかりで、そこから得られる学びの数だってとても限られていて、うまく立ち回れることのほうが少ないのだ。学祭までは平穏に付き合っていた恋人との関係も、こうして初めてぎくしゃくして、乗り越えられないかもしれないと弱気になった。
でも、もう違う。もうその段階は通り過ぎたのだ。こうして怒って、許しを請うて、泣いて、取り乱して、感情を表出させて、そのうえでまた、穏やかな気持ちに戻っていけるはずだ。
「悪いのは……全部、村山さん! 一時でも私より村山さんを選んだ謙志くんも、その点だけは悪いけど……」
「ああ……本当に、ごめん……もう……絶対にしない。誰が相手でも……」
謙志は俯いてこうべを垂れた。
女子のことはよくわからないが、なんだか繊細で傷付きやすい生き物。男の自分が少しでも強硬姿勢に出れば、いとも簡単に男の自分が悪者にされてしまう。そんな気がして、華純にあと一歩、強気な姿勢に出られなかった。もしも傷付けて泣かせたら、自分が一方的に悪者扱いされるようで、それは避けたいと思っていた。
だが、その思いが巡り巡って華純を増長させたり、桃音を傷付けたりすることになるのならば、自分が悪者になるほうがいい。誰かにとって「悪」でも、それで桃音との関係を――桃音を守れるなら、自分は悪者で構わない。他人に嫌われたくないからという理由で無難な道を選んで桃音に嫌われたら、なんの意味もないのだ。
「その言葉……信じるからね」
桃音は膝立ちをして謙志に近付くと、しゅんと垂れている謙志の頭部を胸の中に抱き込んだ。
「私だって、まだまだガキなんだから……謙志くんを独占したいって思うし、簡単に嫉妬するし……もしもまた、謙志くんが私よりほかの女の子を優先するなら……その時はもう、本当に許せないかもしれないからね」
桃音は謙志の短い襟足をなでて、ジョリっとしたその感触を楽しみながら、少し演技ぶった声音で言った。
謙志は異性にあまり慣れていないが、女の子には十分優しい。新歓合宿の時、薄着でくしゃみをしていた桃音に言葉少なにも上着を掛けてくれたように、寒さをじんわりと暖めてくれるような優しさを持っている。
今はおかしな執着をしている華純にしか狙われていないが、謙志の良さに気付いた女子が、今後謙志を狙うことは十分に考えられる。そうでなくても、派手でわかりやすいイケメンではないが、背が高くて、空手をやっていた体格のいいスポーツマンで、それでいて勉強もできて真面目なのだから、将来の相手としてはとてもいい物件だ。大学を卒業して社会人になれば、今度はそうした視点で謙志を品定めして狙ってくる女性が現れるだろう。
そう考えると、自分で言ったことではあるが、桃音は心底思った。
おそらく、謙志が一瞬でも自分以外の女性に視線を向けたら、本当に許せないだろうと。その時は本当に、自分が謙志を「捨てる」かもしれない。
自分の中にずいぶんと醜く嫉妬する「女」の面があることに桃音は驚きつつも、そんな自分を消すことはできそうになかった。
「絶対にしない。桃音以外の女子とは、最低限しか関わらない」
「それだと、謙志くんの交友関係が狭まっちゃうよ」
「いい。これまでも、女子の友達なんていなかったんだし……桃音がいれば、俺はそれでいい」
ずいぶん極端なことを言う。桃音はそう思ったが、たしかに話を聞く限り、謙志は将樹のように気軽に異性と友達付き合いをしていたわけではない。異性の友人や知人がいないと勉強が困るとか就職が困るとか、おそらくそんなこともない。謙志が飛び込もうとしている業界――プロ野球選手のトレーナーという仕事はきっと男性ばかりだろうし、女性とは事務的な会話が滞りなく成立すれば、問題はないのかもしれない。
「俺は……桃音がいい」
謙志は桃音の細い腰に両腕を回して、頭を押し付けるように桃音の身体を抱きしめ返した。




