第29話 泣いてぶつける本音(上)
(大丈夫……大丈夫……)
そして次の日、木曜日。
三時限の講義が終わった桃音は、少しだけ教室に居残った。今日は謙志も三時限終わりなので、急いで移動するとキャンパス内で鉢合わせしてしまう。大学内で彼と顔を合わせるのはまだ気まずくて、それを避けるために、謙志の家に行くのは少し時間を置いてからにしようと思ったのだ。
(謙志くんの部屋に……二回目に行った時を思い出すなあ)
気付けばもう五カ月も前のことだ。
将樹の計らいで謙志にカフェへ呼び出され、「また部屋に来てほしい」と言われた。あの時はまだ、様々な感情が揺れたり、混乱したりしていて、とても落ち着かない気持ちだった。けれど彼とまた、一言では言えないようなえっちなことをしたくて、そして実際にしたその行為はとても気持ちよくて、興奮することだった。自分からガツガツと求めることはしないのに、常に物欲しそうな目をしている謙志がかわいくてかわいくて、彼とゆっくりと、互いの間にある境界線をなくすようにふれ合えるのは本当に嬉しいことだった。
(最初は身体だけ、って感じだったかもしれない。でも……)
雨の日に始まった、謙志とのふれ合い。けれど、決して身体だけを求めたわけではない。彼とえっちなことをする前から、話すたびに彼のことが気になり、惹かれていった。一人の女として、一人の男である謙志のことを好きになった。夏合宿で晴れて恋人になれて、本当に嬉しかった。そして、謙志へのその気持ちは、今も変わっていない。
(村山さんのことがあっても……)
学祭はなるべく一緒にいようね、一緒に回ろうね――その約束は果たしてもらえなかったが、だからといって謙志を嫌いになったわけではない。
自分ではなく華純と一緒に腕を組んで歩いていたことはひどい裏切りだと思うし、とても悲しかった。あの時感じた怒りの感情は、きっかけがあればいとも簡単に再燃すると思う。それでも、自分の中にある謙志を好きだと思う気持ちが消えたわけではない。
(自分のその気持ちを、しっかり軸に……)
桃音は腕時計を見た。三時限が終わり、もう間もなく四時限が始まる。この教室も次の授業があるようで、見知らぬ学生たちが続々と集まってきている。
(行こう……)
コートを着てバッグを肩に掛けると、桃音は教室を出ていく。そしてゆりのき通り、レンテバー駅を過ぎて、まっすぐに謙志のマンションへ向かった。
エントランスに着いた桃音は深呼吸をしてから、謙志の部屋番号を押して呼び鈴を鳴らす。するとすぐに「どうぞ」という謙志の声が聞こえて、ガラスドアが開いた。
(大丈夫……別れ話をするわけじゃない……)
狭いエレベーターの中で、自分の心臓の音がとてもはっきりと聞こえる。
桃音は何度も何度も自分を励ましながら、エレベーターを降りて外廊下を歩き、謙志の部屋のインターフォンを鳴らした。
すると、応答の返事もなく玄関ドアがいきなり開いたので、思わぬ流れに桃音はびくりと身をすくめた。
「上がって」
「あ……はい……」
桃音が玄関に入ると、謙志が桃音の背後に手を伸ばしてドアの鍵をかける。
桃音は恐る恐る靴を脱いで上がり、短い廊下を進んだ。
「コート、預かる」
「あ、うん……」
ハンガーを手に持った謙志にコートを渡すと、桃音は洗面所に行って手洗いとうがいをする。そして、謙志のこの部屋にいる時の定位置である、ローテーブルのすぐ傍、ラグの上に横座りになった。
「…………」
「…………」
謙志とこうして二人きりで会うのは、休講期間前のいつかの昼休み以来、十日ぶりぐらいだろうか。そんなに時間が経ったわけではないはずなのに、二人の間には実際に過ぎた時間よりも何倍もの時間が経過したかのような、重苦しい距離があった。心なしか、室温もきゅっと締まるように冷たく感じる。
(話を……しなきゃ……)
謙志を前にしてうまく話せなくなるのは、久しぶりのことかもしれない。
付き合う前、自分の気持ちも相手の気持ちもまだどこかふわふわしていた頃は、いつも奥手な面が出てしまって、決して積極的にはなれなかった。謙志と世間話をすることすら、探り探りの状態だった。
(今は、もう……違うんだから……)
謙志とは付き合っていて、恋人同士で、そしてこれからもこの関係でいたいと思っている。そのためには、いま自分たちの間にある、こんがらがった糸をほどかなければ。
「ごめん……」
「っ……」
ラグの上で片膝を立てて座っている謙志は、ぼんやりとローテーブルの上を見つめながら小声で切り出した。
「学祭……一緒に回れなくて……」
「あっ、うん……」
ごめん、もう別れよう――そう言われるのかと桃音は一瞬怯えたのだが、謙志の謝罪は学祭のことだった。
「村山さんと一緒に……回っていたんでしょう……?」
学祭一日目のことを思い出して、桃音の声は黒くなり、棘を含んだ。
あの時の謙志は嘔吐するほど華純に対してストレスを感じ、身体に不調をきたしていた。かわいそうな状況ではあったが、桃音との約束を反故にして華純と一緒にいたことは、紛れもない事実なのだ。
「なん、で……?」
あの日の気持ちがよみがえる。前日の夜から返事や連絡は何もなく、ずっと心配してやっと見つけた謙志は華純と一緒にいた。それが悲しくて悔しくて――。
「なんでっ……なんで、村山さんっ、と……」
華純以外の別の女性だったなら、また少し、感じ方は違ったかもしれない。
だが、ずっと拒絶していたはずの華純とどうして一緒にいたのか。「ごめん、一緒に回れない」という一言の連絡もなく、こちらを無視するような態度をとったのか。
「っ……ひどいよ……っ」
桃音の視界が、まるで水に溺れたように濁る。しょっぱい涙が一気に溢れて頬を伝い、桃音はこらえきれない嗚咽を漏らした。
「ひっく……なっ……んで……?」
詰まるような息遣いをしながら、桃音は涙の溢れる瞳で謙志を見つめた。謙志はまだしばらくテーブルの上を見ていたが、ふいに膝立ちになると、前方から両腕を回して桃音を抱きしめる。
「ごめん! 桃音、本当にごめんっ! 本当に……俺が悪かった!」
そして、謙志は声を荒らげて謝罪した。
「俺……俺は……間違えたんだ……」
謙志はそう呟くと、桃音を抱きしめる腕に力を入れた。
絶対に、絶対に失いたくないこの腕の中の愛おしい存在。けれど、桃音を失ってもおかしくないほどの判断ミスを自分はした。
「言い訳にしかならないけど……聞いてくれないか」
謙志はゆっくりと桃音から離れると、ラグの上にあぐらをかいた。
「学祭の……前日だった。村山に話しかけられて、相手にしないように離れようとしたんだけど……キス、されたんだ……。一瞬のことで避けられなくて……それで、村山に言われたんだ。好きだって……もう一度やり直せないかって……。もちろん、俺は断った。俺はもう、村山のことが全部、嫌だから……」
「じゃあ……どうして……?」
桃音はまだ泣きながら、続きを問うた。
「村山はわかったって言って……それで引き下がってくれると思ったんだ。でも違った。せめて思い出作りのために、学祭を一緒に回ってくれって……でないと……俺とキスしたことを、桃音に言うって……」
謙志は弱々しい声でそう説明した。
「俺は……村山と一緒に学祭を回りたいなんて、少しも思っていなかった。キスだって、村山に勝手にされたことで……したくてしたわけじゃない。でも……もし桃音に知られたら、桃音に幻滅されて……嫌われるかも、って……」
謙志は片手で自分の口元を覆った。せめてそこから嗚咽が漏れ出ないようにしたつもりだったが、謙志の両目からは情けなくも涙が一筋こぼれてしまった。それに、段々と喉が詰まり、息苦しくなってくる。
「村山と、キスしたなんて……桃音が知ったら……きっと、嫌われる……別れるって……言われる、かもしれないっ……そう思ったら……怖くて……それは、絶対に嫌でっ……だから、桃音に知られないようにするために……村山の言うとおりに、する……しか……ないと、思ったんだ……」
「謙志くん……」
「ごめん……本当に、ごめん……っ! 俺、間違えた……そんな、ことで桃音は……」
華純に付きまとわれ、告白され、そして身勝手にもキスをされた。謙志はただの被害者で、謙志自身に落ち度や、やましいことは何もない。素直に話せば、桃音はそう理解してくれたはずだ。華純から一方的にキスをされたことぐらいで「嫌い、別れて」なんて、桃音が言い出すはずがない。自分に向けられている桃音の愛情は、それくらいのことで枯渇するほど軽くない。そう信じることができたはずなのに、自分はできなかった。判断を間違えて、華純に従ってしまった。
「俺の、ことっ……嫌いになんか……ならないのに……。俺、桃音を信じきれなくて……保身ばかりで……っ」
学祭一日目、華純と一緒にいる時にも十分自覚していたのに。自分の行動は間違っていて、すぐにでも正すべきだと。華純の腕なんかさっさと振り払って、桃音に連絡をとって、事の次第を全部説明しておけば、こんなふうにぎくしゃくする時間が長引くこともなかった。桃音を傷付けて泣かせることもなかった。
「そういうこと……だったんだね」
桃音は自分の頬に流れる涙を指先で拭う。それから、テーブルの上にあったティッシュ箱を謙志に差し出した。謙志は鼻をかみ、桃音も鼻をかんで呼吸を落ち着ける。二人とも、涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「私……村山さんのこと、大嫌い。こんなにも人を嫌いになったの、人生で初めてかもしれない、ってくらいに……大嫌い」
「ああ……俺もだ」




